モリノスノザジ

 エッセイを書いています

☆゚+.ステップアップ☆プリキュア(??%)+.☆ ゜

 あたらしいプリキュアシリーズ「スタ-ー☆トゥインクルプリキュア」のスタートを前に、万全の予習をすべく「スター☆トゥインクルプリキュア」のHP(スター☆トゥインクルプリキュア :スタプリ | 東映アニメーション)をひらいてみた。初回放送前の現時点では、「ニュース」・「作品情報」・「キャラクター」・「ミュージック」・「グッズ・本」・「イベント」の6項目が見られるのだが、やはり気になるのはキャラクター。トップページの集合イラストを見て一番気になったキュアミルキーを選ぶ。かわいい。

惑星サマーン出身の宇宙人。

 と思いきやいきなり宇宙人であることを明かされる。惑星サマーンて。そんなワードを急に出されても戸惑ってしまう。猛烈な勢いでプリキュアワールドに引き込もうとする謎の力に屈しないよう足元を踏みしめながら、読み進める。

 地球の年齢では13歳だが、惑星サマーンでは大人扱い。
フワとプルンスと一緒にロケットに乗って伝説の戦士プリキュアを探す旅をしている最中、フワの力で地球にワープしてしまう。責任感が強くて真面目だけど、ちょっと抜けているところも。チャームポイントは頭についたセンサー。天の川のプリキュア「キュアミルキー」に変身!

 う、うむ。なるほど。最初の一文のインパクトが強すぎただけで、残りはそれほど動揺がない。ひっかかるのは頭についてるセンサーくらいだけれど、宇宙人であるという事実を受け入れた今では何てことない。

だいじょうぶ、大丈夫だぞと言い聞かせながらスクロールする。

☆口癖
「~ルン」「オヨ~」

オヨ…。

え…。

オヨ…。

 他のキャラクターの口癖は「いいねぇ」とか「ごきげんよう」なのに、この口癖はいったいどうしちゃったというんだろう。主人公の口癖「キラやば~っ☆」なんてもはやどうでもいい。あれかな?宇宙人だからなのかな?それとも、プリキュアになるためにはこんなふうに一癖ある口癖のひとつやふたつ持ってなければならないのだろうか。そ、それって…オヨ~っ!すっごく大変☆

…。

 気を取り直して、作品情報のページを読んでみる。

わたし、《星名ひかる》!
宇宙と星座がだ~いすきな中学2年生。
星空を観察しながらノートに星座を書いていたら
とつぜん謎の生物《フワ》がワープしてきたのっ!

う。うむ。大丈夫。

それから、空からロケットが落ちてきて、

…大丈夫なん?

宇宙人の《ララ》と《プルンス》まで
やってきた!
…あなたたち、ホンモノの宇宙人!?
キラやば~っ☆

出た。

地球から遠くとおく離れた《星空界》の
中心部にある聖域《スターパレス》では
《12星座のスタープリンセスたち》が
全宇宙の均衡を保っていたらしいのだけど…

なんだか突然の専門用語ラッシュ。

あるとき何者かに襲われて、プリンセスたちは
《12本のプリンセススターカラーペン》になって
宇宙に散らばってしまったの!
このままじゃ星が消えて、
地球も、宇宙も、闇に飲み込まれちゃう…!

こちらも唐突に大変な展開。

『星々の輝きが失われし時、
トゥインクルブックと共に現る戦士プリキュアが
再びの輝きを取り戻す』
(中略)
「フワを助けたい!」そう強く思った瞬間、
《トゥインクルブック》から
《スターカラーペンダント》と
《変身スターカラーペン》が現れて、
わたし、プリキュアに変身しちゃった!?

 あ、あれ…。

 なんだかだんだん、独特ワードの連射と高いテンションについていけなくなってきた、ルン。しかし、こうして書き写していくことで理解が深まり、少しはプリキュアに近づいてきた気もしてきたルン!きっと、プリキュアになれる日もそう遠くはない、ルン…?

