モリノスノザジ

 エッセイを書いています

考える・始める

 日記はここしばらく更新が途絶えている。もともと、ここ数年はこまめに書いていたということでもない。記録に残しておきたいような特別な出来事が起こったとき。あとは観劇をしたときにその感想と、ついでにその日にあった出来事を書いておくくらいだった。と言っても、二年前までは平均して月に4・5回ほどは芝居を見に行っていたので、少なくともそれくらい以上の頻度で日記を書いていたということになる。

 めっきり日記を書かなくなったその理由は、もちろん、コロナの影響で演劇を観る頻度が少なくなっているためだ。

 

 その代わりに今年から書くようになったのが、映画の感想ノートだ。観た映画の基本情報をまとめ、感想を書く。はじめの頃は1ページに満たない感想であったのが、気がつけば一作品あたり2ページも3ページも続けて書くようになっていた。感想ノートをつけることで、意識的に映画を観ることができるようになってきている……のであればいいのだけれど。

 

 感想を書くときに、私が禁句にしている言葉がある。「考えさせられた」だ。「考えさせられた」と書くとき、実際のところ私は、何も考えていない。頭のなかに、もやもやと渦巻くなにかが渦巻いている。でも、それがなんなのかを突き止めるのが面倒なので、思考を停止している。あるいは、単に何も考えていない。それなのに、利口ぶって「考えさせられた」と書いている。自分一人のために書く文章ですら、これなのだ。自分にあきれてしまう。

 

 7月に買った本で『文章添削の教科書』と言う本がある。タイトルのとおり、文章を添削するための技術について書かれた本だ。そして、この本の帯には、次のようなコピーが書かれている。

 豊富な図解と添削例で、文章添削の理論と技術をわかりやすく紹介。

添削ができると、あなたの読む力、書く力、考える力は飛躍的に伸びます!

 

 大事なのは、添削ができることによって伸びるとされている「力」として、「読む力」、「書く力」に加え、「考える力」が挙げられていることだ。これは、すごくわかる。文章を書くことを文章を読むこと、それから考えることとはとてもつながっている。

 文章を読んでいる。私は日本語が読めるので、特に考えなくてもするすると読めていく。でも、内容をどの程度理解しているかというと、疑問もある。時には、目が文字の上を滑っているだけで、何も理解していないこともある。文章を添削する、一字一句のミスも見逃さない気持ちで文章を読む、という意識で読むことで初めて「考える」のスタートラインに立てるのだ。

 

 考える、からスタートするときにも、言葉にするということはとても大きな意味を持っていると思う。考えた内容を、具体的に言葉にすることだ。「考えさせられた」「考えた」とただ言うとき、私はたいてい何も考えていない。

 

 そういうわけで、日常のなかで触れたもの、感じたことを言葉に変える訓練を、もう少し増やしていこうと思う。このブログは映画のレビューブログではないし、ブログ記事にするにはやや言葉が足りない。だから、Twitterで始めてみた。

 

  

 これまで私がこういうことをあまりしてこなかったことには、他方で、「間違えたくない」という気持ちもあったと思う。映画も演劇も、読書も、言うてちょっとかじっただけの素人でしかなく、感じたことが、考えたことが間違いだったら、間違いだと言われたら嫌だなあと思っていたのだ。感じ間違えるっていったいなんなんだよ、と思うけれど、そういうことを気にするヤツなのだ。私は。

 

 それでも、まあとりあえずこんな無様なところからでも始めていきたい。今はただの真似事でも、いつか本当の「考える」ができるようになるために。

 

予言

 このところ食欲が爆発している。……と言っても、たくさん食べるというわけではない。自炊一辺倒だった暮らしを改めて、毎日あちこちの店を渡り歩いては外食を楽しんでいる……というわけでもない。砂糖は上白糖とグラニュー糖を料理によって使い分け、キッチンにはローズマリーにディル、八角にカルダモンを取りそろえて……もいない。道具や調味料が変わらなくても、毎日新しいレシピに挑戦して、はじめて口にする味との出会いに日々心を震わせている―――ということもない。

