モリノスノザジ

 エッセイを書いています

ジム

 市営ジムには週に1回か2回行く。はじめて行ったときは不安でしかたがなかった。なにしろ、私は身体を動かして汗を流すなどという行為からは一番遠いところにいる人種である。それに対して、スポーツジムで運動してる人なんて、みんな筋肉ムキムキでポジティブで、笑顔がさわやかな人たちに違いない。そんなアウェー空間に単身乗り込むなんて、はたしてできるのだろうか?

 

 結局のところ、私はジムへの乗り込みに成功した。しかし、実際行ってみるとそこに汗だくで黒光りしたマッチョはいない。いるのはおじいちゃんおばあちゃんの集団である。行ったのが平日昼ということもあって、健康づくりのために身体を動かしに来ているご老人が多かったようだ。おしゃれなお店にひとりおばちゃんがいると入りやすくなるみたいな心理。なんとなく気持ちが楽になる。

 おじいちゃんおばあちゃんたちといっしょなら大丈夫だわ、とほっとしたのもしかし、つかのまのこと。スポーツジムにいるおじいちゃんおばあちゃんは単なるおじいちゃんおばあちゃんではなく、スーパーおじいちゃん&おばあちゃんであることを、すぐに理解するに至る。ガリガリに痩せたおばあちゃんが壁に向かってふらふらと歩いているのをハラハラしながら見ていると、急に窓枠にぶら下がって懸垂をし始めたりする。ベンチにぐったりと横たわっているおじいちゃんが、ものすごい勢いでどでかいダンベルを持ち上げ始めたりする。ひょろひょろのおばあちゃんが楽々と動かしていたマシンをさわってみても、私の力ではびくともしない。たまにテレビなんかで「はじめは孫に勧められて始めたんですけどね、いつのまにかこんなのができるようになっちゃって」なんて話しながら大車輪を披露するおじいちゃんが紹介されていたりするが、スポーツジムは本当にそんなスーパー高齢者ばかりである。

 

 とは言え一年ほど通ううちにそんな光景にも少しずつ慣れてきた。しばらくの間おっかなくてさわったことのなかったマシンにも手を出すようになって、まるであたらしいおもちゃで遊ぶみたいに筋トレを楽しんでいる。なかには形状だけでは使い道がよくわからない道具もあるのだが、まわりのスーパー高齢者たちが使っている様子を見ながら少しずつチャレンジしている。生まれてこの方運動嫌い、ジョギング程度の運動しかしてこなかった私にとって、筋肉をつけるなんてはじめてのことだ。一度もまともな筋肉がついてこなかったこの身体が、一生懸命取り組めば変わってくるのだとしたら、いったいどうなるんだろうと思うとわくわくしてくる。

 

 私はスポーツもしたことがないし、普段の生活のなかで身体を動かすこともない。だから、テレビやなんかで身体を動かしているスポーツ選手を見ると、私はあの人の数パーセントしか身体をコントロールできていないんだろうなって思う。生活のほとんどを、頭と目、手先くらいだけで生きている感じ。だから、運動して身体を動かすとだんだん心と身体がフィットするような気がしてくる。

 幼年期とか老年期とか、人生のステージのなかでもうまく身体をコントロールすることができない時期ってあるんだろうなあと考える。そして、幼年期の前には「生まれていないとき」があり、老年期の後には「生きていないとき」がある。そのどちらでも、心と身体はばらばらになってしまったいる。生まれたときにこの心とこの身体はであって、やがて私は年をとって、死んで、また心と身体はバラバラになる。そう考えると、いまこの心がこの身体とぴったり寄り添っているのは、長い長い時間のなかのほんの一瞬のことなんじゃないかと思えてくる。

 

 なんだか、そんなことを考えながら、今日もエアロバイクを漕いでいる。

寄り添うなまはげ

 ローカルニュースで、なまはげが保育園を訪問するエピソードが紹介されていた。季節柄「鬼」かと思ったが、なまはげである。なまはげは、逃げ惑う子どもたちを執拗に追いかける。給食を食べない子どもがいると聞けば「明日からはちゃんと食べるか⁉」と諭し、別の子どもには「お母さんの言うことを聞くか⁉」と言い聞かせてまわる。最後は子どもたち全員に向かって「明日からはいい子にするかー⁉」と呼びかけて、呼びかけられた子どもたちが大きな声でお返事をする、というエピソード。実にほのぼのするエピソードである。

