モリノスノザジ

 エッセイを書いています

着衣のススメ

 いつもは裸なのだけれど、今日みたいに特別寒くて身体が冷える日には服を着ることにしている。半袖シャツを一枚、それだけで十分だ。Tシャツを着ているぶん、露出が少ないはずなのに、普段と違うためかなんとなくくすぐったいような気持ちになる。
 
 風邪の予防法として、イチオシの方法がある。毎年冬が来るたび、必死に周りに説いているのだけれど、どういうわけか「またまた!」といった感じで流されてしまう。ダイエットからプリキュアになることまであらゆることにとことんまじめに取り組んでいるこの私が、風邪予防という日常生活を送るうえで避けては通れない問題に関してどうして冗談半分で取り組むと考えるのか。私は本気です。

 私がおすすめするのは、Tシャツを着てお風呂に入ること。衣類は濡れると脱ぎにくくなるので、大きめのシャツを着るといい。湯舟から出ると急速に熱が冷めるので、洗い場ではシャツを脱ぐようにすること。お風呂を出た後は、Tシャツをしっかり絞ってハンガーにかけておくとほどよく部屋を加湿してくれる。

 なによりも服を一枚着るだけで驚くほどに身体がぽかぽかになるので、風邪をひきそうなとき、冷え性の方にもおすすめだ。だまされたと思って、一度やってみませんか?

 

今週のお題「冬の体調管理」

いろんな洋服があります

 左利きとしての経験を描いた漫画と、それに関する記事(迷惑かけてすみません…"左利き"に苦しめられた幼少期描く漫画 母が矯正しなかったワケが… | オトナンサー)を読んで泣いた。今思い出してまた涙が出た。

 私自身も左利き、それもお箸に鉛筆、ラケット、歯ブラシ、あらゆる物を左手で使う生粋のサウスポーだ。例によって習字だけは右に「直された」けど、そのおかげでホワイトボードや黒板であれば左右同時に文字が書けるようになった。

 左利きにとって敵はスープバーのお玉であったり、駅の改札であると思われているのかもしれない。けれど、実際は違う。たしかに世の中のあらゆる道具は右利き用につくられているけれど、そんなものにはもう慣れた。缶切りは左手で持って手前に動かすし、蛍光ペンも右から左に引く。定規は裏返して使ってもメモリが見えるように透明なのを選ぶし、左手で使っても札がさかさまにならない財布を選んでいる。ハサミなど、右利き用を無理に左で使うのはハサミの原理から言ってうまくいかないはずなのだけれど、今のところ問題になったことはない。そんなことより一番くやしいのは、右利きの他人からかけられたこころない言葉、なかでも漫画にも描かれている「親がちゃんとしつけなかったんだね」の類だった。

 正直なところ、私は親に厳しくしつけられたほうだと思う。高級料理店で通用する作法を教わるまではないにしても、庶民としては申し分がないレベルのはずだ。それが、左利きというだけで「みっともない」とか「行儀が悪い」と言われる。頬杖をついているあそこの右利きの人は?食べながらしゃべってるあの右利きの人は?私は箸を左で持っているだけで、行儀が悪いのだろうか?

 と言っても、左利きパーソンに対してあからさまな嫌悪感をぶつけてくる人は一部だし(心のなかではどう思っているかわからないが)それも圧倒的に年配の方だ。多分かつて、いや2~30年前まではそう考える人が多数だったのだろう。すでに根付いてしまった価値観を変えるのはむずかしいから、そういう考えの人が存在するのも仕方のないことだ。でも、たった数十年であっても価値観は変わりゆくものだ。自分の価値観が唯一絶対のものと純真に信じて他者に表明することは、誰かを傷つける可能性のあることだと知ってほしい。

 世界はだんだん「多数派=善」という単純な構図でできているわけではないことに気が付きはじめているみたいだ。それは「多数」の側に所属しない生き方を追求する動きであったり、多数が下した選択によって社会に混乱がもたらされている事実であったり、さまざまだ。左と右にはそれ自体なにも違いがなく、左手と右手もまた道具としてどちらが優れているとかどちらが劣るなんていうことはない。左利きを差別する人は、ただこの世の中で右利きが圧倒的多数であるというだけで差別をしている。それと同じように多数を占めているもの・ことが、それが多数であるというだけの理由で「正しい」と信じられているのであれば、本当にそれが正しいのか考えなおさなければならない。異性を好きになることや結婚して家族をもうけること、パートナーとはセックスをすること、子どもをつくること、昇進を目指すこと、健康であること、SNSを使うこと、ここにいない誰かの悪口を言うこと。多数の人が自然にしている「それ」は、多数の人がそうだから正しいのだろうか。

