モリノスノザジ

 エッセイを書いています

ホットドックと社会人ときらきら

 たったいま店員が持ってきてくれたばかりのホットドックを片手に、私はしばし正視した。これはもしかしたら、いや、もしかしなくても、カウンターでホットドックを注文したあのときから、私は間違っていたのかもしれない。そう、後悔した。

 

 約束の時間までの時間つぶしのため、仕事を終えてカフェに入る。職場の向かいのビルにあって、1階で、道路に面していて、手持ちの会員証で割引が利く。だから、職場の近くで時間をつぶすと言えば最近はだいたいここだ。

 いつもどおりノンカフェインのホットコーヒーを注文し、ちょっと迷ってからホットドックを頼んだ。用事を終えて帰宅することには21時を過ぎているはずだから、軽く口に入れられれば心強い。期間限定のモンブランも魅力的だったのだけれど、なんだかそういう気分じゃない。って、いつもそういう気分じゃないので、だいたいここではホットドックを食べている。

 

 ホットドックを選んだのはどうやら間違いだったかもしれない、と気がついたのは、テラスに面したテーブルのひとつを選んで腰をかけたときだった。

 左隣には新入社員らしい装いの若い女性が、一生懸命にノートパソコンを叩いている。右隣のテーブルでは、大学生らしきふたりの男性。というか、男の子。話の内容から、彼らは来る就職試験に向けて勉強をしているところだと分かった。

 

 コーヒープレスのプランジャーをゆっくり下げると、湯気で蓋がすこし持ち上がってぽかあっと息をする。まるで温泉につかった瞬間のため息みたいで、この「ぽかあっ」が私は好きだ。右隣の大学生たちはどうやらわが社を志望してくれているらしく、志望する会社の先輩として、彼らの期待を裏切らないふるまいをすることに対する義務感をうっすらと感じる。たとえ彼らが私の正体を知らないとしても。

 

 社会人。大学生にとっての社会人。それも、通勤電車に揺られているくたびれたおじさんではなくて、OBだとか、第一志望の先輩社員。それは、とてもキラキラした存在に見えた。少なくとも、大学生だった当時の私にとっては。清潔なシャツに光沢のあるネクタイをきちっと締めて、毎月美容室でカットする髪に不潔さはなく、なにより、子どもにはない仕事用のスマイル。彼らは輝いていた。そして、そんな彼らの立っていた位置にいま、私はいる。ちゃんとしなければ。ちゃんとしなければ。そう決めた私の心を、ホットドックがへし折った。

 

 ホットドックだと?こんなにマスタードまみれで、エレガントさのかけらも感じられない食べ物をどうやって社会人らしく、かっこよく食べることができるというのだ?

 店員が運んできた出来立てのホットドックを片手に、私はしばし思案した。かっこいい社会人とは、はたしてこいつにがぶっとかみついたりするのもだろうか?それが洗練された大人の食べ方だとは到底思えないけれど、一口サイズに切るにしたって道具がない。道具があったところで、ホットドックを切って食べるというのはちょっと間抜けではないだろうか?

 

 正解がわからない。――が、とにかくここは北海道の10月のテラス席だ。このまま放っておけばこのあたたかいホットドックは、あたたかくないホットドックになってしまう。犬にならないだけましなだけの、つまらない食べ物だ。仕方がないので添付のケチャップ袋を開封して、マスタードの上にかけていく。かっこいい社会人だってきっとケチャップくらいかけるはずだ。

 

 しかし、いったいどうしてこのホットドックはケチャップだけ別かけなのだろう?ホットドックにはケチャップをかけない派とでも言うような派閥でもあるのだろうか?――とすると…、はっ!もしかしたらケチャップをかけるのは間違いだったのかもしれない。

 

