モリノスノザジ

 エッセイを書いています

そして謎は更新される

 ドイツの哲学者イマヌエル・カントは、その生活の規則正しさがよく知られている。カントは毎日、決まった道筋を決まった時間に散歩した。そのルーティーンには寸分たりとも狂いがなく、カントの散歩道沿いにある家では、家の外を歩くカントの姿を見て時計の針を直したというエピソードさえ残っている。

 

 

 実生活において出会う謎なんていうものは、正体さえわかってしまえば案外なんていうこともなく、超常現象ということもなければ、ロマンティックなめぐりあわせということもない。盲目の恋もいつか醒めるし、庭に残された謎のメッセージもろくな真実にはつながっていない。

 「ニコチンとアルコール(https://s-f.hatenablog.com/entry/2020/09/26/102056

)」で書いたふしぎなおじさんもそうだ。朝っぱらから自転車でごみステーションにやってきて、ビールを何本も飲んでいるおじさん。あのときは謎とふしぎに満ち満ちているように思われたおじさんだけれど、その正体は、友人によっていとも簡単に開かされてしまったのだった。

 

 「夜勤明けじゃない?」と、彼は言った。遅番の警備員なのか、はたまたなにかの施設の宿直なのか、夜のコンビニの従業員か、街中で行う道路工事の作業員か。職種はともかく、おじさんは夜に働く生活を送っている。朝の7時30分は私にとって一日の始まりだけれど、おじさんにとっては一日の終わりなのだ。仕事を終えたおじさん――慣れていたって、夜に働くのはそれなりにキツいに違いない――は、一日の疲れを癒すためにコンビニに寄る。そこで何本かの酒を買ってごみステーションの塀に座り、朝のすがすがしい街をながめながら一杯やるのだ。自分と入れ替わりに仕事へ向かっていくサラリーマンたちを眺めながら。

 

 悔しいことに、それはまったくもって納得のいく仮説だった。夜勤明けの朝の街をながめながらタバコと酒をやるなんて、喫煙経験のない私にだって気持ちいいことがわかる。おじさんが毎日ではなく、決まった曜日にしか現れないことも、その仮説を補強している。例えばおじさんは警備員の長番に当たっていて、ある日は仮眠を挟みつつまる一日勤務する。すると次の日は一日お休みで、そのまた次の日はまた仕事に出かけていくのだ。そうするとおじさんがごみステーションに現われるのは、24時間勤務が明けた後の朝ということになる。なるほど毎日はいないわけだ。

 

 そんな「おじさん=夜勤」説を後押しする出来事が、さらに、今朝起こった。この季節にしてはめずらしく、なまあたたかい雨がふてくされたように降り続ける朝。しかし生ごみを出さないわけにはいかず、ごみステーションへ向かうと…いたのだ。おじさんは、こんな雨にも関わらず。

 

 カントの規則正しさがエピソードとして残っているのは、それが完璧だったからに違いない。きっと彼は、決まった道を決まった時間に散歩するだけではなくて、それを毎日欠かさなかったのだ。今日は雨が上がってからにしようとか、お腹の具合が悪いから今日はやめておこうだとかそんなことはなく、決まったことを毎日やったのだ。

 そして、カントの規則正しさがエピソードとして残っているもう一つの理由は、多くの人は彼のようには行動できないということだ。毎日食べると決めていても、今日はリンゴが買えなかったからあきらめるとか、偶然用事が出来てしまって時間をずらすとか、何かしら続けられない理由ができる。そして、たいていの人はそれを曲げてまでルーティーンを押し通そうとはしない。ひどい雨が降るごみステーションでビールを飲もうともしない。…でも、おじさんはする。

 

 つまり、ごみステーションで酒を飲むというおじさんの行動は、天気によって左右されるものではないということだ。もしもおじさんが夜勤帰りにあの場所でお酒を飲んでいるのだとしたら、やっぱりそうだと納得するしかない。施設の警備員が雨降りだからと言って休むわけにはいかないし、いまいましい仕事に出た後のおじさんは、たとえ天気が悪かろうと酒を飲まないわけにはいかないということだ。もしくはおじさんがカントであるかの、どちらかだ。

 

