モリノスノザジ

 エッセイを書いています

ドレスコードは「よっぱらい」

 人生も終盤にさしかかって、自分に残された時間を急に意識するようになったーーわけではないと思うけど、なにかをすることはそれ以外のすべてのことをしない決断をすることだということを肌に刻むように、このところは生きている。私は同時にひとりしか存在せず、私は同時にひとつのことしかできないので、それはトートロジーを言うのと同じくらい自明なことなのだけれど、そのことに気がつくまでにこんなにも長い時間がかかってしまった。

 

 こうしてブログを書いている今も私は、散歩したり寝たり本を読んだりゲームしたり、掃除をしたり友人と会ったり、旅行したり辞書を引いたり、料理したり観葉植物の手入れをしたり、そうしたありえた行動の残りのすべてを捨ててしまっている。

 

 そう考えると、何かをするというのはなかなかに重い選択だ。長い時間を要する行動には足が向かなくなる。例えば、仕事に行けばまる一日、旅行は距離にもよるが数日かかる。もちろん時間が短ければよいというわけではなくて、つまらない飲み会に滞在する3時間も、この3時間でいったい何ができただろうと考えると非常に惜しく感じられる。時間がかかることが問題なのではなくて、それだけ時間を費やしたなかから何を得るか/何を得ないかが問題だということはわかっているんだけど、それでもついついケチケチしてしまうのはお金と同じだ。

 

 してみると映画は博打だ。たいていの映画が観るのに少なくとも1時間30分はかかるのに加えて(映画館で見る場合は、予告なんかがあったりしてたいていもっと長くなる)、その映画を楽しめるかどうかは見終わるまでわからない。自分が気に入るであろう映画だけを厳選して楽しむのも策だけれど、それもどうしてつまらない。

 …なんて言いながら、映画を楽しむのに時間のコスパなんてものを気にしている自分が一番つまらないように思えてくる。でもそれも仕方がないのだ。私は多忙な現代人だし、時間ができればできたでだらだらして、やりたかったことを結局先延ばしにしてしまうこと、つまり、時間に限りがあるなかでケチケチしながらどれをしようか悩むのが、結局それがたのしいんだなって感じもするから。

 

 そんな私が時間をケチりながら、毎日こつこつ映画を観ている。札幌国際短編映画祭。いつもならこの時期、札幌の狸小路の映画館で開催されている映画祭なのだけれど、今年は感染症の影響もあってオンラインでもノミネート作品を観ることができる。1,515円で、期間中、約100作品が観放題だ。1作品の上映時間が短いから、隙間の時間を見つけてちょこちょこ見ることができる。

 映画館の大きなスクリーンで、完全な静寂と暗闇に包まれて鑑賞する体験にはもちろん及ばない。でも、劇場開催ではなんだかんだで観たくても観られない作品があったことや、気に入った作品を何度も繰り返し見ることができるという点では、オンライン開催もまた違った楽しみ方がある。

 

 普段はめったに飲まない私だけれど、昨日は久しぶりに酒を飲んだ。やたらと品ぞろえが充実したイオンのリカーコーナーで、女子大生が飲むような、かわいらしいパッケージのフルーツリキュールを一本買った。ロックにして、常備してある素炒りミックスナッツと飲む。

 

 札幌国際短編映画祭では作品はいくつかのプログラムとして構成されている。例えば、ドキュメンタリー5作品が1プログラム。子供向けアニメーションが6作品で1プログラム、というふうに。それは作品の種類別である場合もあるし、制作国によって分けられるものもある。北海道内の制作プロダクションがつくった作品を集めたプログラムもある。

 なかでも変わっているのは「酔っ払いプログラム」。プログラムの説明文には「必ず、飲みながら見てください」とある。だから私はこうして久しぶりにグラスを傾けているわけだ。律儀に飲む必要もないのだけれど、まあ、そういうものを素面で見るっていうのもなんだか野暮な気もするので。

 

 札幌国際短編映画祭の存在を知ってから数年。シアターを出るたびに、感じる。短編映画は新しい世界との出会いそのものだ。ドキュメンタリーを観てはこれまで知らなかった世界に言葉を失い、独創的なアニメーション作品を観ては、自分自身が捉える世界の柔軟性のなさにあきれて、ドラマ作品に涙する。

 いつもの映画祭なら、夜のプログラムでは客席にビールとポップコーンの売り子がいるのだ。いままで買ったことはないんだけれど、去年までのようにシアターで開催される日がいつか来るなら、そのときはビールを買ってみようと思う。見るのが「酔っ払いプログラム」なら、それがコードなのだから。

 

sapporoshortfest.jp