MORI7

エッセイを書いています あなたの役には立ちませんブログです。

ねむい

 雨が降っていそうな朝は地下通用口をえらんで会社にはいる。仕事のメールにさっと目をとおして、適当な返事を返す。お弁当にはトマトがはいっている。栄養バランスと彩りを考えてのことだ。電車の扉がひらいたら、降りる人のためにすこしよけて道をつくる。こんなにも生活を、すくなくとも表面上は、まともにこなしていることを、自分でも驚くくらい、ねむい。

 ひだりみみの後ろ、あたまの表面から内側に2センチくらいのところから真っ暗な暗闇がひろがりつづけて(頭は3Dなので説明が難しい)、あたまを満たして首のつけ根くらいまでずんと重い。あたまのなかは砂のようにまっしろでざらざらとしていて、なにかが細胞に足りないような感じがする。見えている景色はちゃんとカラーなのだけれど、あんまりあたまがぼんやりしているものだから、まったく世界は生き生きしていない。ねてもねてもそんな感じで、何しろ私は普段からしっかり8時間睡眠をとっているのだ。


 ショートスリーパーとかいう選ばれた民がこの世にいるらしい。多くの人が7~8時間程度の睡眠を必要とするのに対し、彼/彼女らが生活するのに必要な睡眠時間は6時間未満である。なかには、一日あたり3時間の睡眠で済むという人もいるという。1日に8時間寝る人間と、1日に6時間の睡眠で済む人間。起きて活動できる時間の差は1日では2時間だが、一週間にして14時間、1カ月で60時間にもなる。ショートスリーパーはその分多く生きられる。一方眠っている人は眠っている間に何をしているかというと、ただ単に横になっているだけなわけであって、余分に起きている2時間をショートスリーパーがどう使おうと、少なくとも寝ているよりは十分に有意義な時間の使い方であることに間違いはない。

 知り合いに実物がいた。彼は学校で出された課題を完璧にこなしたうえで新聞記事は隅から隅まで目を通し、毎晩夜遅くまで教師や友人と時間をかけて議論をしていた。放送中の深夜アニメはすべて目を通しており、はやりの小説もしっかり読んでいて、クラシックやジャズなど音楽の知識も豊富だった。時間はすべての人間に等しく与えられているとはいうけれど、私と彼に等しく24時間が与えられているとは到底おもえない。そんな彼の睡眠時間が1日3時間だと知ったときは、数学の問題が解けたときみたいに、唯一の答えにたどりついた気持ちだった。


 ショートスリーパーいいなっておもう。その陰には「私もショートスリーパーだったらうまくいくのに」という気持ちがあるんだろう。ショートスリーパーだったら、私だってもっと本を読むし、新聞ももっとちゃんと読んで社会で起きているあれこれについて少なくとも社会人として恥ずかしくないくらいのコメントができるし、部屋の掃除だって毎日やる。ブログも毎日書くし、時間がありさえすれば運動だってできるんだ。私がいまそれをできないのは、ただただ時間がないからなのだ。


 …と言ったところで、なんだか私がまた、「やらない」理由を「自分がショートスリーパーじゃない」せいにしていることに気が付いた。彼が多くのことで抜きんでていたのは睡眠時間が少なく済むのもあるのだろうけど、それ以上に彼がほかの人以上に努力していたからだろう。実際のところ、私がいまより長く起きていられるようになったところでどんな時間の使い方をするというのか。起きている時間の長短より、起きている間に何をするかが重要なのだ。たぶん。

 さらにいうと、睡眠時間が短くなると体調を崩しやすくなる。実際に、残業続きで普段より睡眠時間が1~2時間少ない日がしばらく続くと、自分でも驚くくらいちょっとしたことで風邪をひく。しっかり身体を休めて免疫を高めることがきっと重要なんだろう。身体が発する声を無視して無理に睡眠時間を削ろうとすれば、体調を崩してしまう。寝ている時間は機械が電源をOFFにしている時間とは違って、人間にとって大事なものなんだろう。だから、寝る時間も起きる時間も大事にしたい。日中は「いつまで寝てるつもり?」って問いながら活動して、夜は「いつまで起きてるつもりだ」って気持ちで床に入れたらいい。

