モリノスノザジ

 エッセイを書いています

仏陀にすればよかった

 泳いでいる間は静かで孤独だ。たまに息継ぎで顔を上げる以外は、ひたすら水底のタイルを数える。車の音も、人の話し声も聞こえない。窓から差し込む光が、ときおりタイルの表面に淡い模様をつくって揺れる。観察していると、光は私たちが白紙に色を乗せていくのとは違って、影の上に模様を描いていることに気がつく。プールのなかにみっしりと詰まった水が、透明なように見えて実はうっすらと影を持っていることに驚いている。


 ジムのプールに通い始めて3か月が経った。ジムで泳ごうと決めてから、水着を買い、ゴーグルを買い、バスタオルを買い、帰り道濡れた頭を包むためのタオルキャップを買い。道具がそろってからも、ジムに入会する勇気がなんとなく起きなくて、結局3か月ごしで無事入会手続きを済ませたのだった。

 

 きっと退屈だからと、泳いでいる間にあれを考えよう、これを考えようと思ってプールに入るけれど、考え事がはかどったことはない。考えているのは、息継ぎのタイミングだとか、足首の力の入り具合、同じレーンで泳いでいる人とぶつからないか、水をかいた腕が水面に出るときのかたちはどうなっているか。ーーーさっきから左側でばかり息継ぎをしている気がする。右でも息継ぎができるようにしとかないとまずいだろうか。もしかして今後水の事故とかに遭って、それも岩と岩の間とかの狭いところに挟まれちゃったりとかして、右息継ぎができなかったばかりに命を落とすなんてことがあったり……あ、また左。隣のレーンの人のバタ足が激しくて、うぷ、水が入った。―――陸上と違って、意識的に息継ぎをしなければ呼吸ができないし、意識的に水をかかなければ前進しない(これは走る場合も同じだけど)。水中がそういうところだからなのかもしれない。

 

 泳ぐのは高校の授業以来なので、もう十数年ぶりだ。取り立てて得意だったわけでもないけれど、水に入ればなんとか泳げる。それも、子どものときと違って耳やら鼻やらに水が入ることもない。人は衰えていく一方だと思い込んでいたけれど、もしかしたら、昔の自分にはできなかったことが今の自分にはできるのではないか。そう思えるようになったのが、肩こりがなくなったとか、クマが薄くなったなんてことより驚いた一番の変化かもしれない。


 プールの後はいつもジムのお風呂に入る。ドライヤーが少ないので、軽く根本だけを乾かしてからタオルキャップをかぶって帰ることにしている。Amazonのレビューで「茶色を選んで失敗しました。仏陀に見えます」と書かれているのを見てベージュを選んだのだが、それも失敗だった。どう見てもフジツボにしか見えない。仏陀かフジツボなら、仏陀にしておくんだったと後悔する。仏陀、人間だし。ーーー人間だよね?

 

今週のお題「最近変えたこと・変わったこと」

今日は一つだけ買う

 そのスーツ姿の男性は、札幌丸井今井の地下鉄連絡口を出て改札をくぐり、同じように改札を抜けた若い女性に片手を上げて挨拶をすると、地下鉄東豊線の方向へ颯爽と歩いて行った。
 金曜日の夕方、くたくたなからだを引き摺って家路を急ぐ人たちで込み合う改札口で、そのなんということもない別れの一場面が目に付いたのは、男性が手に提げているビニール袋。そのなかみのせいだ。白くて清潔な立方体。おそらくそのなかにはケーキが入っている。それも一つ。大きさからして、ケーキ一つ分がやっと入る大きさの紙箱をその男性は持っていた。


 金曜日の夕方に一つだけケーキを買って、いったいどうするつもりなのか。もしその男性が妻子ある身であるとすれば、妻や子を差し置いてそのケーキを独り占めするつもりなのだろうか。それとも、それは自分のためのケーキではなく、妻や子、あるいは親など、誰か大切な人のためのものなのか。今しがた改札で別れた女性とはどういった関係性なのか。一緒にケーキを選んでもらったのか(妻のために?)。一緒にケーキを選んで男性だけがケーキを買い、一緒にケーキを選んだ二人が一緒にケーキを食べないということがあるのか(まあそれもあるか)。
 その白い紙箱のことがあまりにも気になりすぎて、スーツを着ていたこと以外に男性の情報を得られなかったのが悔しい。推測によって限りなく真実に近づくには、あまりにも手がかりが少なすぎる。その人は何歳くらいなのか、結婚はしているのか、表情はどうだった。もう少し情報があれば、下世話にも、知りもしない他人の私生活をあれこれ詮索するようなことはなく、シンプルな答えにありつけていたことだろう。思考の表層に上るまでもなく、例えば「愛する妻のためにケーキひとつ買って帰る男性」として処理されていた、そんな取るに足らない一瞬のはずだった。