 

 しかし、いくら子どもが相手とは言えあまりにもざっくりとしすぎではないか。「小学校に行ってもがんばる」などという子どもの言葉もあいまいであるが、それというのも「明日からはいい子にするか?」という問いかけ自体があいまいであることに端を発している。問いかけがあいまいであるうえに、いかにも不特定多数に向かって話しかけているといった風情がある。これからの時代、なまはげもよりひとりひとりに寄り添うことが求められるのではないか。そう、例えばこんなふうに――。

 

 

 ――セラピールームの扉をひらくと、なまはげが立ち上がって出迎えてくれた。室内はあたたかい光で満たされている。ウッド調の家具が濃いネイビーやモスグリーンのファブリックととてもよくなじんでいて、オフィスのような冷たさはどこにも感じられない。スツールはなめらかな曲線がうつくしく、テーブルの上には名前のわからない白くてちいさな花が飾られていた。立ち上がって私をみつめているなまはげも、白衣を着ているとかそんないかめしい様子はまったくなく、その辺のなまはげとまるで変わらない。ドアノブを握る前まで私のなかでわだかまっていた思いが、徐々にとけていくのを感じていた。

 

 「――わかりますわかります。職場の人間関係ってむずかしいところありますよね、私も前の職場はいろいろ大変だったので、すごくよくわかりますよ。特にね、あなたみたいな職業のひとって、お話聞いてると、けっこうストレス溜めてるひとが多いんです。ほんとにね、大変ですよね」

 セラピーはすぐはじまるものだと思っていたけれど、なまはげはまるで今がセラピーの時間だということを忘れているみたいに、私とおしゃべりを楽しんだ。私も私で、なまはげがこう切り出すまではなんのためにここに来たのか忘れてしまうところだった。

 

 「もしかしてそれって、カウンセリングシートに書いてきてもらった『私は悪い子』かもしれないって気持ちと関係があったりする?」

 

 そうだ、私はなまはげに私の行いを諫めてもらうためにここに来たのだ。

 

「…実は、この間嘘をついて休んでしまったんです。その人のことがほんとうに嫌いで嫌いで、いつもなら我慢するんですけど、その日は朝起きた瞬間からもう絶対に顔を見たくない気持ちになっちゃって。仕事もやりたくないし、それで、仮病をつかって休んだんです。そうしたら、たまたまその日大変なお客さんが来ちゃったみたいで」

どうしてだろう。この人の前ではするすると本当の気持ちが口から流れ出す。

「それで、私の代わりにその人が対応をしたら、もうものすごくその人を怒らせちゃったみたいなんです。それはなんていうかその人の自業自得なんですけど、それを後から人に聞いて知って、私はすごく気分がよかったんです。」

 

 こんなに最悪なことをしたのに、なまはげはちっとも私を責めようとしない。ふかく頷いて「そうか、あなたはその人のことが顔も見たくないくらい嫌いなんだね」とか、「その人が失敗していい気分になったのが、今は嫌だなって思ってるんだね」と相槌を打ってくれる。気が付いたら私は、両方の目から次々と、大粒の涙を流していた。

 

 ここに来るまでは、「悪い子」「いい子」がなんなのか、深く考えていなかった。よくわからないまま自分を責めていた。けれど、なまはげに話を聞いてもらっているうちに、自分がかかえているわだかまりの正体がなんなのか、そして私はこれからどうすべきなのかが少しずつ分かり始めた気がしていた。そして、そんな私を見てなまはげは言った。

 

「泣く子はいねがー?」。

 

なまはげはこんな私を受け入れて、私の幸せを祈ってくれたのだった。

 

 

 …どうでしょう。あんな強面がこんなふうにやさしくカウンセリングして心の邪気を払ってくれたら、ギャップにやられてしまいそうではないでしょうか?なまはげいいやつ。念のために言っておきますが、なまはげを馬鹿にする気持ちは毛頭ありません。なまはげに「なまはげのことを悪く言う悪い子がいる」なんて通報はしないように。
 