 とりあえず、熱いコーヒーを飲んで頭から灰色のざらざらを追い出そう。寝るまで起きているために。

全日本家事大会開催のおしらせ

 「これは、」とおもうのは―――。使い終わったハンガーを洗濯かごに片付けるついでに、取り換えたまくらカバーを洗濯機に放り込むとき。小鍋でかぼちゃを煮ながら料理中にでた洗い物を片付け、そのとなりで唐揚げ用の肉が特製のタレのなかでねむっているとき。金曜日の朝弁当箱におかずをつめたら、冷蔵庫のなかがきれいにからっぽになったとき。一人暮らしも十年になって、少しずつ効率よい家事のやりかたというものがわかってきたような気がする。

 そしてもうひとつ感じるのは、家事はそれ以外の生活とつながっているということだ。家事に必要な段取り力は仕事中や旅先でも使えるし、培われもする。仕事でミスをしたとき、旅行中に急に雨に見舞われたときに事態を打開するために使う力と、日常を滞りなくまわしていくための家事の力は根っこでつながっている。

 しかし、仕事や趣味と違うところもある。私は一人暮らしなので、家事のやり方は基本的に自分で学び、覚えなければならない。ゲームとちがってチュートリアルはない。一方、仕事とはちがって、とんでもないことをしでかしても自分のほかに利害を被る人間はいない。そんなことも理由で、家事がいっきに上達するということはなく、ゆっくり、しかし毎日やるがゆえに確実にうまくできるようになっていくのを感じる。家事歴10年そこそこの私がそうなのだから、もっと長いこと家事をしているひとや、複数人分の家事を担っているひとというのは、それはもうものすごい家事力を持っているのではないか。

 そうしたすばらしい、そして普段は日常のあわただしさのなかで決して注目されることのない数々の技術をみてみたい。そして、そんな技術で日常を生きる全国の家事ラーたちをたたえたい。そんな気持ちがして、ここに全日本家事大会の開催を宣言します。


 大会の参加資格はすべてのひとが持っている。しかし、「業」としての家政婦が勤務時間中に発揮するような家事力は審査の対象外とすべきであろう。

 なぜなら全日本家事大会は、仕事や育児、趣味など普通のひとが普通に過ごす日々を大事にしながらいかに家事をこなすか、それを実現するための工夫や努力を評価する。技術の差がどうであれ、対価を与えられ、与えられた時間のなかでそれだけに専念する「職業としての家事」と「日常の家事」が同じ土俵で語られるべきではない。
 競技としての採点基準を考えよう。まず、できばえは重要だ。掃除がすみずみまで行き届いているか、料理はおいしいかなどといった家事のクオリティを「技術点」として評価しよう。
 つぎに「構成点」。これは、複数の家事を効率よくこなすスキルを評価するものだ。短い時間でより多くの家事を、時間的ロスを最小限にとどめてこなすことができれば評価が高くなるのは言うまでもない。
 そして、いかに効率よく、出来の良い家事であったとしても、多額の費用がかかるようであれば日常との両立は困難だ。そこで、経済的効率性も採点項目に加えることにしよう。食材やエネルギーの無駄を抑えることも重要だ。
 しかしいつか、ほとんどの家事を機械で済ませることができるようになり、しかもそのために特別な経済的負担が必要ないような未来が今後やってくるとしたらどうだろう?そのときは、それらの機械をうまく使いこなせる人間が評価されることになるのだろうか。
 日常生活を便利にするという観点では、旧式の家事にこだわることはむしろ妨げにしかならない。洗濯機や炊飯器は昔はなかったわけだけれど、今は多くの家庭が備えていて、そうした機械を使うことは「手抜き」とはみなされない。しかし、手間暇をかけることに価値が置かれていることも事実である。来るべきIoT社会を前にして、家事というものの考え方、そして家事大会の採点基準のあり方を考えていくことはわれわれ家事業界の急務の課題である。


 話は現代の家事大会に戻って、現実的に家事が競技として成立するには何が必要かを考えてみよう。

 まず、参加者はみな同じシチュエーションのもとで競技に参加しなければならない。体操の大会で参加者によって鉄棒の高さが違っていたり、サッカーボールの重さが試合によって増減するようなことがあればそれはフェアな戦いとは言えない。したがって、家事大会もまた同じシチュエーション、同じ道具と時間が与えられるべきである。