 しかし時すでに遅し。覆水盆に返らず、というか、ケチャップ袋に返らず、というのか、ケチャップ付きのホットドックはケチャップなしのホットドックには戻らない。

 右隣の大学生たちをそっと見ると、彼らは石原さとみの結婚相手に関する話題に花を咲かせていて、まるでこちらには興味のない様子だ(当たり前だが)。それでも彼らは石原さとみが結婚したこと自体は何とも思っていないみたいで、なんだか世代だなあと思う。いろいろとあきらめて、おとなしくホットドックを口いっぱいほおばる。

 

 ホットドックをきれいに食べるのは難しくて、たっぷりかけられたマスタードがべちょっと音を立てて皿に落ちるわ、お尻の側からケチャップがこぼれてくるわ、あらためて考えてみても、これをかっこよく食べるだなんて無理に決まっている。かっこいい大人は、ホットドックなんて選ばないのだ。

 

 ケチャップが唇からはみ出て、それを、ちょっと迷って親指で拭う。これは決してかっこよくはないのだけれど、かっこいいこれも知っているような気がする。映画のなかのワンシーンの、映画スターがハンバーガーをほおばりながらしていた同じしぐさ。――もしかして、かっこいい大人の食べ方というのは、かっこいい大人がやるからかっこいいのだろうか?

 

 はじめっから完全に勝ち目なんてなかったことに気がついて時計を見ると、約束の時間まであとしばらくしかなくて、私はあわてて残りのホットドックを口に詰め込んだ。

 

かかと落としとその先と

 夜の間に降ったらしい雨はすっかり上がって、濡れた路面がきらきら輝いている。シャツに薄手のジャケットを羽織って玄関を出ると、なんだか昨日よりまた一段階季節が冬の方向に進んだような気がして軽く身震いした。これはもうちょっとしたら秋物のコートが必要だな、なんて考える。道路には横断歩道がないところをやたらゆっくり歩くおじいさんいて、それを見届けて、そういえばこの時間に通勤するようになってから小学生とは全然すれ違わないのだなあなんてふいに思う。

 どこかからカチ…カチ…と音が聞こえることに気がついてからほどなくして右足に違和感を覚えて、どうやらこれは足の裏のようだ。そっと右足を上げて靴底を見てみたら、ああ、これは、やってしまった。

 

 どういうわけだか靴のかかとを頻繁に落とす。家の玄関を出たときにはまだついていたはずのかかとが、たった5分やそこら歩いただけでなくなっている。

 

 かかとの取れた靴はみじめだ。普段履いているときには気がつかなかったような無数の擦り傷。むき出しの靴裏は接着剤がムラになったみたいな感じに汚れて、金具が露出してしまっている。

 かかとの取れた靴を履いている私は、かかとが取れて見違えるように(?)ぼろぼろになった靴と同じくらいみじめな気持ちになって、これが朝の出来事であることを恨みたくなる。たった5分と言っても、これから家に戻って靴を変える時間もないし、今日はこの壊れた靴で会社に行って、一日を過ごすしかないのだ。

 

 かかとの取れた右の靴は、接地するたびに金属がコンクリートにあたってカツカツと盛大な音を立てる。それに、あのむき出しの金具がコンクリートに当たるところを想像すると、なんだかとても嫌な感じ。フォークをじっと口のなかでしゃぶっていたらなんだか変な味がしてくるみたいな、そんな嫌な感じだ。

 

 それで、今日はどうにかして右足のかかとを地面につけないようにして過ごした。一種のつま先立ちウォークである。できるだけ「あの音」を立てないように、そのうえ、つま先立ちが誰にもばれないように…。おかげで今日はちょっとだけ筋肉痛である。

 

 「お客様のなかで、靴のかかとを落とされた方はいらっしゃませんか?」と呼びかけられて、しかもそれが自分のことだったという経験をしたことがある人はいるだろうか。もしいたらそれは私だ。私かもしれない。

 

 夕方の小劇場はそこそこ人で埋まっていて、もうしばらくで開演という時間帯。黒い小さなかたまりを手に持ったスタッフが、困惑した様子で客席に入ってくる。どうやら、《開演前のご案内》ではないらしい。右手でつくったちいさな拡声器を口にあて、彼はかかとの持ち主を捜していることを告げた。

