モリノスノザジ

 エッセイを書いています

消費はあまねく悪なのか

 年末に留め具がこわれた弁当箱を、それでもまだ使っている。あたらしいのを買わないのは、容量が十分でデザインが気に入る弁当箱がみつからないからだ。みためを気に入って手に取ってみると容量が少なすぎたり、かといって1100mlなんてとても食べられない。妥協して特に気に入らないのを買う気にもならず、仕方がないのでこわれた弁当箱をそのまま使い続けている。壊れているのは留め具だけで、慎重に持ち運ぶぶんには支障がないのが幸いだ。

 ついでに言うと、今は弁当箱専用の袋を別に持ち歩いているのだが、できれば通勤用の鞄に入るものがいい。とはいえ今使っている鞄にはそもそもこれ以上物が入れられない。そう、ちょうどもう少し大きめの鞄がほしいと思っていたところだったのだ。そうだな、この機会に鞄も買い替えてしまおうか…なんて考えながら、なんとなく罪悪感を感じてしまう。なんなのだろう。不必要なものを買うわけでもなく、身の丈に合わない金額というわけでもないのに、あたらしいものを買うときにはいつも罪悪感が付きまとう。

 

 私は、とにかく節制してお金を貯めることだけが大事だとは思わない。大事なのはお金と交換に何を得るかということであって、お金そのものは単なる交換手段に過ぎない。といっても、お金を貯めることそれ自体が無意味と言いたいわけではない。なかには家や車のように、たくさんのお金がなければ手に入らない物もある。手に入れるべきものが高額なのだとしたら、それを手に入れるために貯金をすることはは合理的だ。ただ、それと引き換えに交換すべきもの無しに、ただお金を貯めることだけが目的になってしまうのは、何か間違っていると思う。

 お金は単なる交換手段に過ぎなくて、大事なのはお金と何を交換するかである。とは言うものの、何と交換をするのが、つまり何にお金を払うのがよいことなのか、私にはまだよくわからない。本当は30代になるまでに分かるようになりたかったけれど、結局わからないままだ。だから、新しい弁当箱を買うにも、たまの外食をするにも迷って罪悪感を感じたりしてしまう。お金と引き換えに価値ある何かを手に入れられればいい、おいしいっておもったり、キャベツの千切りが楽にできるようになったり、そういうのでいいって思うのだけれど、それはただ単に自分の欲求を肯定するための理論に過ぎないような気もして、どうにもすっきりしない。

 

 お金なんてなかったころ、原初の私たちのくらしを考えてみる。朝目覚める寝床も、身につけている衣服も、お昼に食べる猪肉も、それを切り裂くためのナイフも、みんなそれぞれが自分でつくらなければならない。けれど、人間が集団でくらしはじめることによってそんな生活もすこしずつ変わっていく。ミヤコには役人という職業の人がいて、彼らは自分たちが生きるために必要な食料も、衣服もつくらない。ではどうするのかというと、ミヤコからもらったオカネを食べ物と交換してもらうのだ。食べ物の代わりにオカネを受け取ったムラの人は、オカネを税金としてミヤコに支払う。こうやってオカネはしばらくの間ミヤコとムラとの間を行き来していたのだが、質が一定で信用力のある貨幣が製造されるようになると、一般の人同士の間でもやり取りされるようになる。そして、役人ではない一般の人々がどうしてお金を必要とするかというと、お金は米などとは違って腐らないし軽くて持ち運びがしやすいというのもあるし、もう一つは、自分が必要とするすべての物をすべて自分でつくるような時代ではもはやなくなったからだ。農家は米を、餅屋は餅をつくる。そうやって物(=価値)づくりの専業化と効率化がすすんだ先に私たちの社会がある。

 そう考えると、私が自分でつくることができない物に対してお金を支払うことはまったく自然なことのように思えるし、お金を払う代わりに私は私が社会で果たすべき役割を果たしていればいいんじゃないかと思えてくる。しかし、なんというか結局は物が欲しい私の考えることなので、どこからどこまでもっともなのかよくわからない。というか、そもそも物が欲しいのって悪いことなんだろうか?なんだかもやもやしながら、弁当袋のなかで半開きになっている弁当を見ながら、とりあえず弁当箱は早めに買い替えたほうがよさそうな気がしている今日この頃。