モリノスノザジ

 エッセイを書いています

北海道に伝統はあるか?

 知ってはいたけれど、店頭に陳列されている落花生をみると困惑する。節分コーナーである。節分にまくものといえば煎り大豆が一般的だが、北海道では落花生をまく。北海道生まれ北海道育ちの知人いわく「掃除が楽だし、まいたあと食べれるから合理的」だそうだ。

 たしかに、掃除が楽だから落花生、という言い分には同意する。煎り大豆を家じゅうにまいたあとの掃除のめんどくささを考えると、昔からまくのは煎り大豆だからだとか、煎り大豆にはこんな意味があるとかそんなことはどうでもよくなってくる。豆まきを終えて掃除もひととおり終わったかと思っていたら、便器の裏に忘れ去られた数粒が春になってようやく発見されることもある。その点、落花生は粒が大きくて、殻が丈夫なので掃除が楽そうだ。

 しかし、「まいたあと食べれる」という意見には同意しかねる。これに関しては道民だからどう、本州出身だからどうというわけではなくて、個人的な感覚なのかもしれないが、少なくとも私はNOだ。まいた大豆は食べないことはもちろんだが(これは道民も同じだと思う)、たとえ落花生であってもNOである。まず、いくら殻付きとはいえ、一度床にまいたものを口に入れるのは抵抗がある。玄関やトイレにまいた豆ならなおさらだ。さらにいうと、節分でまく豆は単なる豆ではなく、鬼を追い払うための神聖な道具でもある。儀式に使う豆と人間が食べる豆は、はっきりと区別する必要がないだろうか。

 

 このあいだ、はじめて入ったバーでマスターとふたりきりになってしまい、なんとなく気まずい気持ちでウイスキーを舐めていると、マスターから声をかけられた。マスターは私が道外出身であることにすこし関心を持ったようで、北海道のことについて話をしてくれた。マスターによると、北海道には「北海道のお雑煮」がないらしい。本州に関していえば、どのあたりが角餅と丸餅の境目だとか、西は味噌汁で東はすまし汁、みたいなのがあって、具材も地方によって特色があったりする。けれど、北海道にはこれといって決まったお雑煮がなく、各家庭でまったく別々のお雑煮をつくっているのだという。

 単に北海道が広いからではない。北海道は本州からの移民によって開拓された土地である。そして本州からやってきた移民たちは、北海道に来てからも、それぞれのふるさとで食べていた雑煮を各家庭でつくりづつけてきた。といっても、ふるさとでつくる雑煮の材料のすべてが北海道では手に入らないこともあった。その場合はやむを得ず、別の材料で代替した。けれど、そこにはありあわせのものでもなんとか形にして「ふるさとの味を再現したい」という気持ちがあったのだと思う。

 北海道の厳しい寒さに耐えながら、ありあわせの落花生で豆まきをした屯田兵たち。彼らにとって無病息災の祈りは、笑いながら鬼役に豆をぶつける現代の節分に込められる思いとは比べ物にならないくらい切なる願いだったのだろう。もしそうなのだとしたら、拾った落花生を食べるなんて信じられない、なんてブツブツ言っていた自分が恥ずかしく思えてくる。

 

 北海道には伝統が、文化がないという。本当だろうか。たとえ形が変わっても、大豆が落花生に変わっても、そこには本州から北海道にやってきた人たちがなんとしてでも守りたいものが確かに残っているのではないだろうか。そしてそれを伝統と呼んではいけないのだろうか。

 

今週のお題「わたしの節分」