 客席にいた全員が一斉に足を裏返してかかとの有無を確かめる。私も確かめる。確かめて…、もう一度確かめる。確かにない。「かかと落としのアナウンス」というおかしさに、あくまでも遠慮がちなくすくす笑いが客席を満たす。スタッフもスタッフで「今言うのが恥ずかしいなーって方は、後で言っていただいてもいいですからね」なんて気を使ってくれて、そんな一番悪いタイミングで私は手を挙げた。

 「それは私のかかと…だと思います」

 落としたのが私のかかとだなんて、靴の裏を確認したときからわかり切っていることなのに。

 

 靴のかかとをやたらと粗末にしているのか、かかとを落とす星にうまれついているのか、年に一度はかかとを落とす。それとも、私の知らないだけで、よのなかには毎日たくさんのかかとが落とされているのだろうか?もしそうだとしたら、落とされたかかとはどこかへ歩いていくのかもしれない。だって、路上に落ちているかかとを私はあまり見たことがないから。

 昨日落としたかかとは帰り道に探しても見つからない。どこかへ言ってしまったみたいだ。やっぱり、落とされたかかとはそこからあらたに旅にでる。自宅と会社との往復しか知らなかったかかとの、あらたな旅だ。

 

あなたは内から?外から?

 ”それ”は、年末にさしかかるちょうどこの季節にやってきて、村を襲います。そうなると村人たちは、恐怖に怯え、震えることしかできません。”それ”は村をあたためる太陽を隠し、つめたい結晶をいくつも空から降らせて家や田畑、家畜をすっかり覆いつくします。村人たちは、”それ”がやがて村を去っていくまでの間、ただ震えて家のなかに隠れていることしかできませんでした。

 

 そんなある日、何人かの旅人が村にやってきました。彼らは、彼らのひいおじいさんやそのまたひいおじいさんの代から絶えず”それ”にさいなまれ、やがて、克服したと言います。村にやってきた彼らは、村人たちの見たことのない道具を取り出し、村人たちに与えました。不思議な呪文を唱え、村中をあたたかく照らしました。彼らは、未だ”それ”に苦しめられている南の国々の人たちを救うため、故郷を出てきた旅の勇者でした。そして、ようやく”それ”が去って行ったある日のこと、彼らは村人たちに”それ”と戦うための方法を教えて去っていったのです。

 

 

 ――全体攻撃の呪文を唱えるには、まだ早すぎる。去年の初めては11月10日。その前はもう少しあと。いっぺんに全体をあたためることができるという点で効果的ではあるけれど、なにぶんコストがかかりすぎる。せめてあと一か月は、別のやり方でなんとか切り抜けるべきだ。この時期がくるたびに、どんなやり方で切り抜ければいいのか、去年はいったいどうやって生き延びたのかわからなくなって、もうなん十回目めの経験なのに、未だに霧のなかを歩くみたいにやみくもに戦っている。毎年やってくる、寒さというやつに。

 

 「寒くない?」って何度も尋ねながら母親が無限に毛布をきせてくれた子ども時代はもう終わった。私は私をあたためて、春まで生き延びさせなければならない。その戦いのなんと知性のいることか。その困難さの要因は、徐々に寒くなるということ、そして、寒さ対策にかけられるコストは限られているという点にある。

 

 ちょっと肌寒くなったからといってすぐにコートを出してしまえば、10月の今ごろは昼間に汗だくだ。ストーブは部屋全体をあたためることができるけれど、ストーブを焚くにはお金がかかる。少しずつ厳しさを増していく寒さに対して、手持ちのカードをどんな順番で切っていくか。それによってこの季節を快適に乗り切れるかどうかが決まる。これは頭脳戦なのだ。

 