 

 プリキュアへの道は高く険しいことを知った私であった。

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消費はあまねく悪なのか

 年末に留め具がこわれた弁当箱を、それでもまだ使っている。あたらしいのを買わないのは、容量が十分でデザインが気に入る弁当箱がみつからないからだ。みためを気に入って手に取ってみると容量が少なすぎたり、かといって1100mlなんてとても食べられない。妥協して特に気に入らないのを買う気にもならず、仕方がないのでこわれた弁当箱をそのまま使い続けている。壊れているのは留め具だけで、慎重に持ち運ぶぶんには支障がないのが幸いだ。

 ついでに言うと、今は弁当箱専用の袋を別に持ち歩いているのだが、できれば通勤用の鞄に入るものがいい。とはいえ今使っている鞄にはそもそもこれ以上物が入れられない。そう、ちょうどもう少し大きめの鞄がほしいと思っていたところだったのだ。そうだな、この機会に鞄も買い替えてしまおうか…なんて考えながら、なんとなく罪悪感を感じてしまう。なんなのだろう。不必要なものを買うわけでもなく、身の丈に合わない金額というわけでもないのに、あたらしいものを買うときにはいつも罪悪感が付きまとう。

 

 私は、とにかく節制してお金を貯めることだけが大事だとは思わない。大事なのはお金と交換に何を得るかということであって、お金そのものは単なる交換手段に過ぎない。といっても、お金を貯めることそれ自体が無意味と言いたいわけではない。なかには家や車のように、たくさんのお金がなければ手に入らない物もある。手に入れるべきものが高額なのだとしたら、それを手に入れるために貯金をすることはは合理的だ。ただ、それと引き換えに交換すべきもの無しに、ただお金を貯めることだけが目的になってしまうのは、何か間違っていると思う。

 お金は単なる交換手段に過ぎなくて、大事なのはお金と何を交換するかである。とは言うものの、何と交換をするのが、つまり何にお金を払うのがよいことなのか、私にはまだよくわからない。本当は30代になるまでに分かるようになりたかったけれど、結局わからないままだ。だから、新しい弁当箱を買うにも、たまの外食をするにも迷って罪悪感を感じたりしてしまう。お金と引き換えに価値ある何かを手に入れられればいい、おいしいっておもったり、キャベツの千切りが楽にできるようになったり、そういうのでいいって思うのだけれど、それはただ単に自分の欲求を肯定するための理論に過ぎないような気もして、どうにもすっきりしない。

 

 お金なんてなかったころ、原初の私たちのくらしを考えてみる。朝目覚める寝床も、身につけている衣服も、お昼に食べる猪肉も、それを切り裂くためのナイフも、みんなそれぞれが自分でつくらなければならない。けれど、人間が集団でくらしはじめることによってそんな生活もすこしずつ変わっていく。ミヤコには役人という職業の人がいて、彼らは自分たちが生きるために必要な食料も、衣服もつくらない。ではどうするのかというと、ミヤコからもらったオカネを食べ物と交換してもらうのだ。食べ物の代わりにオカネを受け取ったムラの人は、オカネを税金としてミヤコに支払う。こうやってオカネはしばらくの間ミヤコとムラとの間を行き来していたのだが、質が一定で信用力のある貨幣が製造されるようになると、一般の人同士の間でもやり取りされるようになる。そして、役人ではない一般の人々がどうしてお金を必要とするかというと、お金は米などとは違って腐らないし軽くて持ち運びがしやすいというのもあるし、もう一つは、自分が必要とするすべての物をすべて自分でつくるような時代ではもはやなくなったからだ。農家は米を、餅屋は餅をつくる。そうやって物(=価値)づくりの専業化と効率化がすすんだ先に私たちの社会がある。

 そう考えると、私が自分でつくることができない物に対してお金を支払うことはまったく自然なことのように思えるし、お金を払う代わりに私は私が社会で果たすべき役割を果たしていればいいんじゃないかと思えてくる。しかし、なんというか結局は物が欲しい私の考えることなので、どこからどこまでもっともなのかよくわからない。というか、そもそも物が欲しいのって悪いことなんだろうか?なんだかもやもやしながら、弁当袋のなかで半開きになっている弁当を見ながら、とりあえず弁当箱は早めに買い替えたほうがよさそうな気がしている今日この頃。

☆゚+.ステップアップ☆プリキュア(20%)+.☆ ゜

 

 一年には12カ月があることに気が付いてしまった。つまりどういうことかというと、一か月にひとつ目標を立てて、仮にそれをすべて実現することができたとしたら、私は一年間で12コもできることが増えるのだ。二週間にひとつなら一年間に24コ。一週間にひとつなら一年間に48コ。いちねんという短い期間に48コもあたらしいことができるようになるなんて、まったく想像もつかない。それをやり遂げたあかつきには、2019年末、私は玉乗りしながら手品するくらいのことを軽くやってのけるようになっているのではないか。

 