 つまり私は、これまでと同じように自宅で、これまでと同じ調味料に食材を使って、これまでと同じように、7日連続でひとつの料理を食べ続けても一向に気にしないような、そんな生活を引き続き送っている。けれどこうした食生活にいま、喜びが爆発しているのである。

 フライパンで焼き目をつけたエビの香ばしさだとか、漬物のしたたるような感じ、ベーコンのジューシーなうまみ、カルピスアイスバーのさきっぽを歯でかじりとるときの食感や、レンジで軽くあたためたポテトチップスから立ち上ってくる香りの、そのひとつひとつが、うれしくてたまらない。

 

 だから、爆発しているのは食欲と言うよりもむしろ、食べることの喜びのほうなのかもしれない。当然のことながら、食べることの喜びが爆発すれば、食欲も少なからず爆発する。だからそれはもしかしたら、鶏と卵のどちらが先かを議論するようなものなのかもしれないけれど。

 これでの食事は、一人暮らしの身体を、毎日職場まで運搬するためだけに摂っていたようなもので、それは単なる「餌」でしかなかった。そこには、食べる喜びというものが欠けていた。「餌」としての食事にとって重要なもののひとつは「効率」であり、効率のために、一か月間サンマと白米だけの日が続いたとしても、私にとって苦ではなかった。そう思っていたのだ。

 けれど、私にとって、この変化は意外なものでも受け入れられないものでもない。なぜなら、この変化はすでに予言されていたからだ。

 

 「太る」だとか「脂っこいものが食べられなくなる」だとか、「急にハゲる」とか、三十代への変化はそんなふうに語られていた。それでも二十代の頃の私は「自分はそうはならない」と思い込んでいた。なんの根拠もなく。

 若いころから「どれだけ食べても全然太らないね」とちやほやされて(私が他人にちやほやされる、数少ない機会のひとつだ)、私自身それがまんざらでもなかった。ほかの誰が加齢で太ろうとも、私には無縁。そう思っていた。髪だって、いわゆる猫っ毛とは反対の、やや太めのコシのある髪。梅雨時期の毛量の多さにヘキエキすることがあっても、「30歳を過ぎたら急にハゲる」は私にだけは通用しないはずだった。

 

 しかし、現実は違った。太るのだ。ハゲるのだ。30代にさしかかり、外勤のない職場に異動になってからの半年間で、体重が6キロ増えた。三十数年にわたるわが生涯において「太る」というイベントが発生したのは、それが初めてのことだった。一年ぶりに履いたジーンズのボタンがかからないことに気がついたときには、内心ひどく傷ついた。

 ウエストに関してはその後なんとか持ち直し、今のところ衣装ケースの中身を総入れ替えするには至っていない。もともとが標準体重を満たさない体型であったこともあって、「これくらいがちょうどいいよ」と言ってくれる人もいる。ハゲに関しても、今のところ生え際の入り込みがやや鋭くなっているという程度の話だ。気に病むほどのことでもない。

 重要なのは、「30代になったら太る」とか「30歳を過ぎたら急にハゲる」などと巷でささやかれていることが、私の身体の上で現実になったということにある。

 「30過ぎたら飯がうまくなった」もまた、20代の私の耳に入ってきたことのひとつだ。食事をほとんど餌としてしか認識していなかった私の食生活が一変、この予言もまた実現してしまったのだ。とはいえ、「飯がうまくなる」こと自体は人生の新たな喜びを見出すこととイコールであるから、それ自体は喜ばしい変化であることに間違いはないのだけれど。

 

 大人になることは、歳を重ねることとは「こんなはずじゃなかったのに」と感じるタイミングは、少なくない。

 子どものときの私にとって大人は「わからずや」だった。大人は子どものことをわかってくれない。すべての大人はかつて子どもだったはずなのに、まるでそのことを忘れてしまったみたいだった。