 さしあたり考えなければならないのは、内から攻めるか、外から攻めるかという問題である。ヒートテックを着るか、コートを着るか。寝るときに毛布をかぶるか、薄い布団のままパジャマをあたたかくするか。身体を動かすか、じっとしているか。

 いずれの場合も、内と外とでいずれも一長一短がある。ヒートテックを中に着ることで目に見えて厚着をする必要がなくなるかもしれないけれど、一度着こんでしまえば外出先で脱ぐことは難しい。コートはあたたかくて必要のないときには脱ぐことができるけれど、室内ではふつう着ない。毛布を出せば、気持ちのいいコットンのパジャマを着続けることができるけれど、朝布団の外に出るのがつらい。パジャマをあたたかくしてしまえば、布団の外にいるときもあたたかいままだ。

 

 ――とこのように、これまでに集め、教わってきた手持ちのカードの長所・短所を細かく分析して、必要なタイミングで最適な手段を用いるのがクレバーな冬サバイバーのやり方である。

 

 サバイブ、サバイブしたんだよな。と思う。昨年。生きているから生き延びたはずなのだけれど、いつも不思議になる。10月でこんなに寒いのに、12月は、1月は、厳冬中の厳冬の2月は、いったいどうやって乗り切ったのだろう。思いつくままにほいほいカードを切ってしまえばいつか「寒い」が止まらないまますべてのカードを切りつくしてしまいそうな気がして、慎重に技を繰り出しては3月まで最終兵器を出さずに終わる毎年。

 今年はいったいどんな冬がやってくるんだろう。このあたりの初雪はだいたい10月28日には降るらしく、どうりで最近寒いわけである。昨日から冬物のパジャマに着替えて、今朝は布団のなかですこしだけ汗をかいた。

 

極まりし運動嫌いのためのメソッド

 今週のお題が「運動不足」ということで、自粛により運動の機会を失ったはてなブロガーたちがゾンビのように集まり、また、そんななかでも身体を動かすことをやめなかったブロガーたちが「手軽に始められる運動」とやらを伝授するべくやたらと甘ったるい声を上げている。

 しかし、私にコロナなんて関係ない。コロナなど関係なく、もとから運動不足である。というより、運動嫌いとまで言ってもいい。そんな筋金入りの運動嫌いを動かすにはちょっとやそっとのことではとても足りやしない。「お手軽に始められますよ♪」だなんて言葉でジョギングやストレッチを勧められても、甘い言葉になびいたりはしないのだ。

 

 まず、家の外には出たくない。屋外は雨が降ったり暑かったりと、常に運動に適した環境であるとは言い難い。これから雪が降ればなおさらだ。ジョギングどころの話ではない。

 それでも少ないやる気をかき集めてなんとか外に出てみれば、すでに何十キロも走っていそうな屋外のプロや散歩中のおじさんにジロジロとみられる。もしかして、その恰好で走る気でいるの?へたくそなフォームだなあ。

 

 さらに言えば、運動のためにわざわざ外に出ることがコストである。それまで着ていた服から運動用のジャージやなんかに着替え、靴を履き替えて外に出る。玄関を開けてその場ですぐに走りだすというわけにはいかないから、アパートの階段を降りたり、駐車場を横切ったり、なんなら運動ができる河原まで歩いていかなければならない。普段運動をしない身としてはこれだけでぐったりだ。ドアtoですぐさま運動ができるならまだしもやる気がするものを、運動するまでにこれだけの運動をしなければならないのである。だからまず、家の外には出たくない。

 

 さらに言うと、立ちあがりたくない。起き上がりたくない。腹筋にしてもスクワットにしてもとにかく疲れるものだから、どうにかして寝ながら運動するわけにはいかないだろうか?寝ながら運動することが可能になれば、人類は新しい扉を開くことができる。寝たきりのご老人もベッドのなかで筋力を低下させることなく、気分のいい日にはベッドからシャキッと立っていつでも散歩に出かけることができるし、忙しいサラリーマンが忙しい時間を縫ってわざわざジムへ行くこともなくなる。深刻化する子どもたちの体力低下にも歯止めがかかる。なにしろ寝るだけでいいのだ。

 

 しかし残念ながら、今の私たちは寝ながら運動することはできない。ならば、運動するということに対して、運動したくないという気持ちを上回るほどの対価を与えることによって運動へのモチベーションを上げることはできないだろうか?

