モリノスノザジ

 エッセイを書いています

苦くて苦い

 好きか嫌いかで言うと、嫌い。

 ――だったはずだ。いや、厳密に嫌いだった…なんて言うと、最悪な第一印象から始まるラブストーリーみたいだけれど、でもこれは違う。

 なにしろあいつと言えば真っ黒でドブみたいな見た目をしているし、舐めれば苦い。むしろ苦いだけだし、そもそも焦げた豆を材料にしているなんてふざけた代物なのだ。大学生にもなると周りは背伸びしてそれを飲みたがるのだけれど、あんなものを喜んで飲むなんて気が知れない。そう、コーヒーのことだ。

 

 何年か前、自宅にコーヒーメーカーを買った。スーパーで買ってきた粉をセットして湯を落とすだけの簡単な、数千円で買える品物だ。そんな安物のコーヒーメーカーを、私は粗末に扱っている。

 コーヒーフィルターをセットするドリッパーはたまに水洗いする程度。こぼれたコーヒーが受け皿で蒸発してカピカピになっても、そのままにしておく。もちろん、マシンの水通しなんて一年に一度するかどうかだ。少し衛生面が気にならないこともないが、これでもコーヒーメーカーにしては大事にしすぎる。犬にかわいい首輪をつけたり服を着せてかわいがるのをむしろ「かわいそう」と昔の人が言ったみたいに、そして犬を屋外につないで残飯を食べさせていたみたいに、コーヒーメーカーは汚く、なるだけ粗末につかうことが愛であり、大事にすることだと私は思い込んでいる。

 

 

 入り浸っていた。そう、そこが水の中だったら指なんてとっくにふやけていたくらい、私は研究室に入り浸っていた。家族よりも恋人といるよりも長い時間を、そこで同期の友人たちと過ごした。みんなで外国語のテキストの訳を教え合って、夕方になれば連れだって生協に半額弁当を買いに行き、時には本棚と本棚の間で寝袋にくるまって寝た。研究室には汚い汚いコーヒーメーカーがあって、それで沸かしたコーヒーをみんなで分けた。

 

 いつも研究室にいるということもあり、気が向いたときには掃除をして、消耗品が切れたら買い足したりもした。コーヒーを飲まない私がコーヒーメーカーの世話をするのは変な気もするけれど、私はコーヒーメーカーのフィルターを取り換え、余ったコーヒーを配り、授業が終わるたびに何人か分のコーヒーを淹れなおしたりした。そうしていつのまにか、私はコーヒーを飲むようになっていた。

 

 

 考えてみれば、昔嫌いだったものを大人になってから好きになるなんてこと、よくある話だ。ちいさいころはそれなりに嫌いなものがあった気がする。魚とか、蟹とか、熟した柿とか、いちじくとか。今になっては、全部を好きとは言えないにしても、嫌いというほどでもないくらいには好感度が上がっている。と言うより、何かに対して絶対嫌いと言うほどのエネルギーがもうないのかもしれない。

 

 今でも嫌いなのは、たとえばカキ。カキに関わらず、貝類は苦手。熱しても歯ごたえのない感じが奇妙で食べられない。それから、リンゴとにらの茎は食べると歯がくすぐったくて食べられない。

 

 でも、こんなものたちもいつか嫌いではなくなるときがくるのだろうか?それはあの研究室でみんなと分け合ったコーヒーみたいに、だれかとの思い出と一緒にやってくるのだろうか。もしそうだとしたら、この嫌いな嫌いなものたちをいつか好きになれる日がちょっとだけ楽しみで、そんなふうに嫌いなものも好きにしてしまうような日々が思い出になってしまう日がくるのが、ちょっとだけ、悲しい。

 

 

 本記事はお題企画「ゲリラブ」の参加記事です。

 今回の参加者の方には、参加記事に「#ゲリラブ二期」をつけて投稿していただいています。ぜひほかの参加者の方のブログも読んでみてください。

 なお、今回のお題は「書き出し固定:好きか嫌いかで言うと」でした。参加してくださった皆さん、ありがとうございました!