 しかし、全員が同じシチュエーションに置かれ、家事を行う、というのは、はたして全国家事大会のそもそもの理念に沿ったやり方なのだろうか。全国家事大会は、人によって異なるそれぞれの生活のなかで発揮される工夫や技術にスポットを当てるものである。その生活は、一人で子供を育てる片親であったり、会社勤めのサラリーマンであったりする。老いた配偶者の介護をする自身も高齢の身であったり、10代の一人暮らしビギナーであったりもする。このように生活状況がひとりひとり異なるなかで、ひとびとはそれぞれの生活に適応するための努力をしているのだ。そして、全国家事大会はそうした個々人の努力にスポットを当て、称えることが目的の大会ではなかっただろうか。

 そういった意味では、それぞれの家庭にそれぞれの家事大会がいえる。そして私は常にグランプリである(一人暮らしなので)。しかも、この王座は当面の間だれにもゆずる予定はない(残念ながら)。

 

 毎日当たり前にやっていることでも、その当たり前の毎日はたくさんの努力の積み重ねでできていること。そんな気持ちで、家事をするあなたがすこしでも誇りにおもってくれるのであれば、家事大会主催者としてこれ以上うれしいことはありません。そして、もしあなたがまだ家事をしていないのであれば、ぜひ参加してはみませんか。全国家事大会は、今日もあなたのおうちで開かれています。

びよんど

 なにもはいっていない空のマグカップを手に取るみたいな無造作さで電子レンジからマグカップを取ったものだから、カップから熱い牛乳が漏れて私は親指のつけ根をやけどした。そうだ、牛乳を飲もうとしたんだ、と私は気が付く。この間のサンマのことといい、ここのところ信じられないことばかり起こっている。

 ものごころついたころから牛乳は嫌いだった。給食の牛乳はミルメークがないと飲み切ることができなくて、いつもだれかに飲んでもらっていた。牛乳を嫌いだった理由はわからない。味やにおいが嫌いなわけじゃないし、飲むとお腹が痛くなるわけでもない。だけどなぜだか牛乳を飲み切ることができなくて、それはいまでも同じだ。牛乳についてネガティブな感情は全く抱いていないはずなのに、冷蔵庫のなかの牛乳はいっこうに減らない。それなのに冬になるとどういうわけだか牛乳を飲みたくてたまらなくなるときがあって、今日もこうして牛乳をあたためている。

 サンマも同じだ。私は小さいころから魚が大嫌いで、成人してからもスーパーでは魚コーナーを避けて歩いていた。そんな私が、一カ月間毎日サンマを食べ続けていたのだ。一日一尾、サンマを買いにスーパーに通っていたので、裏でさんまさんって呼ばれてないか心配だった。

 しかしそんなサンマ熱も、ある日とつぜん消えてしまった。一昨日や昨日と同じようにサンマを買うつもりでスーパーにはいったのに、うーん、なんだかサンマはもういいや、という気分になった。昨日まであれだけ固執していたサンマには目もくれず、私はカレーに鶏肉と豚肉のどちらを入れるか考えているのだった。そうしてサンマを食べていた日々は砂糖が日差しに溶けていくみたいにゆっくりとなくなっていき、私の食生活は元通りになった。サンマがふたたび嫌いになったわけではない、と思う。

 こういうのってなんだか不思議である。冬になると牛乳を飲みたくなったり、チョコレートが食べたくなったりするのが。暑い季節に冷たいものを食べたくなるのは自然なことだけれど、牛乳やチョコレートやサンマやセロリやホイップクリームも、それぞれにそれを欲しくなるような、しかるべき季節があるのだろうか。

 季節や年齢によって嫌いなものを好きになったり、好きなものを嫌いになったりしていると、なんだか季節ごとにワタシを乗り換えているような、そんな気持ちになる。食べ物だけじゃなく、私はかつて許せなかったものを受け入れられるようになっていたり、その逆もそうなのだけれど、いつまでも昔の自分ではないようなところがあって、夢中になってサンマをかじっている自分に気が付いてなんだか驚くような寂しいような、不思議な気持ちになることがある。いつでも自分がいちばん自分の想像を超えていく。不思議なことだ。

スーパードライにつめたくて

 診断を免れるためならドーピングだってした。日ごろから用心して対策をしてきたし、今度こそは間違いなくわからないと思った。けれど日々の生活で積み重なった乾燥は私の角膜に深い傷をきざんでいて、医師の鋭い目はごまかせないのであった。