 大人が子どもより長く生き、多くのことを経験している以上、大人の言うことのほうが正しいのだろう。たとえ今は理解できなくても―――そう考えたこともあった。でも、そうとは思えないこともあった。子どもから見たって間違いだとわかるようなことを、平気でする大人。それを「悪い」とは言わないほかの大人。愛想笑いをしながら。その愛想笑いが、私は嫌いだった。

 私は、正しいことを正しいと言える大人になりたいと思った。そして、大人になっても子どもだったころの気持ちを忘れまいと決意した。決意した、のだけれど。結局、忘れてしまっている。残っているのは子どもの頃の自分がそう思っていたという、あらすじ的な記憶だけ。そのとき感じていた怒りとか、やるせなさとか、そういうものはもう思い出せない。私も、あの頃の自分が嫌っていたような、愛想笑いをして間違いを見過ごす、情けない大人になってしまった。

 自分だけは絶対に子どもだった頃の気持ちを忘れない、と決意したのは、その底に「大人は子どものことをわかってくれない」という思いがあったからなのだけれど、後者のほうだけが、これも現実になってしまった。昔の私を裏切って。

 

 こうやってあれこれと予言が現実になると、これからのことを考えてしまう。私はまだ三十代だ。これから歳をとって、家族のかたちが変わって、職業が変わるそのたびに、自分には無関係だと思っていたいくつもの予言がどんどん現実になっていくんだろうか?裏向きに並べたトランプを、次々と表にしてゆくように。

 それが「飯がうまくなる」のようなラッキーカードであればいいのだけれど、人生の「下り坂」とも例えられるこれからのこと。きっとそんな幸せなカードばかりではあるまい。これから。これからの人生。どんな予言が現実になるのが一番おそろしいだろう。……そんなことを、考えそうになって、やめた。

 

 人生の教訓やら警句やらが一冊にまとめられた本。なんて言うんだろう。人生論の本って言うのかな?ああいう本を私は読まない。なぜなら、その手の「教訓」が前もって効いたことはないからだ。何事も自分で経験して、それから「ああ、あの言葉はこういう意味だったんだ」と実感する。失敗した後に警句を振り返って初めて、それが言わんとすることをはっきりと理解することができる。まるで、正解を知った後に見る間違い探しが、やけに簡単に見えるみたいに、はっきりと。でも、間違い探しを初見で解くことはできない。そんなふうに。

 少なくとも私は、ずっとそうだった。先を見通すのが苦手で、人生の先輩たちが残していったそういう言葉の意味も理解することができなかった。いつだって失敗しながら、そうやって言葉の意味をわかってきたんだ。

 これから私に起こる出来事、その予言に関してもそれと同じことが言えるだろう。「30歳を過ぎたら急にハゲる」という予言を現実のなかで理解できるようになったのは、それが実際に私の身に降りかかった後のことだった。それと同じように、これからの人生について言われるいろいろなことをまだ私は理解することができない。

 

 それは悲しいことだろうか。長い長い歴史のなかでたくさんの人が生まれ、老いて死んでいった。そして、その人生というものに関して多くの言葉を残した。その言葉を活かして、私はもっと賢く生きていければいいのにと思う。過去の人がすでにした失敗を繰り返さないで。幾人もの人が経験したのと同じ後悔をすることを回避して。もっと賢く、うまく生きていけたらよかったのに。そう考えると、過去の人の言葉から学べないのはやっぱり悲しくて、愚かなことなのかもしれない。

 

 けれど一方で、私の人生はどこまでも私だけのものなのだ、とも感じる。どんなふうに予言されても、これからやってくる30代の残りを、そして40代や60代の「感じ」を、私はあらかじめ理解することができない。それは、それが私にやってきたときにはじめてわかるものだ。私は私の30代と、私の40代と出会う。これから。そしてそれは、これまでにどれだけの人が40代や60代の生を経験していたとしても、関係のないことだ。私の30代は、私が初めて出会うもの。太るのもハゲるのも、私にとって一回しかない、そしてかけがえのない30代との出会いのひとつなのだと思う。

 

