モリノスノザジ

 エッセイを書いています

ほんの記録(2月)

 最近、ようやくまともになってきたよう感じる。ちょっと前までの季節の感じの、嫌な感じといったらなかった。世界がバランスを欠いていて、そのズレのなかを私は生きている。日に日に陽は高くなり、真昼の日差しはまるで春のようなのに、寒い。雪はあいかわらず遠慮なしに降りまくるし、寒い。それだけがすっかり春めく日差しにさそわれて、うっかり薄着で外へ飛び出ようものなら、たちまち風邪をひいてしまう。太陽と季節のミスマッチ。季節というものは、太陽に従うんじゃなかったのか?

 そんな季節のせいなのか、仕事が忙しかったせいなのか、先月はこれまでになく心が弱っていた。雲が動いて空がぱあっと明るくなると、雪道は全体が発光するように明るくなる。歩いている雪道が明るくなると、途端に悲しい気持ちがあふれてくる。道を歩きながら、シャワーを浴びながら、食べ物を口に運びながら、テレビを見ながら、毎日なにかしら涙を流していた。

 2月はコロナの影響で人手が足りなくなった部署に応援に行っていたこともあり、新しい環境でどうコミュニケーションを取るかということについても悩み(基本的に私はコミュ障なのだ)、そういう本を初めて手に取ったりもした。自己啓発書の類の本を今まで読んだことはなかったのだけれど、読みながら感じたこともあった。本屋のベストセラー棚に自己啓発書がならぶこの世の中で、私以外の人もなにかに悩み、そして、今とは違うよりより自分になりたいと感じながら生きているんだ。

 応援から戻ってきたら、少し気持ちが落ち着いた。これを書いている今は再び別部署へ応援に出ている最中なんですが、なんとかがんばれそうです。元気になったら本も読もう。

 

 

平木典子『自分の気持ちを素直に伝える52のレッスン―ほめ上手になれる本』大和出版
平木典子『会話が続く、上手なコミュニケーションができる! 図解 相手の気持ちをきちんと<聞く>技術』PHP出版
山田五郎『へんな西洋絵画』講談社

 どうしても興味を持てない絵画をみるときに、とりあえずディスってみることがある。ここの建物は遠近感がおかしいだとか、人体にこのポーズを取るのは不可能だとか。

 でも、ちょっと待った。画家というのは基本的に、おそろしく絵がうまい。めちゃくちゃな絵ばかり描いているような画家であっても、デッサンはまともだったりする。とすると、ヘンな絵のヘンなところは、なんらかの意図をもってあえてそう描かれた可能性がある。じゃあ、なんで?

 絵画のなかのヘンな部分に注目することは、画家の意図を考えるきっかけになる。変だなと思った部分が、むしろどんどん魅力的に見えてくることもある。だから、絵画のヘンな部分に注目することは大賛成だ。

 難しいことを考えずに楽しく読める本で、読んでいる間ずっとニヤニヤしていた。前に美術館でルソーの絵を見たとき、平凡な絵にも関わらずなにかずっとひっかかっていたんだけれど、この本でルソーの遠近感の「ヘタさ」が散々ツッコまれていてなんだか腑に落ちた。ルソーの画集ほしいなあ。

 

また読みにきてくれるとうれしいです! 

たまにあやまちの金曜日

 ひとつ、その日は金曜日で、次の日はお休みであったこと。ふたつ、家の冷蔵庫はからっぽで、ろくに食べられるものがなかったこと。みっつ、その日はなんとなく、まともに料理をする気持ちが起きなかったこと。それに加えて、よっつ、なにかの気まぐれで、たまにはお酒を飲んでみようと思い立った。なぜかはよくわからないけれど、なんとなく、ちょっとだけいい気分だったのかもしれない。いい気分の心当たりは、と聞かれても特に思いつくことはないけれど、まあ、そういうときもある。

 

 ブロッコリーにチーズ、トマト、それに冷凍のパスタをスーパーのカゴに放り込んで、ワインの並ぶ棚へと足を向ける。お酒の銘柄なんて、ろくに知らない。そのうえ、ほんのちょこっとの量で十分な私にスーパーマーケットのリカーコーナーが提示する選択肢は2・3しかなくて、その2・3を十分吟味したあと、私は200ml入りの白のスパークリングワインを手に取った。選んだ理由は特にない。そういえば、今日は炭酸がないやつにしようと思っていたんだ――と気がついたのは会計を済ませた後のことだった。