 そうして雨の朝は、おじさんにまつわるふしぎのベールを一枚剥がすことに成功した。

 しかし、まだ謎もある。朝7時30分にコンビニで酒を買っていたおじさん、そのおじさんこそがごみステーションでお酒を飲んでいるおじさんだと私は思い込んでいたのだが、雨の日のごみステーションで見たおじさんの顔は、コンビニから出てきたおじさんの顔とは違っていた。コンビニから出てきた方のおじさんは、やや丸顔で、ほっぺたが少し赤い、ちっちゃめのやさしそうなおじさんだった。雨の日に思わず振り向いて確認したおじさんの顔は、面長であまり特徴のない、派手ではないけど存在感のある役者みたいな感じのおじさんだった。

 

 つまり、この界隈には朝っぱらからコンビニ近くで飲酒するおじさんが二人もいるということになる。もしかすると、雨の日にごみステーションに出現したおじさんは、これまでに見てきた、晴れの日にお酒を飲んでいるおじさんとは別の人物なのかもしれない。晴れの日のおじさんとは、もちろん、コンビニの入り口ですれ違った丸顔のほうのおじさんだ。

 それとも、たまたま同じ場所で同じような行動をしているだけで、あそこにいるのは毎日違うおじさんなのか。朝からごみステーションで酒を飲むというのは、私が思っていた以上に「ふつう」なことなのか。謎は更新される。

 

くせコレクション

 微弱な揺れを検知して、すばやく周囲に目を走らせる。書架、揺れてない。デスクの上の吊り看板、揺れてない。ペン立てに差してある定規、これも…揺れてない。おかしいな。30年以内に大地震に見舞われる可能性が50%と言われる地域に生まれて、地震には敏感に反応するよう育ったはずだ。もしかしたら気のせいだったのだろうか。疲れているとときどき、地震でまわりが揺れてるみたいなめまいがするし。うん、きっとそうだろう。そう考えることにして、再び机の上の資料に意識を戻す。

 

 PCの画面上にはびっしりと数字。手元には紙。さっきから手直ししている資料の数字がなかなか合わないのだ。手元の資料とPC画面とを見比べながら、ときどき電卓をたたいたりしてひとつずつ確かめていく。2,592…168…44,637…5…15…178,695…ん?178,665?…って、さっきからさ、気づいているのだ。またどこかにかすかな揺れを。書棚も吊り看板も揺れてない。だけど、さっきから確かに聞こえるのだ。カタカタカタカタ…って、ちいさな音が。地震じゃないならいったいなんなんだ?と周囲を疑り深く見渡して、そして私はようやく犯人を見つける。隣の席の上司の、デスクの下に。

 

 彼には貧乏ゆすりをする癖があるみたいだ。手持無沙汰そうなときによく、腕を組んで豪快に足を揺すっている。まさか自分で気がついていないわけもないと思うけれど、なんてったって、隣に座っている私が揺れを感じるほどなのだ。どうしてこんなに足を揺するんだろう。もしかして私がなんらかのストレスを与えているのではないか、と、うす暗い不安が心をよぎる。なんとなく心配になって、こっそり自分の口臭を確かめる。…大丈夫だ、今朝飲んだコーヒーのにおいはうがいで消滅してる。

 

 上司の行動に対して「貧乏」だなんて形容詞をつけるのは申し訳ないような気もするけれど、それがどんな名であろうと貧乏ゆすりは決して周囲に歓迎される対応の癖ではない。というか、ともすれば他人に不快感を与えることだってあるものであって、イケてない、おブスな癖である。そう、癖にもイケてる癖とイケてない癖があって、貧乏ゆすりはイケてないほうの癖なのだ。

 

 私にも変な癖があって、人差し指の背で鼻の下をこする。それがどんなタイミングで発動するのかはわからないけれど、気がついたらこすっていて、あ、またやってるわ、と思う。なんなのだろう、この、いたずら小僧みたいなしぐさは。