 

 それにも関わらず私がその男性から、その男性が持っている紙箱から目を離せなかったのは、その男性が私にはできないことを軽々としおおせていたからだ。男性とすれ違い、改札にICカードをかざしながら、じわじわと敗北感に襲われる。私は、「一つだけ買う」ができない人間なのだ。

 想像してみてほしい。魅力的なケーキがずらっと並んだショーケースを。そのなかからたった一つのケーキを選ぶ人間を。なんと欲のないことだろう。私にはこのなかから一つだなんて、そう乞われたとして選べそうにない。加えて、夕方というこの時間。あと1時間45分すればこの店は閉まる。そうすると、ショーケースで通りゆく客たちの顔をけなげに見上げて、買われるのを待っているこの子たちはいったいどうなる。本当なら全員家に連れて帰りたいところだ。一つだけ選ぶなんて、私にはできそうもない。
そして思い出してほしい。ケーキ一つ分の包みを下げて歩く男性を見て、私がどんな思考を巡らせたか。ケーキを一つだけ買うだと?この人は一緒にケーキを食べる相手がいないのだろうか。甘いものを食べるこの上なく幸せな時間を、共有する誰かがいないのか。それとも、独り占めにするつもりか。ははあ、こいつの顔ややり取りを見るに、どうもそうに違いない。そんなふうに、ショーケースの前でケーキを選んで会計するまでの一挙投足を値踏みされているかもしれないのだ。

 そして単純に、理由なく、一つだけ買うのには抵抗がある。コンビニでお弁当を買うときにも、ついつい野菜ジュースや栄養ドリンクを足してしまう。一つだと店員に迷惑がかかる?そんなことはないはずだ。そう思っていてもなぜか、一つだけ買うのはためらわれる。癖?いや、半分病気みたいなものだ。

 そんなわけで、一つだけ買うことができない私は、ケーキ一つだけを持って颯爽と歩き去っていくあの男性から目を離すことができなかったのだ。あまりにもまぶしすぎた。

 

 しかし不思議なことに、その日は敗北感の裏にむくむくと勇気のようなものが芽生えてくるのを感じた。今日はいける。今日は一つだけ買う。根拠はないが、なんとなくできるような気がしていた。

 地下鉄の改札につながる出入口からエスカレーターで店内に入り、にぎわうフロアを見渡す。今日の目当ては、ささみチーズかつだ。地下1階の惣菜店で、3つ入りで売られている。今日の夕飯のおかずにするために買うのだ。一緒に店頭に並べられている商品は主に揚げ物なので、2パック3パック買う必要はない。一つだけ買えばいいのだ。実に論理的な結論だ。決意で胸を満たして、地下2階に並んだ甘味を横目にさらにエスカレーターで地下1階まで上る。今日は一つだけ買う。買うのだ。

 

 ―――なかった。ささみチーズかつは売り切れて買うことができず、私はくるみ餅と磯辺焼き、いちじく蒸しパンが入った袋を下げて札幌丸井今井を後にした。地下1階に上がるエスカレーターに乗り込む瞬間、餅屋に期間限定で磯辺焼きが並んでいるのを見てしまったのが終わりの始まりだった。

 ささみチーズかつを買うことができなかった悲しみは、さっき固めたばかりの私の決意をすっかり溶かし切る。磯辺焼きにつられてカウンターに立つと、人気でなかなか変えないくるみ餅が山盛りになっているのが目に入り、つい「くるみ餅一つ」と言ってしまう。とはいえ、期間限定の磯辺焼きは買わねばなるまい。くるみ餅をパックに入れて、次の注文を待ち構える店員の視線がそれを後押しする。まあこれくらいは仕方がない、なんといっても期間限定なのだから。やむを得ず磯辺焼きを一つ加えてもらう。