 

 家で晩酌する習慣はもともとないのだけれど、飲み会がなくなってしまうともう、本当にアルコールを口にする機会がない。去年は2回、今年になってからは初めてのアルコールだ。これだけ飲まない日が続いていると、もう飲む必要はないんじゃないかとすら思えてくる。

 そもそも、20歳を超えたらみんながこぞって酒を飲むことのほうが異常なのだ。タバコを吸う人と吸わない人がいるように、酒を飲む人と飲まない人がいても何ら問題はない。タバコを吸うか吸わないかを決める権利人にあるのと同じように、私にはお酒を飲むか飲まないかを決める権利がある。

 だいたい酒というものは、人間の思考力をダメにする代物だ。酒のせいで目も当てられないことになっている人を、いままで何人目にしてきたことか。……そのなかには私自身も含まれるのだけれど。

 

 ともかくそういうわけで日頃は選択的非飲酒を貫いている私にも、どういうわけか酒を飲みたくなる日がある。金曜日はそういうタイミングだったのだ。

 トマトとモッツァレラチーズをスライスして重ね、塩とバジル、オリーブオイルを垂らす。半端なチーズは刻んでパスタのトッピングに。ブロッコリーは、小房に分けてレンジであたためる。塩・バター・コンソメで味付けすれば、これだけで立派なワインのお供だ。マスクをつけたままだとブロッコリーのにおいが分からなくて、やや鮮度の低いものを選んでしまった気がするが、やむをえない。

 

 10分で準備を済ませると、お気に入りの映画を流しながらの宴の始まりだ。200mlぽっちのお酒が、喉を通って熱くなる。パスタのうえのチーズは、熱で緩んですっかりだらしない。グラスに触れている指だけが冷たくて、暗やみに光る星みたいにちかちかした。ああ、お酒を飲むってこういう感じだったんだっけ。

 

 それなら、こういうのもたまには悪くないかも――そう思ったのは束の間のことだった。翌朝目を覚ました私は、ふたたび「やっぱり酒は飲むまい」と心に決める。気持ちがいいのはいっときだけ。眠りは浅くなるし、ベッドから起き上がるとなんとなく身体がだるい。どことなく頭もボーっとする気がする。それはいつものことか。

 こうなるってことを、知らなかったわけじゃない。こんなことを幾度も繰り返して、それで杯を置いたばずだったのに、いったい誰が酒を飲もうなんて考えたのだろう?もしかしたら酒というものは、飲んだ後だけではなく、飲む前からすでに人の思考力をダメにする力を持っているのかもしれない。やはりこんなものを飲むべきではない………少なくとも、次の気まぐれが訪れるまでは。

 

また読みにきてくれるとうれしいです! 

 

お題「昨日食べたもの」

 

ほんの記録(1月)

 短い文章がいくつかまとまっているような本は、通勤中に読むのにうってつけだ。ひとつの文章を読み終えて、目的の駅までにまだ余裕があるようであればもうひとつ、あと一駅ならきりのいいところでやめにして…ということができるので、中途半端なところで読書を邪魔される心配がない。

 

 でも、通勤中にこの本を読むのは難しかった。ひと項目につき、だいたい見開き3~5ページ。図版も多数掲載されているから、文字だけ読むならもっと少ない。というよりも、これらの図版を通勤中の電車のなかでじっくり見る勇気がない。

 

 その本の名は『官能美術史―ヌードが語る名画の謎―』。その名のとおり、西洋美術に描かれるヌード画をテーマにした本である。

 表紙にはジュール・ジョセフ・ルフェーブル作「洞窟のマグダラのマリア」。マグダラのマリアが全裸で洞窟に横たわっている場面を描いた絵画である。本を手に取ろうとしてぎょっとする読者のための配慮なのか(?)下半身がちょうど帯で隠されているが、上半身だけでもぎょっとすることに違いはない。