 

s-f.hatenablog.com

 

財布の中まで魂百まで

 エリエールのキッチンペーパーが4ロールで税込177円。財布からお金を出しながら、キッチンペーパーを177円で買えることのありがたみを身体全体で感じている。

 

 何日か前に唐揚げを揚げて、そういえばキッチンペーパーを切らしていると気がついた。仕方なく、新聞紙のうえにティシュペーパーを重ねてから、そのうえに揚げたての鶏肉を並べていく。なんだか前にもこんな感じで、そして、そうしたことを後悔した覚えがあるんだけど…と思いながらも、次々と唐揚げを乗せる。

 後悔とはこれのことだったのだと気がついたときにはもう遅い。油の抜けきっていない唐揚げにティッシュがべっとりとくっつき、くっついたまま乾いてしまった。おかげで先週は毎日ティッシュ付きの唐揚げを弁当に食べることになった。ついでに言うと、油を吸わせて丸めて茶色くなったティッシュを唐揚げと勘違いして弁当に入れていた日もあった。ティッシュ散々である。

 

 そういうわけで、キッチンペーパーのありがたみを改めて感じている。キッチンペーパーと言ったら、唐揚げを並べてもくっつくことはないし、唐揚げに擬態して弁当箱に入り込むこともない。水分もたくさん吸うので、油の処理にも大活躍だ。同じ紙原料で、見た目も似ているからってティッシュといっしょにしてごめん。キッチンペーパーにはキッチンペーパーの、ティッシュにはティッシュの役割があるんだね。キッチンペーパーを買って、私の財布の残金は194円になった。多分。

 

 つくづく、つくづく思うのだけれど、大人という生き物は財布にたくさん札を入れているものではなかったのだろうか。ファンシーショップに売られている子供用の財布は小ぶりでポケットも少なくて、それは明らかに大人と比べて取り扱う金の総量が少ないために違いなかった。実際、それは違いない。

 大人になった私は子どもの頃のお小遣いの十数倍ものお金をひと月に使っているし、札入れだって大きくて収納もたくさんある。でも、そこに入っているお金が多いかと言えばそうでもない。私の財布には常に一万円以下の金額しか入っていない。まあそれも、多分、だけど。

 

 財布の中身を正確に把握していたためしがない。子どものころから気がついたらお金が無くなっていて、妹にお金を借りては怒られていた。「どうして自分の財布の中身を知らないの!?」

 そう言われても、私からすればそれが普通で当然なのである。財布の残高がいくらだか、常にリアルタイムで把握している人(想像できないが、きっといるだろう)は、いったいどうしているのだろう?たとえば一日に一回とか、財布を開くたびにとか、定期的に財布の中身を改めているのだろうか?それとも、頭のなかに高性能な計算機とメモリーが入っていて、お金を使うたびに残高を計算しているのだろうか?

 

 私はそのどちらもできなくて、というかする気もなくて、それも現金と電子マネーを併用するようになってからはかけらしかなかった計画性もすべて吹っ飛んでしまった。私にとってお金は「あるか/ないか」のどちらかであって、いくらある、という概念はない。お金を管理したり、お金のことを考えるのが面倒くさい。そういうわけで、気がついたら財布のなかに371円しか入っていないという事態が生じるのだった。

 

 毎日日経平均株価をチェックして株を売り買いする人がいたり、1円単位で家計を管理する人がいたり、それはもちろん必要に迫られてのことかもしれないけれど、そういう人がいる一方で私のようにお金のことが考えられない人がいるということを考えると、どうやらこれは大人とか子どもとかという問題ではなくて、その人の資質の問題であるようにも思われる。

 そういえば、子どものころからこまめにお小遣い帳をつけている子だっていた気がする。なんだか変わらないものだなあ、と思ってなんとなく財布を開いてみると、2511円しかない。いい歳して給料日を気にする生活を続けているとは思わなかった。

 ところでこれ、やっぱり死ぬまでこうなのだろうか?