 眼科に行くたび、ドライアイと診断される。自分ではこまめに目薬をさしてるつもりだし、なんなら眼科にはいる前にもたっぷり目をうるおしているというのに、どういうわけだかドライアイと診断されてしまうのだ。とうとう昨年は、涙腺に薬で蓋をして目のなかの涙が流れでないようにする手術を受けるまでになった。自覚していなくてそうなのだから、自覚があるときはきっと砂漠の砂みたいにカラカラなんだろう。私の目は。

 気が付けば肌も乾いている。数年前までは母が冬になるとハンドクリームを塗る理由がわからなかったけれど、今は私もハンドクリームなしでは三日と暮らせない。歳をかさねるにつれて手は指先からひび割れ、フェイスラインから侵攻してきた顔の乾燥はいまや中心まで迫ってきている。年齢的にももう「フレッシュな新人」と呼ばれるような年ごろでもなくなってきた私であって、こうやって人はこころも身体も乾いていくのだなあ、なんてしみじみと思う。

 人は放っておけば乾いていく。新生児では体重の約75パーセントを占めていた水分が、歳をとるにつれてだんだん少なくなり、老人になると約50~55パーセントまで落ち込んでしまうという。水分量が減る理由はいくつかあって、その一つは体内の脂肪分の増加らしい。身体のなかの水分は身体すべてに均等にいきわたっているわけではなく、部位によってその水分量が異なる。脂肪分は含んでいる水分の量がとても少ないので、年齢を重ねて脂肪が増えるにつれ、女性の場合は大人になって身体の脂肪分が増加するにつれて身体全体の水分量が減っていくというわけだ。逆に水分量が多いのは筋肉で、その約70~85パーセントが水だという。だから筋肉の少ない老人は乾燥しているし、スポーツマンは肌がつるつるなのだ。

 筋肉の問題は私にとってある程度、そこそこ、明日の夕飯よりは重要なくらい気になっている話題だ。乾燥の問題もそうだけれど、冬になると冷えもやってくる。冷え性として手足が冷えていることはもちろん、尻が驚くほど冷たくてトイレに入るたびにびっくりする。そこが冷えてたらそのほかの部分も温まらないわけだよなあ…五体の要だものなあ…となんとなく納得しながら、毛糸のパンツを履こうがヒートテックに変えようが一向によくなる気配もないので、筋肉をつけてしまうのが一番いい解決策なんじゃないかと考えている。筋肉をつければ身体の水分量が増して乾燥解消&身体ポカポカ、ついでにストレス解消にもつながるかもしれないと思うのだけれど、肝心の運動が続かない。ジムは今年の春から行かなくなってしまった。雪がなくなって外でジョギングができるようになり、ジムに通う必要がなくなったからなのだけれど、どういうことかそのあとジョギングをした覚えはない。これならできるかもと購入した縄跳びも、三日坊主どころか二日でやめてしまう始末だ。あーあ、どうにかして簡単に筋肉をつけられる方法、ないのだろうか。 

ようこそネガティブの国へ?(2/2)

(前の記事:ポジティブ・リバウンド

 こうして道半ばでネガティブ治療を断念することとなった私であったが、冷静になって考えてみると、ネガティブは本当にそんなに悪いものなのだろうか。

 あわただしかった日々のすべてが終わり精神的にも落ち着いた今になって考えてみると、疲れたり失敗したりしていたらネガティブになることだって、まああるだろうよ、と思う。

 あのころの私を追い詰めていたのは、ネガティブな自分を許せない気持ちだったのだろう。失敗して落ち込んで、落ち込んでいる自分が嫌でさらに落ち込んだ。そうしていつのまにかポジティブを信仰するようになったのだ。けどそれだって、まあまあそんなことはあるよね、と思う。誰だってお腹や頭が痛いときはある。そんなとき悲しい気持ちになるのも当たり前だ。そして、だれも私の腹痛を咎めはしないし、頭痛で落ち込んでいること自体は何も悪いことじゃない。それと同じように、精神的な落ち込みだとか、それを気に病んでいっそうブルーになっていたとしても、それ自体はなんにも悪いことじゃないのだ。今までずっと「ネガティブは悪いもの」と思い込んでいた私だけれど、そう考えられるようになるとずいぶん気持ちが楽になった。


 けれどそもそも、ネガティブはほんとうに悪いものなんだろうか。自分がネガティブになっているからって落ち込むようなものなんだろうか。最上悠著『ネガティブのすすめ―プラス思考にうんざりしているあなたへ―』は、ポジティブ思考の危険性を指摘するとともに、ネガティブを「克服すべきもの」ではなく「強み」に変えるための方法を説いている。