電車のなかの泣きたいひとたち

 毎朝同じ車両に乗り合わせる赤ちゃんがいる。正確に言うと、その赤ちゃんの姿を見たことはない。けれど、毎日電車のなかに泣いている赤ちゃんがひとりいて、その赤ちゃんはいつも同じ駅で降りていくので、たぶん昨日も今日もずっと同じ赤ちゃんと同じ車両に乗っているのだと思う。

 電車のなかで赤ちゃんが泣いてることを不快に思ったことはない。けれど、どうして毎日泣いてるんだろうと思う。赤ちゃんを育てたことがないので、赤ちゃんがどういうときに泣くのかわからない。痛みや空腹やいろんな不快な気持ちを感じた時に泣くのだろうけど、でもそれにしたってどうして毎日泣いているんだろう。

 

 と考えていてきゅうに、自分がいま置かれている状況に気が付いた。つり革をつかんで窓のほうを向く人と、つり革をつかんで反対側の窓のほうを向いている人。その間に挟まって、知らない人のリュックサックに胸を圧迫されながら、電車に揺られている。電車がカーブを曲がれば、大勢の人たちが塊になってもたれかかってくる。身動きも取れない。こんな状況に置かれている。はじめてそのことに気が付いた気持ちだった。ああそうだよね。こんなの大人だって泣きたい。

 毎日毎日電車に揉まれて通勤しているうちに、感覚が麻痺してしまっていたみたいだ。そこは異常な空間だ。赤ちゃんはこの空間の異常さについて、ひたむきに抗議をしている。

 

 そういえば、東京都知事が公約として掲げていた「満員電車ゼロ」は実現されたのだろうか。赤ちゃんもお父さんお母さんも泣かずに通勤できるような、そんな電車になったらいいのになあ。

北海道に伝統はあるか?

 知ってはいたけれど、店頭に陳列されている落花生をみると困惑する。節分コーナーである。節分にまくものといえば煎り大豆が一般的だが、北海道では落花生をまく。北海道生まれ北海道育ちの知人いわく「掃除が楽だし、まいたあと食べれるから合理的」だそうだ。

 たしかに、掃除が楽だから落花生、という言い分には同意する。煎り大豆を家じゅうにまいたあとの掃除のめんどくささを考えると、昔からまくのは煎り大豆だからだとか、煎り大豆にはこんな意味があるとかそんなことはどうでもよくなってくる。豆まきを終えて掃除もひととおり終わったかと思っていたら、便器の裏に忘れ去られた数粒が春になってようやく発見されることもある。その点、落花生は粒が大きくて、殻が丈夫なので掃除が楽そうだ。

 しかし、「まいたあと食べれる」という意見には同意しかねる。これに関しては道民だからどう、本州出身だからどうというわけではなくて、個人的な感覚なのかもしれないが、少なくとも私はNOだ。まいた大豆は食べないことはもちろんだが(これは道民も同じだと思う)、たとえ落花生であってもNOである。まず、いくら殻付きとはいえ、一度床にまいたものを口に入れるのは抵抗がある。玄関やトイレにまいた豆ならなおさらだ。さらにいうと、節分でまく豆は単なる豆ではなく、鬼を追い払うための神聖な道具でもある。儀式に使う豆と人間が食べる豆は、はっきりと区別する必要がないだろうか。

 

 このあいだ、はじめて入ったバーでマスターとふたりきりになってしまい、なんとなく気まずい気持ちでウイスキーを舐めていると、マスターから声をかけられた。マスターは私が道外出身であることにすこし関心を持ったようで、北海道のことについて話をしてくれた。マスターによると、北海道には「北海道のお雑煮」がないらしい。本州に関していえば、どのあたりが角餅と丸餅の境目だとか、西は味噌汁で東はすまし汁、みたいなのがあって、具材も地方によって特色があったりする。けれど、北海道にはこれといって決まったお雑煮がなく、各家庭でまったく別々のお雑煮をつくっているのだという。