 このところ食欲が爆発している。……と言っても、たくさん食べるというわけではない。自炊一辺倒だった暮らしを改めて、毎日あちこちの店を渡り歩いては外食を楽しんでいる……というわけでもない。砂糖は上白糖とグラニュー糖を料理によって使い分け、キッチンにはローズマリーにディル、八角にカルダモンを取りそろえて……もいない。道具や調味料が変わらなくても、毎日新しいレシピに挑戦して、はじめて口にする味との出会いに日々心を震わせている―――ということもない。

 けれど、もしかしたらこの先そういうことがあるかもしれないな。私の40代は、キッチンにずらっと並べたスパイスでこだわりの手作りインドカレーをつくる人生かもしれない。20代まではろくにやらなかったお菓子づくりに目覚めている50代かもしれない。

 私は先を見通すことが苦手で、人生の先輩たちが残していった教訓の言葉を、あらかじめ理解することだってできない。でも、だからこそ、と思う。この先も生きていければいいな。生きていくのはいつも少しだけ不安で、同じくらい楽しみだ。

 

ほんの記録(6月)

 私はいつも100%なので、ブログを書かないときはゲームしたり短歌を書いたり、仕事したりして過ごしている。前回の更新からずいぶん間があいてしまったけれど、私は大丈夫です。

 毎年6月はたくさん本を買う月と決めていて、そういうわけで今年もたくさん買いました。今月は少し急ぎ気味に、6月に買った本たちのほんの記録。

 

 

歌集ほか

 いつか買うつもりでまだ持っていなかった歌集をまとめて買うなど。歌集に関しては、いつか買おうというゆるい心づもりでいるとすぐに絶版で買えなくなってしまう。そのことが、安易に歌集に手を伸ばす言い訳になってしまっている。

 『短歌研究』2020年6月号を今更買っているのは、これも、好きな歌人の特集が組まれていたことに後になって気がついて、いつか取り寄せようと思っていたのがずるずると一年後になってしまったもの。中古で買ったら50円だった。トレンドを扱う雑誌の実用的価値が、時間が経つにつれて下がっていくというのは理解できるけれど、この手の雑誌も古くなると価値が下がるのだろうか?

 

倫理学関係

 先月久々に倫理学の本を読んで、アカデミックな議論はいいなあと感じた。ニュースを見たり、新聞をひらいたりすると、いろいろなことが主張されている。オリンピックのことや新型コロナウイルスに関する政治的な動きについて、何も思わないわけではないけれど、私が腹立たしく感じるのは結果よりも過程である。ある一つの判断を下すのに、その根拠や理由が示されないこと。不透明なままにものごとが進んでいくこと。

 先月読んた『パンデミックの倫理学: 緊急時対応の倫理原則と新型コロナウイルス感染症』では、数の限られたワクチンをどう半分するかといった問題など、パンデミック下においていかに対応すべきかということを論じている。こうした議論の結論が、今、現実に取られている方法と同じであったとしても、基本となる考え方や、その結論にたどり着いた根拠が示されることで納得度はずいぶん違う。たとえ結論が自分にとっては受け入れられないものであっても、相手のことを信頼できると思う。議論はこうあるべきだと思う。

 

 『ベジタリアン哲学者の動物倫理入門』はそのタイトルのとおり、著者がベジタリアンの立場から動物倫理について論じた本。この本もやはり、食肉や動物の飼育に反対する理由が丁寧に論じられている。

 自分と考えの違う人と話をしているとき、どうやら私には「筋道立てて話せば相手も理解してくれるはず」という考えがあるみたいだ。この本を読んでそのことに気がついて、そして同時に、必ずしもそうではないこと、私自身もまた物分かりの悪い人間の一人であることに思い当たった。

 ここで示されている主張について私が何かしら有効な反論を提示することができるわけではないのだけれど、だから「著者の言うとおりだ。肉食をやめよう」となるかと言うと、そうではない。まあ、言いたいことはわかるんだけどさ、みたいな態度で私は結局肉を食べ続けるのだ。自分は筋が通っているからといって他人の主張をまっすぐに受け入れられるような人間ではなくて、もしかしたらときには間違いながら生きているんだと思う。

 

その他

 漫画をたくさん買うほうではないのだけれど、いったいみんな漫画どうしているのだろう。読みたい漫画はたくさんあるけど、きりがないしなあ~。紙で買っても電子で買っても。

 

 読み終えてない本もあるので、7月は若干セーブです。

100万円が、あらわれた!