 でも、これに関してはもう心配ない。いつのまにか鼻をこすることはなくなっていた。マスクを毎日つけるようになってからだ。それは、ある種の矯正みたいなものだったかもしれない。身体をポリポリ掻く赤ちゃんの手にミトンをはめるとか、貧乏ゆすりをする上司の脚を椅子に縛り付けるとか、そういう類の矯正に似て、マスクは私から鼻の下をこする癖を完全に消去した。コロナ禍でなければ、癖を矯正するためにマスクを着け続けるだなんて、とてもできなかったに違いない。その点ではコロナにちょっと感謝する。この癖、ちょっとだけイケてないと思っていたのだ。

 

 癖というのは意識してもなおせないものだと思っていたのだけれど、こうしてみると意外となおるものである。上司の貧乏ゆすりも、半年間一日も欠かさずに椅子に固定し続ければもしかしたら解消されるのかもしれない。これは本当に、冗談じゃなく。

 

 ともかく、癖をある程度自由に(?)コントロールすることができるとわかったからには、イケてない癖はどんどん捨てて、できるだけイケてる癖を身につけたいものだ。たとえば、二次元で描かれるイケメンがしばしば首を押さえるポーズを取っていることから「首を痛めてる系イケメン」だなんて揶揄されることがあるけれど、そもそもイケメンがそのように描かれるには訳がある。つまり、イケメンが首を痛めてるのではなく、首を痛めているようなしぐさがイケメンなのだ。

 というわけで、たとえば首を痛めてみる。誰かに呼び止められたとき、軽く謝るとき、挨拶するとき…あるいは、考え事をするときに頭を痛めてみる。眉間に集める深いしわ。こ、これはカッコいい。こういうのをコレクションしていかなければ。

 

 他に、ぜひとも身につけたいのはこういうので、たとえば何かを考えるときにゆっくりと指先で唇をなぞる。THE BEST OFイケメンしぐさである。感染症のことがあるのでしばらくはできないのだけれど、マスクが必要なくなったときのために今からでもマスターしておきたい。もしやるとしたらいったい何指でやるのが正解なんだろう?親指?それとも人差し指?まさか小指ってことはないと思うけど。

 

 鼻の下を擦る癖がいつのまにか無くなっていたことに気がついたころ、まるでその癖の代わりみたいに、新しい癖ができていることに気がついた。ひとつは、マスクをつけた後に指で眼鏡をなおす癖。眼鏡をかけていなくても、透明な眼鏡を指で押し上げている。もしかして、マスクをつけなくなってからもこの癖が残ったらちょっとイケてないなあ。

 

 もうひとつは、後頭部をさわる癖。作業をしていて行き詰ったときに、話をしていてちょっと言いづらいことを言うときに、なんとなく後ろ頭をさわってしまう。あんまりボリボリするのはどうかと思うけれど、基本的にこれ、そんなに悪くない癖だと思っている。まんまとイケてるタイプの癖をひとつ手に入れたんではないか。そう思うのだけれど、そこのところ、どうなんだろう?と思いつつまたさわってた。

 これが私の新しい癖。

 

ドレスコードは「よっぱらい」

 人生も終盤にさしかかって、自分に残された時間を急に意識するようになったーーわけではないと思うけど、なにかをすることはそれ以外のすべてのことをしない決断をすることだということを肌に刻むように、このところは生きている。私は同時にひとりしか存在せず、私は同時にひとつのことしかできないので、それはトートロジーを言うのと同じくらい自明なことなのだけれど、そのことに気がつくまでにこんなにも長い時間がかかってしまった。

 

 こうしてブログを書いている今も私は、散歩したり寝たり本を読んだりゲームしたり、掃除をしたり友人と会ったり、旅行したり辞書を引いたり、料理したり観葉植物の手入れをしたり、そうしたありえた行動の残りのすべてを捨ててしまっている。

 

 そう考えると、何かをするというのはなかなかに重い選択だ。長い時間を要する行動には足が向かなくなる。例えば、仕事に行けばまる一日、旅行は距離にもよるが数日かかる。もちろん時間が短ければよいというわけではなくて、つまらない飲み会に滞在する3時間も、この3時間でいったい何ができただろうと考えると非常に惜しく感じられる。時間がかかることが問題なのではなくて、それだけ時間を費やしたなかから何を得るか/何を得ないかが問題だということはわかっているんだけど、それでもついついケチケチしてしまうのはお金と同じだ。

 