 プラス思考の落とし穴の一つは、それが現実逃避につながる可能性があることだ。何かで失敗したとき「次はうまくいくって」とか「今回は運が悪かっただけ」と考えるのはポジティブであるように思われるが、現実のネガティブな部分から目をそらして今の自分を肯定する逃避的ポジティブになりかねない。

 また、過度なポジティブは人を孤立に導く。ネガティブな意見に耳を貸さず、周りをないがしろにする人。苦しみや悲しみの渦中にいる人にポジティブを押しつけて(前向きになれよ、とか、いつまでも落ち込んでるからダメなんだぞ、とか)、人に寄り添うことのできない人は孤立する。

 また、プラス思考に傾倒し、自分のネガティブな感情を素直に受け入れられないことは心身に悪影響を与える。精神科医らしい指摘でなかなか納得だ。

 それに対して、ネガティブはうまく活用すればとても素晴らしい資質になりうる。はじめに、欠点やマイナス面を直視することができるネガティブ思考は、問題解決にとって重要な姿勢である。物事を疑い、常に最悪のケースを想定することで有効な対策につなげることができる。

 また、人間関係は自信のネガティブな要素を相手に見せることで深まっていく。さらに、自分自身の欠点をよく理解している人は、他人に共感することができる。どれもポジティブ一辺倒の人には欠けていた要素である。

 

 しかし、こうした比較のもとで「だからポジティブ思考はダメ!ネガティブこそがすぐれている」と主張するなら、それは不公平だと思う。なぜなら、これまで書いてきたことは「過度なポジティブ」と「適度でうまく活用されたネガティブ」を比較しているからだ。

 もちろん著者も「行き過ぎたネガティブ」は悪影響を及ぼすとして、それを克服するための章を設けている。行き過ぎたネガティブの悪影響とは、「どうせまた失敗する」とか「何をしてもうまくいかないに決まってる」と現状に甘んじ、何かを変えるための努力をしないことだ。けど、これって結果的に、さっきみた「行き過ぎたポジティブ」と似てはいないだろうか…?

 

 ポジティブとネガティブは、どちらも極端になれば過度な現状肯定、現実逃避につながるという点で似ている。そのとき違うのは向いている方向だけで、どちらもその場から一歩も動いていないのだ。重要なのは現実にある問題にどう対処し、どう解決するかということであって、どっちを向いているかは関係ない。気持ちが前向きだからってすべてがうまくいくなんて考えも甘えた考えであって、気持ちがどうあろうと私はこの世界で生きていかなければならないのだ。

 実際のところ、ネガティブとポジティブの違いははるかに小さなものなのだろう。そして多くの人はその、ネガティブともポジティブともつかないあいまいな部分を、今日はすこしだけネガティブ寄りになったり、ポジティブの側に振れたりしながら生きているんだろうと思う。

 そもそも「ネガティブもわるくない!ネガティブを生かそう!」というのは考え方によってはめちゃくちゃポジティブな考え方である。ネガティブに振り切れ過ぎず、逆にネガティブを生かそうとする人はある意味「ポジティブ」であって、じゃあ逆はなんなのだろう?ネガティブすぎるのもポジティブすぎるのも「ネガティブ」要素であって、じゃあネガティブとかポジティブっていったいなんだったのだろう?そうやってぐるぐると考えていると、そもそも生きていく態度としてネガティブかポジティブのどちらかしかないと思い込んでいたこと、そしてそのふたつは決して交じり合わないものだと考えていたことがばからしく思えてくる。もちろん、ネガティブが《悪》でポジティブが《善》だというのも、思慮の浅い思い込みだ。

 どうやったって私はいいことがあれば元気になるし、悪いことがあれば落ち込んでしまう。それ自体はとても自然で、仕方のないことだ。けれど、そんな変わりやすくてあるんだかないんだかわからないようなささいなものに振り回されて、ポジティブになれないからとか、自分はネガティブだとかいって落ち込むのはもうやめにしたい。私が今生きている私はポジティブとかネガティブとか言い切ることのできない単なる「今」であって、それに名前を付ける必要なんてないのだ。

  

ネガティブのすすめ―プラス思考にうんざりしているあなたへ

ネガティブのすすめ―プラス思考にうんざりしているあなたへ