モリノスノザジ

 エッセイを書いています

ニコチンとアルコール

 なにかが始まるにはなにかが起こらなければならない、なんて当たり前のことだけど、例えば映画や小説で、特になんてことのない日常から物語を始めるにはなにかのきっかけがなければならない。この状況からどうやってお話を動かすのだろう?って考えながらみていると、巧みにつくられた物語は日常から非日常に切り替わるその特異点みたいなものをごくごく違和感のないかたちで提示する。気がつけばもうそこは物語のなかだ。

 

 物語という岩を転がす最初の一押しになるそのきっかけは、いきなり爆発するみたいに必ずしもインパクトの強い出来事ばかりではなく、たまたま道に落ちているものを拾うとか、スーパーで迷惑な老人に絡まれている親子に声をかけるとか。だからこそ想像してしまう。現実の世界には、始まらなかった物語が無数にあるのではないかって。

 誰にも見つけられないまま草むらで朽ちていく宇宙人からのメッセージ。清掃員に片付けられてしまったラブレター。公園で素通りした女の子。何かをすれば始まったかもしれない、失われた物語が、この世界にはたくさんある。きっと。

 

 

 朝の住宅街を漕いでいつものセブンイレブンに行く。自動ドアの前に立ち、顎にひっかけたままのマスクに気がついた。ガラス越しにいつもの店員と目があって、仕方なくかけなおす。店員の「いらっしゃいませ」を聞きながら手前の棚をぐるっとまわって、冷蔵庫のなかから一番安いアルコールを一本掴む。コンビニ横のごみステーションに自転車を立てかけて、自分はごみ捨て場の塀に腰掛けて、たばこを吸いながらこの安いビールを飲むのが最近の日課だ。

 

 時刻はまさにまっとうなサラリーマンたちが会社へ向かう頃で、こうしてごみ捨て場にたむろする俺を、汚いものでも見るような目で一瞥しては駅に向かっていく。…そういうのも、ま、慣れた。

 スーツの背中をいくつも見送りながら、たばこの煙を吐く。ニコチンがまわって、摂取したばかりのアルコールを血が全身に巡らせるのを感じる。心なし指がしびれて気持ちいい。

 ごみ捨て場があるすぐ裏のアパートに住んでいるらしいやつが今日も規則正しく、ルールを守ってごみを出す。俺に気がついているだろう。気がついているだろうけど、気がつかないふりして自転車の横を通り過ぎていく。俺は飲み終えたら缶を古びた自転車のカゴに入れて(いまどきコンビニにごみ箱はないのだ)、ふたたび自転車をゆるゆると走らせる。雨が降りそうだ。

 

 

 近所のごみステーションで、朝からたばこを吸っているおじさんがいる。折り畳み式の小さな自転車をごみステーションに立てかけて、おじさんはごみステーションの塀に腰掛けて、その隣にはビールの缶がある。朝からごみ捨て場で、たばこを吸いながら飲酒しているらしい。ごみを捨てようとすると陰におじさんの折り畳み自転車があることに気がついて、そういえばここのところ毎日いると気がつく。自転車で来るということはどこか遠くからここまで来ているのだろうか。まっとうな仕事に就いているようにも見えないし、からまれたら危ない気がして極力目を合わさないように通り過ぎる。

 

 おじさんの素顔を見たのは昨日がはじめてだった。なにしろいつもはビールを飲んでいるおじさんの背中だけ見て、振り向いておじさんの顔を見ようだなんて思わなかったし、おじさんと正対することもなかったから。

 栄養ドリンクを買いに入ったコンビニで、出ざまにおじさんとすれ違う。おじさんは手ぶらで、自転車をコンビニの前に駐車していて、なるほど、ここでビールを買っていたんだと気がつく。自動ドアをくぐりながら、ズレたマスクをなおすおじさんの素顔を見て、想像していたよりもふつうでやさしそうなおじさんであることを意外に思う。コンビニをでて少し歩いてから振り返ると、おじさんがビールを手に、ごみステーションの方向へ自転車をひいていくところだった。

 

 おじさんは私とかなり遠いところを生きている生きものだ。私はごみ捨て場にたむろしたことはないし、たばこも吸わないし、なんなら酒だって進んで飲むことはない。朝のごみステーションで飲酒するおじさんを背に、私はこれから会社でする仕事のことや、今日も混んでいるであろう電車のことを考えている。

 

 おじさんは真逆の生きもので、だからこそこんな未来があってもいいはずだ。「毎日ここで何してんすか?」って、たばこを吸っているおじさんと並んでごみステーションに腰掛ける。「たばこ、一本もらってもいいすか?」(なんて話しかけることが、本当にあるんだろうか?)。

 おじさんはなんて返すだろう。朝からごみ捨て場でたばこを吸いながらお酒を飲んでいるくらいだから、私とは違う生活、違う人生がおじさんのなかには流れていて、だからおじさんと話すことは楽しいに違いない。もしかしたら、それが物語の始まりなのかもしれない。

 

 だけど私はおじさんに話しかけない。理由?理由なんてない。強いて言うなら、働くサラリーマンの平日の朝に、こんな得体のしれないおじさんと話す時間も意味もないのだ。

 そうやって私は、おじさんを無視するように速足でごみステーションの前を通り過ぎる。今日もひとつ、特異点を逃しているのかもしれない、って、考えながら。