 しかしここまでだ。店員も「本日中にお召し上がりください」と言っている。確かに、賞味期限のことを考えるとこれ以上はいけない。それに、今日は一つだけ買うと決意した私だ。期間限定の磯辺焼きにつられてついつい二つになってしまったが、これで十分―――そう思いながら、店員が会計のために差し出す電卓に目をやると、そこにはいちじく蒸しパンがあった。いちじく蒸しパンだと……。今までに見たことがない商品だ。あきらかに今しか買えない季節の限定もの、それも私はようやくいちじくの味に目覚めた口で、いちじくに出会えば食べずにはいられないお年頃なのだ。目に入ったからには買わざるを得ない。なんということだ、こんなトラップがあるとは思いもしなかった。餅は固くなるから当日中に食べねばならないが、いちじく蒸しパンは明日―――そう算段する私の心の内を見透かすように、店員が言う。
「本日中にお召し上がりください」
2回目だ。

 どうせ一人で食べるんでしょうけど、そう言われているような気がするがもちろんすべて私の妄想だ。自分との約束を守れなかった代償に餅二つといちじく蒸しパンを抱えて、それでもなんとなく気持ちは清々しかった。

アラさま

「くさかんむりのアラです」
 そう言い直されて、しまった。と思う。
 と同時に「いやいや」と心のなかで言い返したい気持ちになる。どう考えたって、「くさかんむりのアラ」より「アラアラしいのアラ」の方がわかりやすい。
 それに、「アラアラしいのアラ」という説明はちっとも間違ってなどいないではないか。なぜ訂正されなければならなかったのか。

 それによく考えたら、「くさかんむりのアラ」ではその漢字の草冠部分しか説明していない。そしてそのわりに、草冠は「荒」という漢字にとってたいして本質的でもない。

 

 ……というのは途中から半ば言いがかりで、わたしは否を認めるしかない。ともかくこの人にとっては、「アラアラしいのアラ」は不正解なのだ。

「『くさかんむりのアラ』様でございますね、承知しました」

 そう言って、心の奥に矛を収める。言われてみれば、こんなに穏やかなアラさんを「アラアラしい」なんて言葉で説明するのはやっぱり間違っていたのかもしれない。アラさんも「アラアラしいのアラ」と説明されたことに対して、怒っているわけではなさそうだ。電話は始終和やかな雰囲気で終わった。さすが、荒々しくはないアラさんだ。

 

 人の名前の漢字を言葉で説明するのが苦手だ。音声だけで文字を表現しようとするコミュニケーションには、ありとあらゆるリスクが詰まっている。

 

 例えば、「なんでその言い方をチョイスしちゃうかな」編。
「大きい小さいの小ですね」
 わざわざ比べなくていい。
「オスメスのオスですね」
 これは明らかに「英雄のユウですね」と尋ねるべきだった事案だ。動物の性別を言い表すやり方で、人間の名前を説明すべきではない。
「真実のシンにシンジツのジツですね」
 それは一回でいい。

 

「逆にわかりづらい」編。
「清水寺のシミズ様」
 同じ読み方の例を思いつけなかったのか。
「方角のニシに、ゴウは糸へんに『なんとかのさと』とかのゴウ」
 西郷隆盛の西郷って言えばいいんじゃないのかな。

 

「それは伝わらない」編。
「樹木希林のキです」というのは有名な話だけれど、
「アベさんとかのアに……」
 どっちのことだろう?
「マイナーなほうのスズキ」
 なんですか?
「さんずいに十二支の『トリ』みたいなやつ」
 個人的には「お酒の酒」と言っていいと思います。
「『あらかん』のラ」
 わかるかなあ?

 

 何度も説明しているのだから、自分の名前の文字くらいスマートに説明できればいいのに、わたしはわたし自身の名前すら説明を間違える。だいたい電話先の人は笑って、「○○の○ってことですよね?」と確認してくれる。そうか、わたしの名前はそう説明すればよかったのか。そうやっていつも膝を打つ。

 だけど、他人がそんなふうに「わかりづらい説明」をするのは別に嫌いなことじゃない。誰だってだいたいは、なんとか相手に伝えようとして、わかってもらおうとして、傷つけないようにしてそうなってしまうのだ。そう考えると、むしろかわいい。

 

 電話が鳴って出ると、さっきのアラさんからだった。
「請求書の日付はいつでおつくりしましょうか」
「報告書はホチキス留めが必要ですか」
「この後14時くらいに書類を持って伺いますが、近くの道で工事をしているようでしたので、少し遅れるかもしれません」

 アラさんの仕事はとても丁寧で、「荒々しい」なんて言ったのはやっぱり間違いだったんだな、という気もしてくる。

 電話を置く。電話をとる。

「『ワタナベ』あてに郵便で送ってください」

 ……さて。