 ということで、今月のテーマは「笑顔」なのであった。PCに向かっているとついつい眉間に顔が寄ってしまう私だけれど、その点素敵な大人にはかならず笑顔がある。いつもニコニコしているのも良いが、ちょっとしたタイミングにピンポイントでニコっとするのもさわやかで良い。私がめざすpre・cureにとっても笑顔は必須スキルであり、避けては通れない関門である。

 そうと決めてから、私は暗いデスクトップや地下鉄の窓ガラスに映る自分の顔をみて笑顔の練習をした。無理やり口角を上げて笑顔のかたちをつくってみる。ちょっと角度を変えて、ななめから見てみる。口のまわりの筋肉をゆるめてみる。そうしているうちに、笑顔にもいろんな種類があることに気がついた。いままでは笑顔は一種類だと思っていた。だけど、なんだ、スマイリーみたいにわざとらしく口角を上げた笑顔より、閉じた唇の端が左右にねころぶみたいなリラックスした笑顔のほうが似合ってるんだなって思った。今まで自分は笑顔が苦手だと思っていたけれど、なんだかこの笑顔ならやっていけそうな気がした。

 

 抜き打ちテストは突然にやってくるものだ。デスクで書類を整理していると、隣に座っている先輩から声がかかる。

「昨日家に帰ったらさ…」

先輩のいるほうへ顔を向け、すかさず笑顔。

決まった。

 

 玉乗りしながら手品する年末の私まで、あと11/12だ。

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いつまで見てるの?

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  ミュージカル映画は総じて好きだけれど、なかでも『シカゴ』はとくに好き。どの曲も印象的なのだが、2時間近くある映画のなかで一番好きなのは「Cell Block Tango」だ。浮気相手を殺害した主人公・ロキシーは収監された刑務所のなかで、夜なか、蛇口から水滴がしたたる音で目を覚ます。看守の靴底が床をたたく音、収監者が鉄格子を爪で叩く音、マッチを擦る音やつぶやきが重なりあって、やがて音楽がはじまる。この、ばらばらでひとつひとつは単純なリズムが組み合わさって音楽がはじまる様子がとてもゾクゾクして好きだ。もちろんそのあとの歌にダンスに6つの〈殺人現場〉もめちゃくちゃにシビれてかっこよく、このチャプターばかり何度も繰り返し見てしまう。最後には重なり合ったリズムがふたたびばらばらになってフェードアウトしていくのもすごくいい。

 どうしてこの曲が好きかというと、水音や靴音みたいに身近なところにある音の重なりから始まるところだ。ミュージカル映画とちがって、どこまでも平凡な私の人生にオーケストラの演奏はない。けれど、机を指でたたけばリズムが生まれる。キーボードを打つ音やアイロンが吐く蒸気、食堂の食洗機。きまったリズムの繰り返しは生活にあふれている。そうした音たちが「Cell Block Tango」のように奇跡的に出会ったとしたら、私も歌えるんじゃないだろうか?ミュージカル映画の主人公のように。

 

 大人はみんな社会人になったら、結婚したら、歳をとったら「できないよ」と言う。一人旅も留学も、服にお金を使うことや外国語の勉強をすること、週末はライブ三昧。そんな言葉を聞いてきて、私はずっと、できないんじゃなくてしないだけだと思っていた。経済的な問題を別にすれば、結婚したって子どもがいたって、まったく海外旅行に行けないなんてことはないだろう。結局のところ「結婚したら海外なんて行けないよ」という人は、独身とか既婚とかいうことは関係なく、ただ海外旅行に行かないだけなのだ。

 …なんて、思っていたけれど、実際の自分を見てみたらどうだろうか。いつか〈奇跡的に〉音楽が始まることを待ちながら、「Cell Block Tango」をうっとり見ているだけの毎日。自然に、奇跡的に歌えるなんてことはありえない。私自身が行動に移さなきゃ人生はなにも変わらないというのに。

 

 夢とかやりたいこととかそんな大きなことを言わなくたって、私には会いたい人がいっぱいいる。今は別の職場にいる元上司や昔教わっていた先生、学生時代の友達、まだ会ったことはないけれど、あの人やあの人。「会いたい」って言えば簡単に会えそうな人だっている。けれど、「会いたい」って言葉はなかなか簡単には口に出せない。向こうは特に会いたいなんて思ってないかも。忙しそうだから迷惑かも。そんな思いが引っかかる。だけど多分、私が「会いたい」って言わない限り絶対に会えない人だっているんだよな。その人に会えるか会えないか、その分岐器のレバーは私が握っているのに、いつまで私は「会えない」の方向に走っていく列車を黙って見つめているんだろう。