 

 

鍋の沼にはご用心

 スーパーマーケットに行くときには注意しなければならない。たいていのスーパーマーケットは入り口を入ってすぐ野菜を陳列していて、つまり、お店に入るやいなや白菜ドン!ニンジンしいたけドン!!えのきがドン!ついでにサイドの保冷庫にお豆腐と揚げがドン!とくる。

 ボリュームたっぷりな季節野菜の誘惑を抜けてもなお、魚コーナーではつやつやに丸められたつみれが、ぶりの切り身が、お米コーナーではスライス餅が、麺類コーナーではうどんが語りかけてくる。「買って…私を買って…食べたいんでしょう、…」続きを言う前に先へ進む。さっきからあちらこちらに並べられた鍋用つゆがニヤニヤこっちを見ている。かろうじて無視してレジに進む。今日の夕飯は生姜焼きだ。――鍋じゃない。

 

 鍋の誘惑を断ち切るのは簡単なことじゃない。なにしろ鍋料理と言えば、適当に切った具材を鍋のなかに敷き詰めて火にかけるだけでできるお手軽な料理だ。あらかじめ具材を切っておいて、ジップロックにでも保存しておけば、切るという手順すら省くことができる。このごろはいろんな味のつゆが売られているので味に飽きることもないし、味が薄くて物足りないなんてこともない。具材は実質なんでもOKで、好きなものを選んで入れることができる。そのうえ、ここのところの急激な冷え込みとくれば、もう鍋を食べない理由なんてない。

 

 しかし、一人暮らし歴の長い私は知っている。鍋は沼であることを。したがって、寒いからといって軽々に鍋に手を出してはならないことを。

 

 白菜に人参、しいたけ、えのき、鶏肉、玉子で鍋をするとしよう。一日目、二日目と鍋を食べて三日目。まず人参が切れる。一日目と二日目で1本使い切ってしまったのだ。やむなく私は人参を買い足す。四日目、鶏肉が切れるので代わりにつみれを買い足す。白菜はまだまだある。人参は昨日買ったばかりだ。五日目、えのきとしいたけが切れる。えのきとしいたけを買い足す。六日目、玉子と人参が切れる。玉子と人参を買い足す。七日目、白菜が切れる。しかし、手元にはつみれとえのきとしいたけと人参と玉子がある。ほかの具材は応用が利くにしても、鍋用つみれをほかの料理に活用するスキルは私にはない。やむなく白菜を買い足す。

 こうして私は、一度鍋に手を付けたが最後、切れ目ない鍋用具材の補給から逃れられなくなってしまうのだ。

 

 一度に大量の食材を消費する複数人家庭であれば、あるいは、私の料理スキルが高ければ沼になどハマらずに済んだのかもしれない。でも、私が独り身であることはどうにもできない事実であるし、料理スキルがないからこそ鍋を食べたいのだ。つまり、私は鍋沼にはまるべくしてはまるのであり、それを避けるには一回目の鍋を避け続けるほかないのだ。

 

 というわけで、私は鍋の誘惑に抗った。スーパーマーケットは全身をつかって客に鍋させようとしてくる。だから、スーパーマーケットは入った瞬間から戦いだ。束で安売りのネギも(鍋のなかでくたくたになったらうまそうだ…)、小分けの豆腐も(豆乳鍋なんかで崩れてあったかくなってるのがいいんだよな…)、肉コーナーの水餃子も(あたたかいつゆを含んでぶよぶよになったのなんて最高だな)、加工品コーナーの餅巾着も(一人だからいくつでも食べられる!最高)、みんな見ないふりしてストイックにレジに進む。私は鍋の誘惑に負けない。

 

