モリノスノザジ

 エッセイを書いています

入籍の日ってうちじゃなぜか

 「彼女、今入籍してるところなので」と言いかけて、いまにも口から外に出ていこうとする言葉の肩に手をかける。まだ出るな。今、「今入籍している」と言おうとしたのか?

 同じ職場の後輩の女の子――偶然にも私と同じ「森」さんだ――は今日、休暇を取っている。入籍するためだ。昨日の時点で森さんは「明日入籍する」身であった。そして明日になれば「昨日入籍した」森さんである。しかし、その昨日と明日に挟まれた今日の森さんはどうだろうか?「入籍している」と言うのは正しい表現なのか?

 

 考え込んでいるうちに、私の静止を振り切った言葉が、いつのまにかするりと唇をまたいでいた。
 「……入籍してるところなので、新しい名前の氏名印を発注しておいてほしいんです」
 伝える。そう言われた物品管理の担当者からは、なにごともなかったかのように「わかりました」という返事が返ってきた。ふう、なんとか怪しまれずに済んだみたいだ。
 

 違和感は、やっぱりある。「入籍している」という表現に違和感があるのは、入籍すること自体が時間的な幅をもった出来事とは思えないからだろう。ふたりは、結婚に向けて長い時間をかけて準備してきたに違いない。しかし、入籍の手続き自体はほんの一瞬だ。役所の窓口で婚姻届を提出する。あるいはその届出書を記載する時間も「入籍」に含めたとしても、せいぜい15分やそこらだろう。その程度の幅しか持たない出来事に対して入籍「している」と言い表すのは、なんだかちょっとだけ変な気がする。

 とはいえ、ほかにどう言えばいいのかもわからない。「彼女、今日、入籍なんです」なんてあいまいにするのがいいんだろうか?
 

 しかし、そう考えてみると、そうか。入籍自体は15分で終わる出来事なのだ。そう気がついた。

 でも…待てよ。それなら、入籍で休暇している森さんは、残りの時間をどう過ごしているんだろう?お互いの家族に挨拶――は事前に済ませているだろうし、結婚相手と同居するための引っ越しも半年ほど前に終わらせている。むかしむかしの農村の嫁入りじゃあるまいし、役所で婚姻届けを出したあとみこしに担がれて家まで練り歩き、華やかな宴会…ということもないだろう。いかんせん、私自身は入籍経験が一度もないのでわからない。入籍の日っていったい何をするものなんだろう?
 彼女にとって大事な記念日になるであろう日に、出社せよと言うつもりはさらさらない。ただ、さっぱり想像がつかなくて気になる。入籍の日にいったいなにをするのか、そうだな…………………………………………………………………………………………………ふたりでお食事とか?
 

 翌日、森さんは出社するなり私に謝罪をした。そして、その次の日も休暇を取った。曰く、昨日、住んでるところと違う役所で届け出をしたら戸籍に反映されるのに時間がかかるみたいなんです。なので、会社への届け出が遅れます。申し訳ありません。それから、昨日一日かけて銀行とかいろいろまわって手続きしたんですけど一日じゃ全部終わらなくて……明日も手続きがあるので、お休みします。

 

 ……私が想像したよりも、はるかにハードな現実との戦いだったみたいだ。入籍の日ってやつは。

 結婚して姓が変われば、変わった側はいろいろな手続きで忙殺される――そんなことちょっと考えれば想像できそうなものなのに、「ふたりでお食事」なんて寝ぼけた想像をしていた私がちょっとはずかしい。入籍の日――でもまあ、実際お食事くらいはしてるかもしれない、ですよね?