モリノスノザジ

 エッセイを書いています

これは私の内臓

 私の部屋には内臓がふたつある。寝室にひとつ、居間にもひとつ。高さはどちらも2メートルくらい。ひとりぐらしの部屋に置くのに小さくはないサイズだけれど、半年に一度のボーナスに合わせて購入した大量の本を詰め込んでいくとすぐ余裕がなくなってしまう。そろそろみっつめの本棚が必要かもしれない。

 

 半年間かけてつくった「ほしい本リスト」をもとに年2回、まとめて本を買う。同時に本に既にある本を点検して、未読のまましばらく積んだままにしている本があれば処分を検討する。まるで本棚の衣替えだ。

 「ほしい本リスト」に入れる本の基準は主にふたつある。ひとつは、図書館などで借りて読了済みで、ぜひ手元に置いておきたいと思った本。もうひとつは未読だけれど著者やシリーズの新刊が出れば買うと決めている本だ。本当にたくさんの本が出版されているけれど、そのすべてが「当たり」だとは限らない。とにかく文章が読みづらいとか、情報が古い・誤っている本、正確だけれども自分が期待している内容が書かれていないなど「はずれ」本はたくさんある。ほしい本リスト入りに基準を設けるのは、はずれ本を購入してがっかりするのを避けるためのひとつの方法だ。

 

 しかし、そもそも本って買う必要があるんだろうか?図書館で借りるとか、最悪の最悪立ち読みすることもできる。食べ物はお店で見ているだけでは意味がないけれど、本は目に映る情報がその価値の大部分を占めているのだ。一度読んだことのある本となればなおさらである。中身を知っている本にわざわざお金を払ってまで手元に置いておく必要はあるのだろうか。

 本を買う理由として、例えばこんなものがある。
(1)よい作品にお金を払うことで、著者や業界に対する支援につながる
(2)コストをかけることで一生懸命本を読もうとする
(3)所有欲が満たされる
(4)読みたいときにいつでも読める
(5)自由に書き込みができる

 このなかで私の考えに近いのは(4)だ。歌集など発行部数が少ないものは買えるうちに買っておかなければ手に入らなくなってしまうというのもあるけれど、やっぱり一番は本を手近に置いておけることだと思う。本は読みたいときが読み時で、それを逃すと好奇心の火がシュンと消えてしまう。たとえば、TVドラマを見ながら「覚せい剤ってどんなものだったっけ?」と薬物図鑑をひらきたくなったり、小説を読みながらふと太平洋戦争開戦当時のイギリス首相が誰だったか調べたくなることがあるかもしれない。けれど、そういった一瞬の「?」は長続きするものではなく、たいていの場合はわざわざ図書館へ行って本を借りることもない。なんだか気になるなあ、と思いながら次の瞬間には新商品のCMに目を奪われている。近くに本がない場合には。

 しかし、手元に本があれば疑問がうまれたときにすぐ調べることができる。それに、知識はほかの知識と関連付けられることでよりしっかりと頭に刻まれ、知識と知識のつながりは世界を広げる。そういった意味では、同じ本であったとしてもそのとき読み手が持っている関心に応じて読まれる角度は変わるし、どのような関心を持って読まれるかによって無限の読み方があるのだ。前回読んだときにはスルーしていた一行が、とんでもなく重要な一行としてくっきり見えるようになることもあれば、小説を読んで前とは違う登場人物に同情することもある。本は一度に全部読まなければならない、ということはないけれど、できるだけ近くに置いて、興味関心に合わせたつまみ読みを何度もできるほうがいい。

 

 そう考えていくと、本棚は臓器と似ている。

 人間の身体は、体外から取り入れた食物を体内に一時的に保管し、分解して栄養を吸収する。吸収した栄養によって血や肉がつくられ、栄養がなくなったかすや異物は排泄される。一方、本棚には本が置かれ、人はそれを読んで知識を得たり考えを深めたりする。本を読むことで得た知識を、人はそれぞれの関心に応じて活用する。不要な本や役に立たない本は定期的に処分する。どちらもいろいろな種類の食べ物を偏りなく摂取することや、複数の食べ物を組み合わせて栄養を効果的に吸収することが大事だ。

 そして、お腹も本棚も、できるだけ停滞せずに活発に動いているほうがいい。気に入った本はいつでも手を伸ばせるよう整理しておいたほうがいいし、単に本棚の肥やしになっているような本があればきれいに片付けて新しい知識をむかえ入れる余裕を常に持っているほうがいい。

 あなたの内臓はきれいですか?