 してみると映画は博打だ。たいていの映画が観るのに少なくとも1時間30分はかかるのに加えて(映画館で見る場合は、予告なんかがあったりしてたいていもっと長くなる)、その映画を楽しめるかどうかは見終わるまでわからない。自分が気に入るであろう映画だけを厳選して楽しむのも策だけれど、それもどうしてつまらない。

 …なんて言いながら、映画を楽しむのに時間のコスパなんてものを気にしている自分が一番つまらないように思えてくる。でもそれも仕方がないのだ。私は多忙な現代人だし、時間ができればできたでだらだらして、やりたかったことを結局先延ばしにしてしまうこと、つまり、時間に限りがあるなかでケチケチしながらどれをしようか悩むのが、結局それがたのしいんだなって感じもするから。

 

 そんな私が時間をケチりながら、毎日こつこつ映画を観ている。札幌国際短編映画祭。いつもならこの時期、札幌の狸小路の映画館で開催されている映画祭なのだけれど、今年は感染症の影響もあってオンラインでもノミネート作品を観ることができる。1,515円で、期間中、約100作品が観放題だ。1作品の上映時間が短いから、隙間の時間を見つけてちょこちょこ見ることができる。

 映画館の大きなスクリーンで、完全な静寂と暗闇に包まれて鑑賞する体験にはもちろん及ばない。でも、劇場開催ではなんだかんだで観たくても観られない作品があったことや、気に入った作品を何度も繰り返し見ることができるという点では、オンライン開催もまた違った楽しみ方がある。

 

 普段はめったに飲まない私だけれど、昨日は久しぶりに酒を飲んだ。やたらと品ぞろえが充実したイオンのリカーコーナーで、女子大生が飲むような、かわいらしいパッケージのフルーツリキュールを一本買った。ロックにして、常備してある素炒りミックスナッツと飲む。

 

 札幌国際短編映画祭では作品はいくつかのプログラムとして構成されている。例えば、ドキュメンタリー5作品が1プログラム。子供向けアニメーションが6作品で1プログラム、というふうに。それは作品の種類別である場合もあるし、制作国によって分けられるものもある。北海道内の制作プロダクションがつくった作品を集めたプログラムもある。

 なかでも変わっているのは「酔っ払いプログラム」。プログラムの説明文には「必ず、飲みながら見てください」とある。だから私はこうして久しぶりにグラスを傾けているわけだ。律儀に飲む必要もないのだけれど、まあ、そういうものを素面で見るっていうのもなんだか野暮な気もするので。

 

 札幌国際短編映画祭の存在を知ってから数年。シアターを出るたびに、感じる。短編映画は新しい世界との出会いそのものだ。ドキュメンタリーを観てはこれまで知らなかった世界に言葉を失い、独創的なアニメーション作品を観ては、自分自身が捉える世界の柔軟性のなさにあきれて、ドラマ作品に涙する。

 いつもの映画祭なら、夜のプログラムでは客席にビールとポップコーンの売り子がいるのだ。いままで買ったことはないんだけれど、去年までのようにシアターで開催される日がいつか来るなら、そのときはビールを買ってみようと思う。見るのが「酔っ払いプログラム」なら、それがコードなのだから。

 

sapporoshortfest.jp

 

12歳はつきまとう

 学校で書かされた「将来の夢」を、大人になってから実現したひとってどれくらいいるのだろう。多分、高校の卒業文集に書かれた夢よりは中学校の卒業文集に書かれた夢のほうが、中学校の卒業文集に書かれた夢よりは小学校の卒業文集に書かれた夢のほうがのちに実現した可能性が低いのだろうし、実際アンケートを取りでもすれば簡単に裏付けることができると思う。保育園時代に描いた将来の夢をかなえられた人がいれば相当希少価値が高いに違いない。だって、保育園と言えば、みんながウルトラマンとかライオンになりたいお年頃なのだ。

 