 単に北海道が広いからではない。北海道は本州からの移民によって開拓された土地である。そして本州からやってきた移民たちは、北海道に来てからも、それぞれのふるさとで食べていた雑煮を各家庭でつくりづつけてきた。といっても、ふるさとでつくる雑煮の材料のすべてが北海道では手に入らないこともあった。その場合はやむを得ず、別の材料で代替した。けれど、そこにはありあわせのものでもなんとか形にして「ふるさとの味を再現したい」という気持ちがあったのだと思う。

 北海道の厳しい寒さに耐えながら、ありあわせの落花生で豆まきをした屯田兵たち。彼らにとって無病息災の祈りは、笑いながら鬼役に豆をぶつける現代の節分に込められる思いとは比べ物にならないくらい切なる願いだったのだろう。もしそうなのだとしたら、拾った落花生を食べるなんて信じられない、なんてブツブツ言っていた自分が恥ずかしく思えてくる。

 

 北海道には伝統が、文化がないという。本当だろうか。たとえ形が変わっても、大豆が落花生に変わっても、そこには本州から北海道にやってきた人たちがなんとしてでも守りたいものが確かに残っているのではないだろうか。そしてそれを伝統と呼んではいけないのだろうか。

 

今週のお題「わたしの節分」

みつまめ

 限定のチョコレートサンデーをめあてにデパートのバレンタインフェアコーナーに寄ったのだけれど、なんというか女の子たちに圧倒されて、なにも食べずに帰ってきてしまった。地下まで下るエスカレーターに乗りながら、今日はコートからズボンまで全身灰色の服を着ていることに気がついて、はやくデパートから逃げてしまいたい気分になった。

 なんだかここのところあまり調子がよくない。そわそわして落ち着かなかったり、ちょっとしたことでイライラしたり、夜何度も目を覚ましたり、なにか焦ってるみたいに胸がざわざわしたり。体調は悪くないし、仕事も忙しいわけじゃない。誰かとケンカしたわけでもない。嫌なことがあったわけでもないのに、なぜか落ち着かないというか、そう、がんばりたくない気分だ。

 こういう日は野菜たっぷりの食事か、私だけのためにしては手の込みすぎた料理、スイーツのどれかが必要で、なので私はデパートを出てスーパーに入った。レタス、たまご、ベーコン、サラダチキンを次々とレジかごに入れ、スイーツのコーナーに立つ。いつもならクリームオン杏仁豆腐を選ぶところだけど、クリームオン杏仁豆腐を食べても私はそんなにしあわせにならないことを知っている。ロールちゃん…はちょっと食べ切れないかも。スーパーの苺ショートっておいしいのかな?ゼリーもいいけどあっさりしすぎかも。アイスという選択肢が一瞬脳裏に浮かんだが、なんとなく胃を冷やすのはまずそうだ。なんだか私、今日はもうちょっと家庭的なスイーツが食べたいのかも。と隣の棚へ移動する。ああそうそう。プッチンプリンよりプリンエルだよ、どっちかっていうと。納得した気分で棚に手を伸ばす。

 伸ばす、

 伸ばしかけたところでそれが目に入った。その瞬間、よくわからない何かがあふれるように私のなかに流れ込んできた。

 そこにあったのは、缶詰のみつまめだった。

 みつまめなんて好きじゃない。けれどときどき食べたくなる。私が幼稚園児で私の家族がまだアパートに住んでいたころ、そのアパートのリビングで母とよくみつまめを食べた。ガラスの器にみつまめをうつして、一緒に食べた。みつまめの豆は何がおいしいのかわからなかったけれど、角切りにした寒天の表面がすこしざらざらしているのを、舌でなぞるのが好きだった。母と暮らさなくなってみつまめを食べることもなくなったけれど、スーパーでみつまめを目にした瞬間に、幼いころ母とみつまめを食べた記憶がぶわっと流れ込んできたのだった。

 なんだかベタな話なんだが、本当なんだから仕方ない。みつまめの缶を一瞬つかみかける。しかし、考え直して杏仁フルーツにした。

 母は昨年病気にかかってから砂糖が食べられないらしく、ときどき貰い物のお菓子を送ってくるみつまめはまだ食べられるのだろうか。