 しかし、鍋の誘惑はスーパーマーケットにだけあるのではない。はてなブログを開くとそこには「今週のお題「鍋」」の文字。湯気につつまれた鍋の画像の連続。「あったかい!」「うまい!」の文字においしそうな鍋レシピの数々。

 翌日、スーパーマーケットの棚に手を伸ばすと、棚の上からは鍋つゆごま豆乳鍋がつやつやとほくそ笑んでいた。

 

超える

 お酒も飲んでないのに酩酊したような高揚感につつまれて人通りのない道を行く。そういえば、ここ半年ほどでずいぶん効率よく生活できるようになった。寄り道もせずに帰宅して、食事をつくってシャワーを浴びるその手順がおどろくほど洗練され、食後に「どうぶつの森」を起動する時間は日に日にはやくなっている。毎日がその繰り返しだ。

 以前ならたまに出かける予定があったりして、ときどき遅くなる日があるので外食したり、帰り道に駅ビルをふらっと歩いたり、そういうちょっとした無駄が少しはあったものだけど、ここんとこはとんとない。ただ真っすぐ職場から帰宅して、毎晩わざわざ頭を濡らしては乾かして、食べては腹が減っての繰り返しで、まるで工場の作業員がラインをさばくみたいに効率よくこなせるようになった。だから、こういう夜は久しぶりなのだ。

 

 今月は札幌でTGR(Theater Go Round)というイベントが行われている。1カ月間の間、札幌市内8か所の劇場でいくつもの演劇が上演される。例年この時期に行われる恒例のイベントだ。

 

 思えば、予定していた上演が次々と中止になった2月から、いくつかの劇団が手探りで公演を再開し始めた夏を経ても、演劇をめぐる状況は昨年と同じようにはならなくて、だから今年はあまり演劇を観にいけていない。手帳のスケジュール欄がこんなに埋まるのも久しぶりだ。演劇を観たあとの帰り道は、ちょっとだけ以前の生活に戻れたようで、演劇を観て生活に戻ってからのちょっとした気づきや発見のある生活に戻れたようで、少しだけ浮かれる。

 

 演劇は感染症対策の面でなにかと攻撃対象になることが多くて、どの劇場もピリピリしている。入り口前には感覚をあけて並び、入り口で靴裏の消毒と一度目の手指消毒&検温。受付カウンターではチケットを自分でちぎってボックスに入れ、客席に入る前に二度目の手指消毒。客席の数は二分の一に減らされて、最前列の客には要望に応じてフェイスシールドが配られる。観劇後はスタッフの指示に従って少しずつ退席。出口で三度目の手指消毒。もちろん、建物の中ではスタッフも観客も常時マスクを着用していて、公演終了後も二週間の健康観察が設けられる。

  正直ちょっと過剰な気がする場面もあるけれど、過剰なくらいに対策をしなければならない状況に劇場が置かれているという事実も見えてくる。実際、連日公表されるクラスター情報を見ていても、これだけ対策をしていてどうして?と思わせるような事例があることもあって、COVID-19というやつはなかなか手ごわいものらしい。

 

 

 劇場に通うようになってから三年くらい経つけれど、いまだにその魅力がなんなのかうまく説明できない。そこで演じられているのはお話で、それはテレビで見るドラマや映画と何が違うのだろう?コロナ禍において多くの劇団が公演のオンライン配信を試みたけれど、それを見ても劇場で観る熱を感じられないところからすると、演劇の魅力というのはほかでもなく、目の前で役者が演じることにあるような気がする。

 それは間近にいる役者から伝わってくる熱気であり、声の圧であり、またそれとは違ったものでもある。劇場というのは異様な空間だ。客席があり、舞台がある。客席にいる客たちは、舞台上の役者と時間と空間を共有しながら、目の前にある舞台は別の空間であり、自分がいる場所とは異なる時間の流れ方をしていると信じている。時間と空間があるというのは、世界だ。

 