これは私の内臓

 私の部屋には内臓がふたつある。寝室にひとつ、居間にもひとつ。高さはどちらも2メートルくらい。ひとりぐらしの部屋に置くのに小さくはないサイズだけれど、半年に一度のボーナスに合わせて購入した大量の本を詰め込んでいくとすぐ余裕がなくなってしまう。そろそろみっつめの本棚が必要かもしれない。

 

 半年間かけてつくった「ほしい本リスト」をもとに年2回、まとめて本を買う。同時に本に既にある本を点検して、未読のまましばらく積んだままにしている本があれば処分を検討する。まるで本棚の衣替えだ。

 「ほしい本リスト」に入れる本の基準は主にふたつある。ひとつは、図書館などで借りて読了済みで、ぜひ手元に置いておきたいと思った本。もうひとつは未読だけれど著者やシリーズの新刊が出れば買うと決めている本だ。本当にたくさんの本が出版されているけれど、そのすべてが「当たり」だとは限らない。とにかく文章が読みづらいとか、情報が古い・誤っている本、正確だけれども自分が期待している内容が書かれていないなど「はずれ」本はたくさんある。ほしい本リスト入りに基準を設けるのは、はずれ本を購入してがっかりするのを避けるためのひとつの方法だ。

 

 しかし、そもそも本って買う必要があるんだろうか?図書館で借りるとか、最悪の最悪立ち読みすることもできる。食べ物はお店で見ているだけでは意味がないけれど、本は目に映る情報がその価値の大部分を占めているのだ。一度読んだことのある本となればなおさらである。中身を知っている本にわざわざお金を払ってまで手元に置いておく必要はあるのだろうか。

 本を買う理由として、例えばこんなものがある。
(1)よい作品にお金を払うことで、著者や業界に対する支援につながる
(2)コストをかけることで一生懸命本を読もうとする
(3)所有欲が満たされる
(4)読みたいときにいつでも読める
(5)自由に書き込みができる

 このなかで私の考えに近いのは(4)だ。歌集など発行部数が少ないものは買えるうちに買っておかなければ手に入らなくなってしまうというのもあるけれど、やっぱり一番は本を手近に置いておけることだと思う。本は読みたいときが読み時で、それを逃すと好奇心の火がシュンと消えてしまう。たとえば、TVドラマを見ながら「覚せい剤ってどんなものだったっけ?」と薬物図鑑をひらきたくなったり、小説を読みながらふと太平洋戦争開戦当時のイギリス首相が誰だったか調べたくなることがあるかもしれない。けれど、そういった一瞬の「?」は長続きするものではなく、たいていの場合はわざわざ図書館へ行って本を借りることもない。なんだか気になるなあ、と思いながら次の瞬間には新商品のCMに目を奪われている。近くに本がない場合には。

 しかし、手元に本があれば疑問がうまれたときにすぐ調べることができる。それに、知識はほかの知識と関連付けられることでよりしっかりと頭に刻まれ、知識と知識のつながりは世界を広げる。そういった意味では、同じ本であったとしてもそのとき読み手が持っている関心に応じて読まれる角度は変わるし、どのような関心を持って読まれるかによって無限の読み方があるのだ。前回読んだときにはスルーしていた一行が、とんでもなく重要な一行としてくっきり見えるようになることもあれば、小説を読んで前とは違う登場人物に同情することもある。本は一度に全部読まなければならない、ということはないけれど、できるだけ近くに置いて、興味関心に合わせたつまみ読みを何度もできるほうがいい。

 

 そう考えていくと、本棚は臓器と似ている。

 人間の身体は、体外から取り入れた食物を体内に一時的に保管し、分解して栄養を吸収する。吸収した栄養によって血や肉がつくられ、栄養がなくなったかすや異物は排泄される。一方、本棚には本が置かれ、人はそれを読んで知識を得たり考えを深めたりする。本を読むことで得た知識を、人はそれぞれの関心に応じて活用する。不要な本や役に立たない本は定期的に処分する。どちらもいろいろな種類の食べ物を偏りなく摂取することや、複数の食べ物を組み合わせて栄養を効果的に吸収することが大事だ。

 そして、お腹も本棚も、できるだけ停滞せずに活発に動いているほうがいい。気に入った本はいつでも手を伸ばせるよう整理しておいたほうがいいし、単に本棚の肥やしになっているような本があればきれいに片付けて新しい知識をむかえ入れる余裕を常に持っているほうがいい。

 あなたの内臓はきれいですか?