 幼いころに描いた夢のほうがより実現しにくいというのにはいくつか理由があるだろうけれど、おそらくそのひとつは、子どもの年齢が幼いほど、接する大人の種類が限られるからだと思う。子どもの世界は狭い。保育士さん、幼稚園バスの運転士さん、買い物に一緒に行くならスーパーの店員、あとは…お医者さんとかだろうか?その子どもが育つ環境によって変わるのはもちろんだけれど、子どもが日常的に接する「お仕事」は限られてくる。当然、知らない職業のことは目標にできない。その結果、子どもは年齢が低いほど限られた選択肢のなかから「将来の夢」を選ばなくてはならないのだ。

 

 私もそんな子どもだった。5歳のときの夢は絵本作家になることだった。絵本が好きだったから。幼稚園の先生になりたかったこともあった。学校の先生になりたかったときもあった。でもほんとうは、そのどれにもたいしてなりたくはなかった。案内ルートから外れるとすぐに正しい道を画面上に引き直そうとするカーナビみたいに、大人たちは子どもに事あるごとに「将来の夢」を語らせようとする。それが、正しい未来にたどり着くための正しくて適切なやり方だって言うみたいに。

 

 父が教師、母はほぼ専業主婦といった家庭で育って、私はいつまでたっても大人の「お仕事」というのにどういうものがあるのか知らなかった。今就いている職業だって、就職してからはじめて接触したといってもほとんど間違いではない。学校の先生がいて、コンビニやスーパーの店員さんがいて、その程度の小さな世界から外へ出ることなく成長した私は、小学校を卒業することになってもまだこれといった将来の夢を見つけられずにいた。

 

 そればかりか、将来の夢、なんてものを考えるのも面倒になっていた。これまでにいくつもの職業を「夢」として作文に書いてきて、でも、そのどれにも大して思い入れがないことは自分自身が一番よくわかっている。今一生懸命に考えて導き出した「夢」も、どうせ一年もすればすっかり忘れているに違いない。それなら、と私が小学校の卒業文集に書いた将来の夢は「りっぱな大人になること」だった。

 

 具体的にどんなことを書いたのかは覚えていない。というか、恥ずかしくて読みかえす気にもならない。ただうっすらと覚えているのは、そのときの私は大人が「仕方ない」って言ってつく嘘というのか、大人が言うところの「大人の事情」みたいなやつにものすごく不正義を感じていて、自分が大人になったときには絶対にそんな大人にはなりたくないと強く思っていたことだ。私は、自分が正しいと思うことを正しいと言う。自分が間違っていると思うことを正しいとは言わない。そんな大人になるって、そんな信念を持っていたような気がする。

 

 子どものころに書いた「将来の夢」がかなった人はどれくらいいるだろう。私?私は、たぶん、かなってない。少なくとも、まだ。

 だって、まず「りっぱな大人」とやらがどんなものなのかがわからないからだ。嘘をつかない人?お金持ちな人?他人にやさしくふるまえる人?部屋を散らかさない人?上等な衣服を着ている人?誰にでも屈託なく挨拶できる人?友達を大切にする人?募金をする人?年齢的にはそろそろいい大人だってのに、どうすればりっぱな大人になれるのかすらわかってもいない。これで、知らない間にりっぱな大人になっていました、ってことがあるかって言うと、到底望みは薄い。

 

 けれど、私の場合、夢をかなえられなかったほかの大人たちとは少々事情が違う。私の夢はかなっていない。でも、これからかなえられる可能性が残っている。成人して、適当に就職して、それでも私の夢は終わらなかった。終わらせることができなかった。終わらなかったから、これからも12歳の自分に絶えず問われ続けることになる。「あの頃の夢はかなったの?」「りっぱな大人になれた?」って。

 

 たぶんだけど、私がりっぱな大人とやらになるにはまだまだ相当な時間と経験が必要なはずだし、もしかしたら生きているうちにかなえられない可能性だってある。

 12歳の私が投げかけた大人に対する疑問は、今になって、大人になった私自身に正面から問いかけてくる。「しょうがない」って言葉でいろんなものを諦めてしまうような大人にはなりたくなかったあの頃の自分と、「しょうがない」って言葉でしか片付けられないことがあるということを知ってしまった大人の自分とがせめぎあう。ずっと、これが、続く。

 それが終わるのは、私が「りっぱな大人」になることをあきらめたときなのか、私が「りっぱな大人」になるときなのか――そう勘違いしたときなのか。いずれにしても、今はもう少し、夢をみているほうがいい気分だ。