 6月21日、22日のAmazonプライムデー。それに、もうじきやってくるボーナスの支給日。さあ今回は何を買おうかななんて期待をふくらませていてもいいような時期なのに、いざ買うぞとなると肩透かしをくらったみたいに買いたいものがない。本は書店で買うことにしているし、この家に住んでしばらく、いまさら新しく買い足すような家具もない。買うとしたら、重たくて手で運ぶのに気おくれする米とか柔軟剤をまとめ買いするくらいだろうか。

 

 そんなことを考えながらはてなブログのダッシュボードをひらくと、突然私の目の前に100万円があらわれた。子どものころと違って、もはや100万円は腰を抜かすような大金ではなくなった――とはいえ、実のところ、現金の100万円を目にするのははじめてだ。それに、こんなふうに理由もなく100万円を突き付けられるのもはじめてだ。驚いて言葉も出ない私に、はてなブログは問いかける。

「この100万円、あなただったらどうしますか?」

 

・ソニー43V型液晶テレビブラビア 78,000円

・現TV廃棄手数料 4,000円

 ほしいものはない…と言ったけれど、実のところずっと前からテレビをほしいものリストに入れている。入れて、入れ続けている。今使っているORION製のテレビの隅に白い液晶欠けができてきて、まあそれは画面の一部でしかないものだから今のところ特に困ってもいないのだけれど、いつか買い替えないととは思っていたのだ。

 いまどきテレビと言えばそこまで高価なものでもなく、ごらんのとおり有名メーカー製でも10万円以内で買える。特に画質にこだわるわけでもないから、もう少し廉価なメーカー製品でもいいかなと思っていたのだけれど、何と言ってもここには100万円があるのだ。欲張ってブラビアを買ったところでまだ92万円残っている。テレビ番組というよりYouTubeとかアマプラをTVで流したいので、それに対応する機種を選ぶことにする。もともと買おうと思っていたのは32型のものだったのだけれど、43型か。まあいいでしょう。

 

・ソニーブルーレイレコーダー2TB 43,379円

 そういえばうちのブルーレイレコーダー、録画機能がない機種を買って散々後悔したのだった。2年前に買ったばかりでまだまだ現役だけど、この機会に買い替えてしまおうか。TV番組はほとんど見ないし、録画してまでみたい番組なんて年に一度あるかないかだけれど、その年に一度が来るたびに「だから録画機能があるのを買っておけばよかったのに」って思うのだから。TVとメーカーを合わせて、ブルーレイレコーダー43,379円。

 残り、874,621円。

 

・『進撃の巨人』1~10巻、29巻~34巻 計7,940円

 先日コミックス最終巻が発売されて話題になった『進撃の巨人』だけど、わが家には11~28巻しかない。1~10巻は友人に借りて読み、そのうち買おうと思っていてそのままに。29巻から突如として購入を中断してしまっているのは悲しいアクシデントがあったからだ。本屋の新刊コーナーに平積みされていた『進撃の巨人』の29巻を、確かに私は買ったはずだった。しかし、本屋の紙袋から出てきたのは『進撃の巨人Before the fall』17巻。たまたま発売日が近くて隣に並べてあったのか、それはスピンオフ作品の、それも最終巻だった。そのときからすっかりやる気を失った私は、真の29巻を手にすることなく、いつの間にか物語は終わっていた。これを機会に買おうかな。漫画の大人買いってなかなか普段はできないんだよね。

 残り、866,681円。

 