 本を開けば開いたで、全裸の女性や男女の性交の場面を描いた絵画がそこらじゅうにあふれている。表紙はカバーで隠せるにしても、中身まで隠しながら読むのは至難の業だ。これは芸術作品ですから……と言い訳しながら、こそこそと読むことになる。誰に糺されるわけでもないのに。

 

 しかし考えてみれば、性愛の場面を別とすれば、女性が全裸でばかり描かれるのも異常な話だ。ヌードを書いた画家も画家で「これは宗教的題材を扱った芸術ですから」なんて言い訳をしていたに違いない。

 

 土曜日に図書館へ本を借りに行ったら、受付をしてくれたスタッフが顔見知りだった。普段は委託社員としてうちの会社に来ているのだが、図書館カウンターに欠員が出たのか、カウンターのなかに納まっている。名札もつけているから、間違いない。

 その人に挨拶をしようか一瞬迷って、その一瞬で「知らない人のふりをする」ほうを選んでしまう。相手もまた私に気がついているに違いなく、ついさっき下したばかりの決断をもう後悔する。

 なによりも冷や汗をかくのは、カウンターに差し出した本のなかみだ。『官能美術史』のように、美女のヌードが大大と表紙に載っていたり、疑念を感じさせるようなタイトルの本を借りるとしたら、恥ずかしい。それは相当恥ずかしい。美術系の本を読もうとすると、遭遇しやすい事故だ。あれ?今どんな本を持ってきたんだっけ?恥ずかしい本を差し出していたらと思うと、まともに表紙を直視できない。

 それとも、相手に怪しまれないうちに弁解をしてしまおうか。「これは、芸術ですから」って。

 

 

 

柿沼陽平『古代中国の24時間 秦漢時代の衣食住から性愛まで (中公新書)』中央公論新社

 新聞の書評でみかけて興味を持ったので読んでみた。筆者が、タイムスリップした先の古代中国を散策するという体裁で、二千年前――秦漢時代の中国の人々の一日二十四時間の暮らしが描かれている。

 難しい専門用語ではなくて、現代の感覚で読める言葉で書かれていてわかりやすい。でも、ちゃんと読みごたえもある。

 歴史の授業で習ってきたことは、英雄など、その時代の一部の人が「変えた」出来事。そのいっぽうで、その他大勢の暮らしが、もしかしたら現代まであまり変わらずに綿々と続けられてきたのかもしれないとも思う。

 

マシュー・ライス著『英国建築の解剖図鑑』x‐knowledge

 本屋の新刊台に平積みにされていて、前から気になっていた。英国における各時代の建築様式や、装飾などの名称がイラスト付きで説明されている。

 表紙をひらくと、カラーの扉絵。この色の感じ、イラストの線の感じがどこかで見たことのあるような気がして、それもすごく懐かしい。なんだろう……とずっと考えていて、トールキンの『サンタクロースからの手紙』かもしれないと気がついた。味のあるイラストで、空いた時間にちらちら眺めるだけでも楽しい。

 この本で説明されているような英国建築を、日本で見ようと思ったら…。イギリスから来たお雇い外国人の建築を探してみたりするのがいいのだろうか?

 

そのほか

  • 嶋稟太郎『羽と風鈴』書肆侃侃房

 

また読みにきてくれるとうれしいです! 

たとえばこんな終わり方

 プリンスと結ばれなかったディズニープリンセスを、見たことがない。一組の男女が出会って、恋に落ちる。もしもこれがおとぎ話だとしたら、彼らは道行く先で困難にぶつかりながらも、互いに愛を深め、やがて結ばれることだろう。

 おとぎ話の世界で幸せな恋ばかりが描かれるのは、それが現実の世界にはほとんどありえないものだからなのだろうか。愛する人を迎えに行くための空飛ぶ魔法のじゅうたんや、夜を架けるかぼちゃの馬車、歌う小鳥もガラスの靴も、すべてが空想の産物であって、決して現実には存在しないのと同じように。

 

 半月ほど前、恋人にお別れを言った。もう4年近く付き合っていて、きっとこの人と結婚するんだろうとなんとなく思っていた人でもあったので、それはそれなりにこたえた。失恋をして落ち込むなんて女子高生みたいで笑ってしまうのだが、別れ話をした日にはぜんぜん笑い話とは思えなかった。