 舞台の上にはこことは違う世界がある。しようと思えばそこへ侵入して舞台をめちゃめちゃにすることもできるのだけれど、しない。観客は客席で、世界の傍観者になる。舞台の上の世界が客席まで侵食してきて、観客がその世界に巻き込まれてしまうことはない。観客は第三者である。

 

 

 一週間前、函館の劇団「演劇ユニット41×46」の『雨の随(まにま)に』という作品を観た。ある会社で、ひとりの社員が退職届を出した。うつ病を患い「もうこの会社にはいられません」と語ったという。ある店に集められた彼女の同僚たちは、上司からその話を聞かされる。そして、どうして彼女が辞職に至ったのかを話し合う。

 同僚たちは毎日一緒に働いていながらまるで他人に興味がない。店に着くなり「今日何時に帰れるかな」なんて言い出す人がいるし、辞めた社員のことを心配するどころか「辞められると私たちに負担がかかる」なんて言ったりもする。同僚たちを集めた上司も上司で、辞めた社員を心配するそぶりを見せながらも裏では「うちのチームからこういう人が出ちゃうと、私の評価が下がるのよね」なんて言う。みんな自己中なのだ。

 

 こうした同僚たちの身勝手な言いように異議を唱える社員が一人だけいる。こんなときに、そういう話をするのは違いませんか?と。でも、私はその様子を見ていて、むしろよくここまで辞めた人のことを話したな、と思った。明日からの仕事の分担をどうしようとか、引継ぎはどうするのとか、チームの一員として働いている身としてはある種当然の反応でもあり、明日からも会社を続けていくために必要なことでもある。まっすぐに会社が進んでいく一方で心を病んだその社員のことを気遣えないのは残酷な気もするけれど、でも「仕方ないよね」と言ってしまいそうな気がする。

 

 そうだ。私たちは「でも、仕方ないよね」と言ってみて見ぬふりをしてしまうことがある。何かが間違っているような気がして、それに気づいていても「かわいそうだけど仕方ないよね」なんて言ってしまう。それを身勝手だとか自己中だと手放しに批判できるのは、当事者でない人間だけだ。私だって、あの話し合いの席に座らされたら同僚たちと同じように身勝手な行動しかできない、と思う。

 

 

 演劇にはときどき、こういう、普段私たちが「でも仕方ないよね」で済ませている、でもよく考えれば理不尽なことのその理不尽さを突き付けられることがある。それは言うまでもなく、劇場において観客が絶対的な部外者であり、舞台の上にある「世界」の傍観者であるからこそ気づけるものだ。

 

 でも、その気づきを私はちゃんと持ち帰らなければならないと思う。私が生きているこの世界に戻ってきたとき、そこで起こっている理不尽なことに気づいたとき、私はやっぱり「でも仕方ないよね」で済ませてしまうのか。傍観者と見ているときには身勝手だとか簡単に言うのに、いざそれが自分の番に回ってきたら、自分はその身勝手をする側を選ぶのか。

 

 劇場において観客は傍観者だけど、その地位は徹底してない。観客と舞台は地続きで、いつだって観客は客席を超えて舞台に出ていける。だからこそ、つきつけられるものがあるように思う。第三者として無責任に批判ができる客席という場所と、自分自身が登場人物となり、自分の問題として問題に向き合わなければならない舞台とは、いつだって行き来することができる。傍観者としての気づきを、自分の世界に持って帰ることができるのか。自分が生きているこの世界で、自分はどんな選択をするのか。それが問われている気がする。

 

 

 私の会社でもひとつ、ちいさな波があった。誰かがやらなければならない仕事があって、でも誰もそれを積極的にはやりたくない。上司は部下たちを気づかっているのかだれにも「やれ」とは言わなくて、部下たちも「指示があればやりますけど」みたいな感じで黙っている。そのうちに上司は「俺がやるよ」なんて言い出しそうで、きっとそうなったらみんな「申し訳ないけど仕方ないよね」「すみません、ありがとうございます」なんて言うんだろう。