 

後悔ロード

 それでもなんとか上手に生きていきたいという気持ちで、あほはあほなりに計算をしてみたりする。このプリンを食べる場合と食べない場合で、どれくらい幸福度に差ができるか。嫌いなあの人と出くわさないためには、書類を持っていく時間を何時ころにすればよいか。電話に出たときの、できるだけ賢そうに聞こえる声色。その他もろもろ。

 でもそういう薄っぺらい知恵はたいてい甲斐のないもので、そのことをいつもこの道で知る。

 

 最寄り駅の改札を出てから私の家までは、おおよそみっつの部分に分けることができる。お店が立ち並ぶ駅前の大通り。花屋の角を曲がって歩く住宅地。やや大きめの通りを渡って通り沿いに歩けばわが家。ここまで歩きで約8分。この距離を遠いとは言わない。だけどこの絶妙な距離感が、私をいつも迷わせるのだ。

 

 ドラッグストアを出ると、雨。雨粒が眼鏡のレンズに落ちて、暮れかけた街に灯る明かりをぽやぽや光らせる。手に持ったトイレットペーパーはすぐに雨粒まみれになって、これがプラスチックで包まれていて本当によかったと思う。そこの花屋の角をまがってしばらく歩けば家に着くわけで、家に着けばもう外に出かけることはなく、すぐにでもシャワーを浴びてしまえるわけで、そういうわけで、傘をささないほうに気持ちが傾きかけている。

 

 傘なら持ってる。今日は午後から雨の予報だったし、それがなくても空は朝からどんよりで、傘が必要な一日になるってことはわかり切っていた。だから、鞄のなかに折りたたみ傘が入れてある。荷物を両手に持っているけれど、傘がさせないというほどではない。要するにただ、面倒なのだ。鞄から折りたたみ傘を出して、開くのが。濡れた傘を玄関で乾かして、明日の朝バタバタしながらたたむのが。

 

 そういう手間はどちらかというと全然大したものではなくて、三日もすればそんなことをしたことすら忘れてしまうくらいささいなものなのだけれど、面倒くさがりな私は計算する。雨の強さと、家までの距離、温度。ひらいてたたんでの面倒くささと、雨に濡れることによる弊害のどちらが大きいか。たいてい私は雨に濡れるほうを選んで、そしていつも後悔する。失敗したことに気がつくのはいつもこの道だ。

 

 花屋の角を曲がってから、次の交差点にたどりつくまでの住宅街を貫く一本道。距離にして数十メートルといったところだが、傘をささないほうを選んだ私はこの数十メートルでいつもひどいびしょぬれになってしまう。ちょうど雨を遮るような建物がないのか、私が思っているよりもこの道が長いのか、理由はわからないけれど、この道を傘なしで歩き終えたとき、私は傘をささない選択をしたことをいつも後悔する。角を曲がったときには、傘なしで家まで帰る気満々だったのに、中途半端に濡れて、残りのわずかな距離のためにやむなく傘を出す。こんなことならはじめから傘をさしておくんだった、って。だからこの道は後悔ロード。そう名付けることにした。

 

 薄っぺらな計算は往々にしてうまくいかないもので、好きな人とのLINEは無駄に焦らしたりせず返せるときに返したほうがいいし、かっこつけようとして好きなものを我慢したり、嫌いなものを身につけたりする必要もない。無駄になってもいいから、雨が降っていたらできるだけはやく傘を出して、寒いときも我慢せずに服を着るようにする。今あったかくしてしまうと、これからもっと寒くなったときに耐えられないかもしれない…なんてことを私は考えてしまうのだけれど、寒いなら着たほうがいい。それは絶対。

 

 花屋が見えてきて、まわりには傘をさしている人も傘をさしていない人もいる。傘をささないでこの道を歩き終えたらきっと、また、後悔する。そう思って今日は早めに傘を開いた。たいした雨は降っていなくて、でも、一度閉じた傘を乾かすために玄関でひらいたら、派手なしぶきがドアに飛んだ。これは、もしかしてひとつ賢くなったのかもしれない。味を占めてこれからは、計算高くこまめに傘をひらいてやろうと思う。