 近年さまざまな観点から見た〈少数派〉に光をあてる動きが活発で、私はそのことをいいことだと思っている。なぜだかわからないけれど人生が自分にフィットしない、生きづらいと感じている人はいるはずで、そうした人にとってのヒントになると思うからだ。〈多数派〉を着て生きてきたけど、本当はもっと似合う服があるんじゃないかと考える。そうやってあたらしい洋服の選択肢が与えられるといい。最終的に〈多数派〉を選んだとしても、考え抜いて選んだ結論には納得があるはずだ。そして、そのときその人が最終的に何を選ぶかというのは、徹頭徹尾その人自身の問題であって、本来赤の他人には関係のないことのはずである。思い悩んだ末にようやく自分にぴったりな洋服をみつけた人に対して「キモい」とか「異常だ」とかこころない言葉を投げかける人が存在するのは悲しいことだけれど、それはまったくとんちんかんなふるまいだとしか言いようがないし、そういう人は多分一着の洋服しか見たことがないんだろう。

☆゚+.ステップアップ☆プリキュア(10%)+.☆ ゜

 プリキュアになりたい。なんてったって、pretty(かわいい)かつcure(癒し)なのだ。職場にいたらモテるタイプである。才色兼備とか文武両道、眉目秀麗みたいないかにも隙のないキャリアパーソンがあこがれの的だった時代は終わった。これからはpre・cureがモテの代名詞となるのだ。

 とはいえ私とプリキュアとの距離は遠い。いったいどうすればプリキュアになれるだろうのか、と考えながら真っ黒なPCディスプレイに目を向けると、そこには瞳に生気を欠いた私の顔が映っていた。

 本家プリキュアと違って立体的な顔立ちの私はまぶたもやはり立体的で、そのまぶた一定の厚みのしたで瞳はどこまでも黒かった。ああ、これはプリキュアじゃない。プリキュアはこんな瞳をしていない。これではプリキュアになどなれるはずがない。

 試しに、ディスプレイから目を離さずにゆっくりと顎を持ち上げてみる。ある高さを過ぎると、瞳にチラッと光が差す。ああ、そう。こんな感じ。本家プリキュアはこんなふうに瞳が輝いているし、瞳に光があるほうがどうみたってprettyだ。これからは、もうすこし顔を上げて生きよう。瞳に光を宿して生きていこう、と決意する。

 すこしだけプリキュアに近づいた気がした。

ティッシュ配りと人の情

 sotto_voceさんは天国に行けないらしい。それというのも、街頭でティッシュ配りに出くわして、どうしてもティッシュをもらいたくない日には、他人を盾のように使ってティッシュを回避するからである。

dolce-sfogato.hatenablog.com

 

 なんということだろう。ナチュラルボーン人盾使いにしてそのことに対して一度たりとも罪悪感を抱いたことのない私は、何度地獄へ落とされれば赦されるのだろうか。

 sotto_voceさんが人盾の行使に対して感じている罪悪感、それは「他人を盾にするのは卑怯」というものだ。しかし、他人を盾に街頭ティッシュを回避することは本当に悪なのだろうか?街頭で配られるのがティッシュではなくダイナマイトだとしたら、そしてそれを手に取った瞬間ダイナマイトが爆発するのだとしたら、人盾はある程度悪だろう。けれど、ティッシュはダイナマイトではない。爆発しないし、役に立つ。私は〈ティッシュはもらいたくない派〉だが、世の中には一定の割合で〈ティッシュほしい派〉が存在する。大半は〈どうでもいい派〉だと思われるが、そういった層を含めティッシュをもらうことに対して抵抗感を抱かない人はある程度いるのではないだろうか。

 「他人を盾にするのは卑怯」という考えの裏には、「他人もティッシュをもらいたくない」という前提が潜んでいる。しかし、多くの人がティッシュをもらうことに強い抵抗を抱かない以上、人盾使いは卑怯でもなんでもないのだ。

 私は基本的に、ティッシュやチラシ、試食の類は一切受け取らないことにしている。人盾を駆使してうまく回避することもあるし、ストレートに「すみません」と断ることもある。しかし、よく考えたらこの「すみません」もいったい何に対してすまないのかよくわからない。私がティッシュを受け取らないからといってノルマがはけずにいつまでも配り続けなければならないということもないだろうし(そもそもノルマがないかもしれない)、善意で配っているわけではないのだから不義理を恥じるいわれもない。あえて言うなら、ティッシュを断るのはアルバイトさんに申し訳ない、かわいそうという感情だろう。sotto_voceさんも『面と向かって断るのは申し訳ない』と書いている。しかし、ここにティッシュを配る企業の戦略があるのだ。