 恋人が私の家を出ていったあと、私はシャワーを浴び、焼きそばをつくって、でも、ふたくち食べるだけで十分だった。胃の底から猛烈に吐き気がしてとても食べる気になれなくて、しばらくは酔っ払いみたいに便器を抱いた。目をつぶれば、四年間一緒にいて今日はじめて見た恋人の涙が浮かんできて、別れることをふたりとも悲しいと思いながらする別れがあるのだと、そのときに知った。その夜はなかなか眠れなかった。

 

 成就する恋ばかりがフィクションに描かれるなかで、昨年公開された映画『花束みたいな恋をした』はめずらしく、恋の終わりを描いた作品だったように思う。

 一言で言うと、ある男女が出会って恋をして、その恋が終わるまでの物語だ。出会ったときは、まるで運命のように思えた。ふたり転がるように恋に落ちて、一緒に笑って、それでもいつの間にかだんだんとすれ違うことが多くなっていき、会話も少なくなって……。

 作中で彼らが手に取る本やゲームは現実に存在するもので、かなり具体的。それなのに、この映画で描かれている恋を誰もが経験したことがあるように思えた。映画館にはカップルで観ているひとたちもそれなりにいた。映画が終わった後、このひとたちはいったいどんなことを話したのだろう。

 

 たとえば恋人が浮気をしただとか、私にひどい嘘をついていたのだとかで、パチンと頬を叩いて別れるような終わり方だったらもっと簡単だったに違いない。今回別れを切り出したのは私の方だけれど、相手ばかりが悪かったのだとも言い切れないところはある。私たちはお互いにちょっとした不満を抱えながらもなんとか4年間付き合ってきた。でも、それをこれからも続けていくことを私が放棄したのだ。

 

 はじめからなにもかもがピタッとくるような運命の人なんて、いないに違いない。世の中のカップルは互いにすれ違いながらも、相手の欠けた部分を受け入れたり、許したり、自分自身の習慣を変えたりしながら、今日の関係を明日につないでいくのだ。そう思ってる。

 それは相当な忍耐だと思う。恋は現実には、結ばれるところで終わりはしない。結ばれた後にも長い長い生活があって、その間ずっとすれ違い続け、ずっと許し続ける日々が続く。夫婦というものはすごい。これをずっと続けているのだから。

 

 「この人と結婚するのかも」と考えたときに私は、じゃあ、これから先もずっと我慢をし続けるのだろうか?と思ってしまった。たとえば、待ち合わせをするたびに待たされるような日々を。そして、恋人にもずっと我慢させることになるのだろうか?恋人に与えられないものが私にもあった。その不足のために恋人はときどき悲しそうな顔をして―――そんなことをこれからもずっと続けていくのか?そう思って、それで、逃げずにはいられなかったのだった。

 自分自身のそういうところを改めていかなければ、これからもずっとひとりのままなんだろう。そう思いながらも、一方ではやっぱりこの選択をしてよかったと思うこともある。どっちが正解なんだろう。人間関係にはときには忍耐も肝要なのか、それとも、自分自身が楽でいられるほうを選ぶべきなのか―――きっと、正解なんてないのだろうけれど。

 

 『花束みたいな恋をした』を観終わったとき、それが具体的なふたりの男女の物語でありながら、誰にとっての恋でもあるような気がしていた。出会ってから別れるまでの物語のどこかに、私自身も今まさにいるように感じていた。それは、もしかしたら予感だったのかもしれない。私自身の恋も、すでにあのときから少しずつ終わりに向かって傾いていたのかもしれない―――今はそう思う。

 

 映画は、別れたふたりがカフェで偶然出会うシーンから始まる。別れてからおよそ一年後のようだ。二人とも新しい恋人を連れている。場面はそこからふたりの出会いに遡り、付き合ってから別れるまでの数年間を描いた後、最後に再び一年後(現在)のカフェに戻ってくる。

 

 冒頭のシーンも含め、一年後のふたりをみていて感じたことがある。結果的に別れてしまったとしても、ふたりで過ごした日々が無意味だとか、まるでなにもなかったものだとか、そういうものではなかったということだ。背を向けたまま、かつての恋に手を振って、ふたりはそれぞれに新しい一歩を歩み出す。