 

 私はそういう感じが気持ち悪くて、でも自分が手を挙げるのもなんだなと思って、つまり、他の人たちと同じように見て見ぬふりをしていた。

 だけど、気づいた。あ。私は、あの劇場で、自分勝手な人たちのことを自己中だって批判しておきながら、自分がその場所に立たされたら結局同じ行動をしてしまうんだなって。劇場で得た気づきは生かされず、私は「嫌なやつ」になるんだなって。そうしていろいろ考えて、結局、上司に話した。これは会社がどうとかではなくて、自分に対する責任の問題だと思った。このまま無視していたらきっと、私はまたひとつ私のことを嫌いになると、そう思った。

 

 四日経った。五日前よりも私は、私のことを前よりもちょっとだけ好きでいる。

 

愛のことを言わせてほしい

 電車のなかで知らない人とふと目があって、それから、もしかしたらこの人との間に始まる恋があったかもしれないと想像する。いい相手に出会えないだのなんだのとたくさんの人が言うけれど、多分そうでもない。今の今まで他人だった相手であっても、何かのきっかけさえあればどうにでもなりうる。身長が何センチ以上とか、同じくらいの学歴とか、趣味がどうとか、そんな「好みのタイプ」を満たす人物はきっと、この世界にごまんといるのだ。

 

 それでもなお「いい相手と出会えない」と言いたくなるのはつまるところ、好き、を説明するために、好きなバンドが同じだからとか、真面目だからとか、お金持ちだからとかそういう具体的な理由をひとつひとつ挙げられるような恋ではなくて、どうしてだかうまく説明することはできないけれど、互いに心から惹かれあってたまらないというような恋を心のどこかで探しているからだと思う。そして、そういう感情のことを私たちはきっと愛と呼ぶ。

 

 

 私は高津カリノ作品がとても好きで、しみじみとコミックスを閉じるたびにどうしてこんなに好きなのだろうと考える。考えてもよく分からなくて、持ち越す。次のコミックスが出ると買って読んで、ときどきちょっと泣いたりもして、でもその好きなところを誰かに説明しようとしてもうまく言葉で説明することができない。つまりこれは、愛なのかもしれない。

 だから私はまったく上手に書くことができないし、うまく伝えられるのかどうかわからないのだけれど、どうか、愛のことを言わせてほしい。

 

 何度もアニメ化された『WORKING‼』や『サーバント×サービス』を知っている人がいるかもしれないけれど、もともと高津先生は個人サイトでWEB漫画を描かれていた。現在はヤングガンガンで『ダストボックス2.5』を連載中している。

 

ボリューミーならくがき漫画

 WEB漫画時代からすでにそうだったのだけれど、とにかく読みごたえがある。というのも、まず、ボリュームがある。本編を読み終えてもまだらくがき漫画がたくさんある。そういう状況は商業誌連載中の今でも変わっていなくって、本編とは別にTwitterでほぼ毎日4コマを掲載している。この間完結した『俺の彼女に何かようかい』では、最終巻発売と同時にTwitterに掲載された4コマ漫画をまとめた「WEB版」が発売されたのだけれど、あまりにも量が多かったので赤版・青版の二冊が発行されたほどだ。

 らくがき漫画は基本的に本編のストーリー進行に影響しない、キャラクター同士の日常的なやりとりを描いたものが多いのだけれど、これが私はとても好きだ。日々更新される4コマをながめながら、本編で描かれた以上の時間を共有してきたように感じる。作品のなかで流れる時間に厚みが出る。『俺の彼女に何かようかい』と同様に「特装版」というかたちでらくがき漫画がまとめられている『サーバント×サービス』を読んでいたときは、並行して更新されるらくがき漫画のなかで、登場人物どうしの関係が深まっていく感じがして好きだった(けど、気に入っていた4コマは特装版に掲載されていなかった…悲しい)。

 