 

 例えばこうである。私が道を歩いている。ちなみに、これはコストゼロの歩行である。つまり、このためにわざわざ家の外に出てきてしている歩行ではなくて、仕事から帰る途中だとか、それがなくてもするような歩行である。

 歩いている私は、路上に寿司を見つける。寿司が好きな私は、駆け寄ってその寿司を食べる。おいしいサーモンを堪能して喜んでいると、数メートル先にイクラの軍艦が見える。私は数メートル歩き、イクラの軍艦を食べる。もしかしてと思って顔を上げると、さらに数メートル先に鯛のにぎりがある。私はよろこんでその方向へ歩いていく。そのようにして寿司をどんどん食べるうちに、私は運動をしてしまっているのだ。

 

 よく考えると、寿司が回転するのになぜ人間は椅子に座って待っているだけでよいというのか。人間だって回転すべきである。待っていれば寿司がテーブルまでやってくるなんて幻想は捨てるべきなのだ。人間は寿司を迎えに行かなければならない。

 

 というわけで、私は寿司を迎えに行った。といっても、現実の世界で路上に寿司はない。したがって、私は寿司屋まで行くことになる。わが家から二駅離れたまちにあるその回転すし屋は、半年前とずいぶん様変わりしていた。カウンターは飛沫防止パネルで一席ずつ仕切られ、寿司はレーンを回らず、タブレットで注文する。食事は箸で。握り手ももちろんマスクをしている。私はそこでサーモンと真いか、にしん、鯛、ぶり、まぐろに鯖の握りとイクラの軍艦を食べた。どれも舌がとろけるくらいおいしかった。

 

 数皿を平らげて回転寿司屋を後にすると、帰りは電車に乗らず家まで歩いて帰った。路上の寿司を拾うことができなかった分、まとめて歩くのだ。思ったよりも自宅が遠く、なんと一時間も歩いてしまう。

 その駅は普段の通勤ルートの途中にある駅で、したがって、毎日二駅早く降りて残りを一時間かけて歩くということもできると言えばできる。しかし、私はそれをしない。今日そうしたのは、他ならない寿司があったためだ。運動嫌いを運動させるにはこのくらいの見返りが必要なのである。

 結論を簡単にまとめると、世界に住むすべての運動不足な人びとを救い、地球人の健康寿命を延ばし、政府の財政を健全にするためにも、世界には寿司が必要である。世界の人びとに寿司を。世界の路上に寿司を。寿司 save the Earth。寿司!寿 司!寿  司!

 

今週のお題「運動不足」

ここは金星人のすみか

 宇宙人と言えば、うすい灰色の人型で、頬はこけて顎がやたらととんがっていて、白目のない大きな瞳、小さな口。触れれば硬くて乾燥していそうなあいつ。それから、帽子のようなぐんにょりした頭(?)から何本も触手を生やし、さわればやわらかくてしっとりしていそうなあいつ。

 

 それにしたってどうして火星人にだけこれだけ確固とした姿のイメージが与えられているのだろう?と調べてみたら、どうやら理由があるらしい。

 火星の表面には人工的につくられたような溝があって、発見された当時それはとても大きな運河だと考えられた。こんなに大規模な運河をつくることができるような生き物は、きっと地球人よりもずっと高い知能をもっているのだろう!ということで、火星人に大きな頭が、そして、火星は重力が小さいから、身体はヒョロヒョロでも大丈夫だろう!ということで、何本もの細長い触手が与えられたという。

 それにしたって、グレイにしろ火星人にしろ、私たちが知っている「生き物」のかたちを大きく逸脱できないところは、想像力の限界というところか。

 

