モリノスノザジ

 エッセイを書いています

12歳はつきまとう

 学校で書かされた「将来の夢」を、大人になってから実現したひとってどれくらいいるのだろう。多分、高校の卒業文集に書かれた夢よりは中学校の卒業文集に書かれた夢のほうが、中学校の卒業文集に書かれた夢よりは小学校の卒業文集に書かれた夢のほうがのちに実現した可能性が低いのだろうし、実際アンケートを取りでもすれば簡単に裏付けることができると思う。保育園時代に描いた将来の夢をかなえられた人がいれば相当希少価値が高いに違いない。だって、保育園と言えば、みんながウルトラマンとかライオンになりたいお年頃なのだ。

 

 幼いころに描いた夢のほうがより実現しにくいというのにはいくつか理由があるだろうけれど、おそらくそのひとつは、子どもの年齢が幼いほど、接する大人の種類が限られるからだと思う。子どもの世界は狭い。保育士さん、幼稚園バスの運転士さん、買い物に一緒に行くならスーパーの店員、あとは…お医者さんとかだろうか?その子どもが育つ環境によって変わるのはもちろんだけれど、子どもが日常的に接する「お仕事」は限られてくる。当然、知らない職業のことは目標にできない。その結果、子どもは年齢が低いほど限られた選択肢のなかから「将来の夢」を選ばなくてはならないのだ。

 

 私もそんな子どもだった。5歳のときの夢は絵本作家になることだった。絵本が好きだったから。幼稚園の先生になりたかったこともあった。学校の先生になりたかったときもあった。でもほんとうは、そのどれにもたいしてなりたくはなかった。案内ルートから外れるとすぐに正しい道を画面上に引き直そうとするカーナビみたいに、大人たちは子どもに事あるごとに「将来の夢」を語らせようとする。それが、正しい未来にたどり着くための正しくて適切なやり方だって言うみたいに。

 

 父が教師、母はほぼ専業主婦といった家庭で育って、私はいつまでたっても大人の「お仕事」というのにどういうものがあるのか知らなかった。今就いている職業だって、就職してからはじめて接触したといってもほとんど間違いではない。学校の先生がいて、コンビニやスーパーの店員さんがいて、その程度の小さな世界から外へ出ることなく成長した私は、小学校を卒業することになってもまだこれといった将来の夢を見つけられずにいた。

 

 そればかりか、将来の夢、なんてものを考えるのも面倒になっていた。これまでにいくつもの職業を「夢」として作文に書いてきて、でも、そのどれにも大して思い入れがないことは自分自身が一番よくわかっている。今一生懸命に考えて導き出した「夢」も、どうせ一年もすればすっかり忘れているに違いない。それなら、と私が小学校の卒業文集に書いた将来の夢は「りっぱな大人になること」だった。

 

 具体的にどんなことを書いたのかは覚えていない。というか、恥ずかしくて読みかえす気にもならない。ただうっすらと覚えているのは、そのときの私は大人が「仕方ない」って言ってつく嘘というのか、大人が言うところの「大人の事情」みたいなやつにものすごく不正義を感じていて、自分が大人になったときには絶対にそんな大人にはなりたくないと強く思っていたことだ。私は、自分が正しいと思うことを正しいと言う。自分が間違っていると思うことを正しいとは言わない。そんな大人になるって、そんな信念を持っていたような気がする。

 

 子どものころに書いた「将来の夢」がかなった人はどれくらいいるだろう。私?私は、たぶん、かなってない。少なくとも、まだ。

 だって、まず「りっぱな大人」とやらがどんなものなのかがわからないからだ。嘘をつかない人?お金持ちな人?他人にやさしくふるまえる人?部屋を散らかさない人?上等な衣服を着ている人?誰にでも屈託なく挨拶できる人?友達を大切にする人?募金をする人?年齢的にはそろそろいい大人だってのに、どうすればりっぱな大人になれるのかすらわかってもいない。これで、知らない間にりっぱな大人になっていました、ってことがあるかって言うと、到底望みは薄い。

 

 けれど、私の場合、夢をかなえられなかったほかの大人たちとは少々事情が違う。私の夢はかなっていない。でも、これからかなえられる可能性が残っている。成人して、適当に就職して、それでも私の夢は終わらなかった。終わらせることができなかった。終わらなかったから、これからも12歳の自分に絶えず問われ続けることになる。「あの頃の夢はかなったの?」「りっぱな大人になれた?」って。

 

 たぶんだけど、私がりっぱな大人とやらになるにはまだまだ相当な時間と経験が必要なはずだし、もしかしたら生きているうちにかなえられない可能性だってある。

 12歳の私が投げかけた大人に対する疑問は、今になって、大人になった私自身に正面から問いかけてくる。「しょうがない」って言葉でいろんなものを諦めてしまうような大人にはなりたくなかったあの頃の自分と、「しょうがない」って言葉でしか片付けられないことがあるということを知ってしまった大人の自分とがせめぎあう。ずっと、これが、続く。

 それが終わるのは、私が「りっぱな大人」になることをあきらめたときなのか、私が「りっぱな大人」になるときなのか――そう勘違いしたときなのか。いずれにしても、今はもう少し、夢をみているほうがいい気分だ。