・ヤマザキビスケット ルヴァン ハーブ香るモッツァレラ味 10箱 6,620円

 たまたま寄った店でたまたまみつけたこのルヴァン、神である。神…なのに、神ゆえかいろいろな店を探し回ってもなかなかみつけることができない。ネットでようやくみつけたとおもったら、ビスケット本体の値段が5箱810円であるのに対して送料が2,500円とある。なんでそんなに送料高いん…?と諦めかけていたのだけれど、今の私は無敵である。10箱買うことにして、ビスケット代1,620円と送料が5,000円。もしかして、まとめ買いしたら多少送料が安くなったりするのだろうか?ま、いいか。私には100万円があるのだし。

 残り、860,061円。

 

・シャープスティッククリーナーハイグレード 29,999円

 そういえば、掃除機もそろそろ買い替えようと思っていたんだった。学生のときに2,000円で買った掃除機を引越ししても使い続けていて、そろそろ吸い込みが悪くなってきている。以前うっかり虫を吸い込んでしまってからごみ受けをひらくのが憂鬱になってたところだし、この機会に買い替えようか。掃除機のメーカーはよくわからないけど、とりあえずシャープ様でいいか。

 残り、830,062円。

 

・東芝洗濯乾燥機 洗濯8kg 132,800円

・家電リサイクル料金 2,530円

 ついでに洗濯機も買い替えちゃおうかな…今使っている洗濯機、数年前に耐用年数が切れているはず。今のところ問題なく使えているし、大型家電は捨てるにもお金がかかるということもあってできるだけ長く使うつもりだったんだけど、これを機会に買い替えてしまおう。せっかくだから、乾燥機付きのモデルに。

 

 

 残り694,732円…と、まだ半分も使い切っていないところだが、そろそろ気がついたのではないだろうか。私の金銭感覚が少しずつ、でも着実に壊れていっているということに。流れで必要以上にでかいテレビを買ったり(しかも、テレビは普段そこまで見ないのだ)、ビスケットを数箱買うために何千円もの送料を払ったり、商品もろくに検討せずに適当に買おうとしているし、まだ使える家電を無意味に買い替えたり…。この買い物リストのなかで実際に買ってもよさそうなのは『進撃の巨人』くらいだ。

 100万円は、仕事を辞める決断をするには少なすぎるとしても、金銭感覚を狂わせるには十分な金額である。

 

 ずっと前にミクロ経済を勉強したとき、収入が増えるにつれて支出は増えていくが、それから収入が減ったとしても一度増やした支出は元の水準に戻らない―――という理論を勉強したことがある気がする。実感としてもなんとなく合点がいく。このまま100万円を使い切るまで買い物を続けていたら、私はいったいどうなっていたことだろう。

 ああ、100万円がなくてよかった!

 

今週のお題「100万円あったら」

 

5・7・5とすこしのことの

 俳句の話を、と言われているのについつい短歌のことを話したくなってしまうのは歌詠みの悪い癖だけれど、私が今のように短歌をはじめるようになったきっかけを聞いてほしい。

 

 私が教科書の外で出会ったはじめての短歌は新聞歌壇だった。どんな歌だったかはもう覚えていないけれど、ビニール傘に落ちる雨粒を詠んだその歌にいたく感動して、何日もしないうちに近所の書店で短歌について読める本を探した。近所の書店――と言えば、ダイエーの三階に入っているコンビニほどの書店であって、もちろんそこに歌集なんてなかった。短歌雑誌もない。ただNHK短歌の最新号だけは雑誌の棚に置かれていて、それをぱらぱらと読んだ私は短歌を一度諦めることになる。

 

 NHK短歌には当時(今も?)「短歌クリニック」みたいなコーナーがあって、要するに、歌の添削コーナーだ。読者から寄せられた短歌を、プロの歌人が添削する。そのコーナーを読んで、私はなんとなくがっかりしてしまった。完了形の「ぬ」の接続のしかたが誤っているとかそういった文法的な誤りの指摘ばかりが並んでいて、文語文法をマスターしなければ短歌はできないのじゃないかとか、「いい短歌」をつくるということはとどのつまり正しい文法を使うということなんだろうか?という気持ちが沸きあがってきて、正直なところ、がっかりした。雨傘の歌をみつけたときのわくわくした気持ちは一瞬でしぼんでいった。