 

 私の恋愛は、個別のエピソードで比べれば、彼らの恋とまったく似ていない。それでも、どこか似ている部分もある。どこが似ていなくても、せめてここくらいは似ていてくれればいい。現実の恋はフィクションのようにうまくはいかないけれど、いつか終わったこの恋を、無意味ではなかったと思える日がくるといいと願う。一年後の彼らが、過去をなかったものにするわけでもなく前向きに、新しい日々を楽しんでいるように。

 

入籍の日ってうちじゃなぜか

 「彼女、今入籍してるところなので」と言いかけて、いまにも口から外に出ていこうとする言葉の肩に手をかける。まだ出るな。今、「今入籍している」と言おうとしたのか?

 同じ職場の後輩の女の子――偶然にも私と同じ「森」さんだ――は今日、休暇を取っている。入籍するためだ。昨日の時点で森さんは「明日入籍する」身であった。そして明日になれば「昨日入籍した」森さんである。しかし、その昨日と明日に挟まれた今日の森さんはどうだろうか?「入籍している」と言うのは正しい表現なのか?

 

 考え込んでいるうちに、私の静止を振り切った言葉が、いつのまにかするりと唇をまたいでいた。
 「……入籍してるところなので、新しい名前の氏名印を発注しておいてほしいんです」
 伝える。そう言われた物品管理の担当者からは、なにごともなかったかのように「わかりました」という返事が返ってきた。ふう、なんとか怪しまれずに済んだみたいだ。
 

 違和感は、やっぱりある。「入籍している」という表現に違和感があるのは、入籍すること自体が時間的な幅をもった出来事とは思えないからだろう。ふたりは、結婚に向けて長い時間をかけて準備してきたに違いない。しかし、入籍の手続き自体はほんの一瞬だ。役所の窓口で婚姻届を提出する。あるいはその届出書を記載する時間も「入籍」に含めたとしても、せいぜい15分やそこらだろう。その程度の幅しか持たない出来事に対して入籍「している」と言い表すのは、なんだかちょっとだけ変な気がする。

 とはいえ、ほかにどう言えばいいのかもわからない。「彼女、今日、入籍なんです」なんてあいまいにするのがいいんだろうか?
 

 しかし、そう考えてみると、そうか。入籍自体は15分で終わる出来事なのだ。そう気がついた。

 でも…待てよ。それなら、入籍で休暇している森さんは、残りの時間をどう過ごしているんだろう?お互いの家族に挨拶――は事前に済ませているだろうし、結婚相手と同居するための引っ越しも半年ほど前に終わらせている。むかしむかしの農村の嫁入りじゃあるまいし、役所で婚姻届けを出したあとみこしに担がれて家まで練り歩き、華やかな宴会…ということもないだろう。いかんせん、私自身は入籍経験が一度もないのでわからない。入籍の日っていったい何をするものなんだろう?
 彼女にとって大事な記念日になるであろう日に、出社せよと言うつもりはさらさらない。ただ、さっぱり想像がつかなくて気になる。入籍の日にいったいなにをするのか、そうだな…………………………………………………………………………………………………ふたりでお食事とか?
 

 翌日、森さんは出社するなり私に謝罪をした。そして、その次の日も休暇を取った。曰く、昨日、住んでるところと違う役所で届け出をしたら戸籍に反映されるのに時間がかかるみたいなんです。なので、会社への届け出が遅れます。申し訳ありません。それから、昨日一日かけて銀行とかいろいろまわって手続きしたんですけど一日じゃ全部終わらなくて……明日も手続きがあるので、お休みします。

 

 ……私が想像したよりも、はるかにハードな現実との戦いだったみたいだ。入籍の日ってやつは。

 結婚して姓が変われば、変わった側はいろいろな手続きで忙殺される――そんなことちょっと考えれば想像できそうなものなのに、「ふたりでお食事」なんて寝ぼけた想像をしていた私がちょっとはずかしい。入籍の日――でもまあ、実際お食事くらいはしてるかもしれない、ですよね?