 かく言う私だって偉そうなことは言えない。何しろ私が見ている「金星人」は、まるで地球人に似ている。うすい褐色の人型で、体毛は薄く、そのかわり頭部にもさもさと毛が生えている。顎はやや尖っていて、白目のある眼がふたつ。触れればおおむねやわらかくてすべすべしたこいつ。…つまり、私のことだ。

 

 「この業界はやたらと火星人ばかりが集まるんです」と、知り合いのデザイナーが何度も言うものだからだんだん気になってきたのだ。と言っても、彼の周りにやわらかくてぐんにょりしたあいつが何人も集まってきているわけではない。六星占術の話だ。

 六星占術では、その人の運命を土星、金星、火星、天王星、木星、水星の6つの運命星に分けて占い、それぞれの運命星を持った人を土星人、金星人、火星人、天王星人、木星人、水星人と呼ぶ。

 これらの星人にはそれぞれ特徴があるらしく、ネットで調べた情報によると、火星人は「感性が鋭く芸術的センスの持ち主」とある。クリエイティブ業であるところのデザイナーのまわりに火星人が集まってくるというのも、六星占術を信奉する人に言わせればごく自然なことなのかもしれない。

 

 自分の運命星を知るのは簡単だ。運命星は生年月日で占うことができる。インターネットで「六星占術」を検索すると上位に出てくるページに自分の生年月日を入力して、ボタンを押せば、はいお手軽。3秒で自分が何人なのか知ることができる。

 ちなみに私は金星人マイナスだった。なんだかよくわからないけれど、同じ星人でもプラスとマイナスに分かれるらしい。

 マイナス、という響きだけでなんだかがっかりしてしまう。それに加えてがっかりなのは、金星人マイナスに関する説明だ。

 金星人に共通する自由で好奇心旺盛な面に加えて金星人プラスが「流行に敏感でセンスがある」とか「前向きで行動的」なんて言われている一方で、金星人マイナスは「お金にルーズで同じ失敗を何度も繰り返す」とか「不倫に走りやすい」なんて言われていて、占いだと分かっていてもへこんでしまう。細木数子が嫌いな人のことを金星人って呼ぶことにしたんじゃないかって思うくらいだ。

 

 占いというものをどう捉えたらいいのかはわからない。占いをされる側の単なる心理的作用なのか、もし占いがなんらかの真理を捉えられるのだとしたらそれはどう説明されるのか。

 もちろん、占いの力が近代科学で説明できないからといってすべての占いがインチキだということにはならない。科学は、人間が世界で起きていることをどうにか理解しようとあれこれ考えてきたなかで、今のところボロを出さずになんとかやっている仮説のまとまりに過ぎない。

 現代に生きる私たちが錬金術を信じていた昔の人たちのことを笑うみたいに、いつか科学を信奉する私たちが笑われる日が来るかもしれない。そして、占いのようなものが科学で説明できる世界の外側で、科学には説明できないことをうまく説明しているという可能性だってあるのだ。

 

 と言っても、占いは天気予報みたいにはっきりしたことは言ってくれない。六星占術だって言ってることは「今月はうまくいかないよ!」とか「来年は身体に気を付けてね!」とかその程度のことだ。もっともそれは、私が無料で得られる情報しか見ていないだけかもしれないけれど。

 

 それでも自分が金星人だと言われてなんとなくすっとしたのは、金星人があちこちでやたらと自由人だの奔放だの言われていることだ。正直なところ、私が自由奔放だなんて、はじめは何かの言いがかりじゃないかと思ったくらいだけど、いやいや、ほんとうはフリーダムだからきみ、って言われ続けると、これまで責任感で押さえつけてきた部分がすっと解き放たれるような気がする。自由でしょうがない、私は金星人なんだから。って、今まで我慢してきたことをちょっとだけ諦めてみる。

 ここはそんな金星人のすみか。