 それから私がふたたび短歌のほうを向くようになるには、Twitterのタイムラインに偶然、私と同い年の歌人が口語で詠んだ歌が流れてくるまで、しばらくの年月が必要だった。

 

 正しい文法を使うことがいい短歌を詠むために必要なことは理解するけれど、いまだに文語短歌との間には壁を感じてしまう。俳句に関して言うとこれと同じくらい、あるいはこれよりももっと「とっつきづらい」イメージがある。短歌にはない季語や切れ字といったルールがあるし、俳人ってなんだかおっかなそうではないか。

 「俳句=わびさび」というイメージのある私の頭のなかでは、俳人は千利休の顔をしていて、狭い茶室で着物を着てなんか細長い紙を持っていて、ルール違反なんてしようものなら熱々のお茶をひっくり返して怒り出すような生き物だ。そんなの、おっかなすぎる。

 

 だから、こんな俳句ともっとはやく出会えていたらよかったのにな、とときどき思う。わが家の本棚には3冊だけ句集があって、そのうちの一冊が福田若之さんの『自生地』という句集だ。1991年生まれ。たとえば、こんな句が収録されている。

 

てざわりがあじさいをばらばらに知る

春はすぐそこだけどパスワードが違う

ヒヤシンスしあわせがどうしても要る

さくら、ひら  つながりのよわいぼくたち

焚き火からせせらぎがする微かにだ

 

 どれも教科書で習った俳句とは違っている。どきどきする。後になって知ったことなのだけれど、俳句には「無季」と言って季語を使わない作り方や、必ずしも5・7・5の定型にこだわらないやり方もあるらしく、かつて私が抱いていた「俳句=わびさび」のイメージからは遠く離れた句がたくさんある。無季・不定形なんて言われると「は、俳句とは…?」って考え込んでしまうのだけれど、そこは何かあるのだろう。たとえば、心、とか?

 

 歌や句を覚えるのは得意なほうではないのだが、この句集に載っている句のなかで一句、ずっと頭から離れない句がある。

 

ながれぼしそれをながびかせることば

 

 流れ星がきらっと空を流れる。流れ星が見られるのはほんの一瞬のことで、すぐに見えなくなってしまうのだけれど、それを「ことば」が「ながびかせる」。

 流れ星を見ていた私が呟いたのか、一緒に見ている誰かが「流れ星だ!」とでも言ったのか、その「ことば」はおそらく「ながれぼし」という言葉そのもので、流れ星が空を流れて見えなくなってしまったあとも、流れ星は「ながれぼし」という言葉になって私たちのもとに残り続ける。あるいは、誰かと「流れ星見えた?」「え、流れ星?」なんて会話しているとき、流れ星はまだそこにある。空にはもう流れ星がなくても。

 この句全体がすべてひらがなにひらかれていて、それも「ながびかせる」という印象を与える。「ながれぼし」は空を流れる星を指し示しているとともに、「ながれぼし(という言葉)」=「それをながびかせることば」という構造も取っていて、こういうふうに書くことを意識的に詠んだ句がところどころあらわれるのはなんでだろうと思う。

 

 俳句はずるい。17音でこれだけのことを言われてしまったら、もう14音を付け加える必要なんてないみたいに思えてくるじゃないか。よくできた俳句はぴったりとして過不足がなくて、すごく美しい。その美しさを説明できなくても、なんかわかる。すごいって。

 

 今週はたくさんのはてなブロガーが俳句を詠んでいる。しっかり身を入れて俳句に取り組んでいる方にとっては「こんなの俳句じゃない!」と言いたくなるものもあるのだろうけれど、これだけの人が無邪気に「一句」詠んでいるところをみると、俳句というものが文学のひとつでありながら、私たちの生活のすぐ近くにあって、愛されていることを感じる。ペットボトルのお茶にもついているしね。

 私も忘れないうちに詠んでおくことにする。はじめての俳句だから、どうかやさしい目でみてほしい。

 

ファミマまで風は余熱をふくみつつ

 

自生地

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 今週のお題「575」