設定の神

 高津先生の作品は好きだけれども、好きなだけに、新しい作品の連載が始まるときには期待のハードルが高くなる。前の作品と同じように好きになれるだろうか、なんて考えて、でも、その心配は杞憂に終わったこと以外ないのだから、いい加減安心すればいいのにと自分でも思う。

 『俺の彼女に何かようかい』は、その意味においては、第1話を読んだ時点で、この作品を好きになるという確信があった。なぜかと言うと、登場人物の設定からしてまず神なのだ。

 

 『俺の彼女に何かようかい』は人間と妖怪が共存する世界を舞台に主人公・福住篤志とヒロイン・白石無垢との恋愛模様を描いた作品で、篤志が無垢に振られるシーンから物語が始まる。篤志に告白されて、無垢もまんざらでもなさそうだ。でもふたりは結ばれない。無垢は雪の妖怪で、愛情やあたたかい感情を向けられると身体が溶けてしまうのだ。そのうえ、無垢の母親は訳ありで、人間のことを強く憎んでいる。

 他にも、無垢にとっての初めての友人・菊水真魚が、代々人間に苦しめられてきた歴史をもつ魚の妖怪という立場でありながら、無垢と人間である篤志との恋の応援に葛藤するだとか、こういうのを挙げはじめるときりがないのだけれど、そういう「たまらない」設定がそこかしこに仕組まれている。そして、そんな設定が生きる展開になって私はまんまと泣かされてしまうのである。

 

不完全なまま幸せになること

 多くの物語において、主人公は成長する。何らかのトラブルに見舞われてそれを克服する。劣っていた自分を変えて成功をつかむ。でも、高津作品における幸せのつかみかたは必ずしもそうではない。なにかしら欠点のある人間が、不完全なまま幸せになるという展開がところどころにあって、そのことにぐっときてしまう。

 

 『サーバント×サービス』に登場する主人公の同僚・三好紗耶は、ある区役所の保健福祉課で勤務する公務員。てきぱきと仕事をこなす主人公らと比べ、窓口にやってくるお年寄の世間話につかまってばかりで仕事を思うように進められないことを気にしている。余計な一言で相手を傷つけることを恐れていて、普段は言葉を控えるよう意識していたりもする。

 

 たとえば三好さんが、自分の欠点を克服して幸せになるエンドだったとしたら、そこまで好きにはならなかったかもしれないな、と思う。相手を傷つけないようにうまく言葉を伝えることができるようになって、お年寄の世間話も体よく切り上げることができる、とか。

 ときどき痛烈な発言を放ってしまうという三好さんの癖(?)は、本編では「治る」ことはなかった。そういった発言を遠慮したり、いちいち気をつかわなくてもいい関係性を気づけるような相手と出会えたからだ。欠点はかならずしも治さなければならないものではなくて、だれでも、不完全なままでも幸せになれるということにいつも勇気づけられる。

 

4コマのこと、言葉のこと

 4コマの構成だとか、ちょっとした言葉のニュアンスにもときめきの要素がかなり詰まっているような気がするのだけれど、私はこれをうまく説明できない。同じようなつくりの4コマが2本並んでいて、そのなかでたったひとつのセリフだけが違うようなときに生まれる面白みだとか、思わず唸りたくなるような技がそこかしこにある。どうしたらいいんだろう?

 

 

 中学生か、高校生か、少なくとも十代の頃から私は高津先生の漫画を読み続けてきて、とうとう高津先生の漫画に出会ってからの人生の方が長くなってきたことに最近気がついた。現在連載中の『ダストボックス2.5』は次巻で完結することがすでに分かっているから、なんだかすでにもうちょっと寂しい。この作品もまたこれからの展開がすばらしく私の胸にヒットする確信がビンビンで、楽しみなんだか悲しいんだかわからない。

 

 言いたかったのはただ好きだってことだけで、これが広い空に向かって息を吐くような意味のない行為であったとしてもかまわない。好きだってことを改めて、噛みしめている。

 

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