 そもそも、この21世紀において企業がいつまでもティッシュ配りというアナログな方法を採用し続けるのはなぜだろうか。WEB、テレビ、ラジオ、雑誌、新聞、その他ありとあらゆる種類の広告があるなかで、なぜティッシュを配り続けるのか。

 まず、街頭でチラシを配ることで特定のターゲットに狙いを定めることが可能になる。例えば「平日昼にイオン〇〇店に出入りする女性で、眼鏡をかけている人」とか。広告が響きやすい層にうまくチラシを打ち込めば、広告効果も上がるだろう。さらに、人から人へチラシを手渡しすることで、商品や店舗への誘導可能性が高まっている可能性もある。また、単なるチラシではなくティッシュがもらえるとなれば、広告を受け取る人は増えるだろう。

 これに加えて、先ほど書いた「断るのはアルバイトさんに申し訳ない」という感情がある。企業は顧客へ向けて広告を打つ。アルバイトはその間に立って、預かった広告を配っているだけである。広告の受け取りを断ったからといってそのアルバイトの人格を否定しているわけではない(チラシが気に入らないとしてもそのアルバイトが気に入らないのではなくて、その企業が気にいらないのだ)し、それによってアルバイト代が支払われないということもない。街頭ティッシュ配りはいわばWEBのポップアップ広告のようなもので、それを閉じ(断)ろうが見よ(受けとろ)うが受け手の勝手なのである。しかし、企業と顧客(=私)との間にアルバイトという人が介在することによって、「断ったらアルバイトさんが悲しむ」という気持ちが客側に生まれる。それによって、広告が人の手にわたる可能性が高まる。これが企業の狙いなのだ。

 単純にもらったティッシュが邪魔になるという理由もあるけれど、私が街頭ティッシュや試食の類を一切断っているのは、最初の一言で足を止めるとそのまま中断するタイミングを失って最後まで話を聞くはめになったり、挙句の果てに商品を買ってしまったりするからだ。「断ったらアルバイトさんが悲しむ」と嫌々ティッシュを受け取る人はやさしい。ティッシュがほしくてティッシュをもらう人もまあ悪くはないんじゃないでしょうか。そして、ティッシュをもらわない人のなかにもある種の人の好さゆえにすべてをシャットアウトしている人もいる。なので、ティッシュをもらうひとももらわない人もそれなりにやさしいんじゃないでしょうか。

石の静寂と雪の静寂

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 約1時間半ほど車を走らせて、ARTE PIAZZA BIBAI 安田侃彫刻美術館 アルテピアッツァ美唄へ行った。ここは彫刻家・安田侃の作品が展示されている野外美術館で、入場料・駐車場料ともに無料でだれでも鑑賞することができる。岩見沢を過ぎたあたりからひどい吹雪で心配だったのだけれど、車から降りて美術館の敷地内を歩いているうち、次第に晴れ間が見えてきた。
 作品は建物の中と外の両方に設置されていて、自由に見てまわることができる。順番にみてもいいし、気に入ったひとつの作品をずっと見ていてもかまわない。雪に埋もれて見られない作品があったのは残念だけど、こうなったら今度は雪のない季節に来てやろうという気分になる。一面真っ白な雪に囲まれて、黒っぽい作品は毅然として、白い作品は自然とすうっとなじんて静かに呼吸をしているように見えたけれど、それも、まわりの風景が変われば違った見え方をするのだろう。
 人のかたちをしたブロンズ像は美術館でもよくみるけれど、抽象的な彫刻作品を見るのは初めて。そして、大理石にさわるのもはじめてだった。どうやって鑑賞するのが正しいのかはわからないけれど、光を浴びてきらきらしている大理石をながめているとなぜかさわってみたくなる。大理石はすべすべしてひんやりしていた。ふと空を見上げると、暮れかかった空を雲がゆっくりゆっくりと流れている。あたりは一面雪におおわれて、とても静かだった。石の白さと雪の白さ、大理石のすべすべとした人肌のようなさわりごこちと周りの静けさとがとけあっていた。
 こんなに静かなのはいつぶりだろう。起きたらとりあえずニュースをつけて、料理をするときはイヤホンでラジオを聞き、外に出れば車が行き来する音に人々の喧騒。散歩中もスマホで音楽を聴いている私の毎日に空白はなく、美術館のなかのしんとして凛とした空気がとても新鮮だった。そこにいて、音がない世界になにかが欠けているとは思わなかった。有名な絵画作品も、プロの音楽家が奏でる音楽もみんなスマホのなかにあるけれど、ここには場所と作品とが一体になって訴えかけてくる何かがあるように感じた。
 帰宅途中で温泉にもつかり、心身共にまあたらしい気分の夜です。


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