モリノスノザジ

 エッセイを書いています

たねとたね

12/26分の再投稿です。文章が表示されていなかったようで、申し訳ありませんでした。(id:ymaria53) 、ご指摘ありがとうございました!

 

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 ヴィーナスの着衣のようなドレープ。思わずため息が漏れる。うつくしいからではない。悩ましいからだ。恋の悩みではない。からだの悩みだ。それも、だるいとか眠いとかそういったたぐいの。実に、悩ましいからだなのだ。
 冬の低気圧が日本列島にうつくしいドレープを描くころ、私のからだは下水管にこびりついたへどろへとなりはてる。本来人間のからだには、生きていくためにからだじゅうの機能をうまくコントロールするしくみが備わっている。それが、冬の到来を察知するやいなや、いっせいに仕事を放棄するものだから、つまるところ死と同じことだ。ほとんどゾンビのようになったからだは、めまいはするし、毎朝起きるたびに泥みたいに重たいし、ねむいし、ねむいし、とにかく眠い。生活は夢のなかのように歪んでゆらゆらして、それがここ数年のこの季節の悩みの種。そのはずだった。
 
 「相談が、あるんですけどぉ」
 金曜日の夕方、会社を出たところで話しかけてきたのは、林田(仮)さん。正社員と委託社員という雇用形態の違いはあれど、毎日職場で顔を合わせる関係ではある。でも、こんなところで声をかけられるのははじめてだった。ずっとあたたかかったのに、これまで足りなかった分の冬を取り戻すみたいに一気に雪が積もったこと。雪の降りようがあまりにひどかったために、日中私が駐車場の除雪作業をしなければならなかったこと。それに対する労いのようなことを林田さんは話して、別れ際にそう切り出した。

 仕事の相談と言われれば、もちろん聞く。まあそれが仕事だし。と、なにも考えずに「いいですよ」と答えてしまったのが、その後の混乱の元だったのかもしれない。それからの私は、眠くてねむくてねむくて仕方がなかったはずの夜を眠れずに過ごすことになる。「ここに連絡してください」と林田さんが渡してきたのは、林田さん個人の連絡先だったからだ。
 林田さん曰く、これはあくまでも仕事の相談である。しかし、他の社員には聞かれたくない。普段ふたりきりでゆっくり話す時間もないから、個人的にLINEでやりとりをさせてほしいと言うのだった。

 

 「ぜんぜん変な話ではないですから!」と念を押す林田さんに圧され、(そんなものか)とメモを受け取る。しかし、別れた後の電車に揺られながら、夕食に冷えたアラビアータを食べながら、湯ぶねにつかりながら、次第にふつふつと違和感が湧き上がってきた。
 会社の人――それもあまり意識していない異性と、個人的なつながりを持つことに対する抵抗感もある。それに加えて、あくまでも仕事の話だと言い張るのであれば、それはやはり会社で、業務時間中に話すべきことなのではないだろうか?どんな内容の相談なのかわからないが、なぜプライベートの時間にわざわざ仕事の話をしなければならないのか?もしそれに応じるのであればその理由は、林田さんがどうやら私を信頼して相談してくれているらしいということ、そして、その気持ちに応えなければならないというその一点のみにあるのであった。
 
 「お母さんがLINEに連絡してきて、困ってんねん」という友人の話を聞いて、そうしてLINEの連絡先を教えてしまうのだろうと内心思ったことがある。なにも、実の母親と連絡を絶つべきだと言うわけではない。彼は高校教師で、「お母さん」というのは生徒の母親のことである。子どものことで相談がある、と言われて連絡先を交換したあと、その「お母さん」から熱烈なアプローチを寄せられて困っているらしい。同じく高校の教師になったもうひとりの友人も「あるある」なんて頷いているものだから、それなりによくあるケースなのかもしれない。
 その話を聞いたときには内心すこし呆れてもいたのだけれど、今だったらわかる。「相談がある」なんて言われたら、断れない。真面目な教師であればあるほど、むしろ熱心に相談に応じようとするだろう。「お母さん」たちはそんな彼らの誠実な姿に次第に魅かれていくのかもしれないが、なかには意識的に/無意識に「相談」というワードを選択して近寄ってくる巧者もいることだろう。それでも彼らは、「相談がある」と近寄ってくる彼女たちを無下に遠ざけることはできない。そしてそれは、私も同じだ。
 
 林田さんに連絡先を渡されてからというもの、私は夜に眠ることができなくなった。悩みごとで眠れなくなるなんて、まるで漫画みたいでちょっと滑稽で、でも、滑稽だと笑っても眠たさが戻ってくることはなかった。
 私はいったい、何にそんなに悩んでいたのだろう。林田さんと個人的に連絡を取ることに抵抗があった。でも断れば、せっかく私を信頼して相談してきてくれている林田さんを傷つけてしまうかもしれない。
 しかし、林田さんの言う「相談」とやらは、あくまでも口実に過ぎないという可能性もある。林田さんが私に近づくために――普段私がいかに異性にモテるかを考えれば、それが事実である可能性がどの程度あるかはわかりきったことであるが――、「相談」を持ちかけてきたのだとしたら?もしそうだとしたら、ちょっとだけ嫌な気持ちだ。自分のなかにある利用されているような、あるいは試されているような。でもそういうとき、そうかもしれないとわかっているときも、自分は怒ったり拒んだりすることができないんだ。現に今回もそうであったように。
 
 他人に困惑させられたとき、迷惑をかけられたとき、傷つけられそうになったとき、怒らずにへらへらお茶を濁している自分をときどき見つける。情けなくてしかたがないのに、そのままでもいいよって同時に思うこともあって、そんな自分自身の肩をただやさしく叩いてあげたいような、そんな気持ちになる。そういうときの自分はやさしいというよりもむしろ弱いのだと思えて、やさしいということがどういうことなのか、急に見失ってしまう。「付き合うなら?」「やさしい人が」なんてことで友人と盛り上がった高校時代には、どういうことがやさしいということなのかははっきりしていたはずなのに。
 
 はたして林田さんからの相談は、本当に単なる仕事の相談だった。自転車を見て「馬」と言う人がいないのと同じくらいはっきりと、仕事の話であった。その話は結局職場の非常階段でなされたので、林田さんとLINEでやりとりをすることはなかった。特に何をしてほしいということでもなく、ただ愚痴を共有できる相手がほしかったということらしい。ひとまず一安心、かと言うとそうでもなくて、悩みの種が林田さんから仕事にまつわるふわっとした問題点にすりかわっただけのことではあるのだが、信頼が篤くてモテない森淳さんを信じて正解だったというわけである。林田さんは林田さんで(勘違いしてんじゃねえぞ)くらい思っていたかもしれない。なんて恥ずかしいことだろう。
 しかし、それはそれとして、私がこの手のエピソードに恵まれないことに関しては、ちょっと黙ってはいられない気持ちもある。私はなぜモテないのか――万人に好意を寄せられるほどではなくとも、ちょっとくらい浮かれる場面があってもいいはずなのに……というのは、なんとなく理解することができるような気もする。悔しいことに。しかし自分がモテる人々のようになりたいかというとそういうわけでもなく、今のままの私でぴったりと心が通じ合うような人は世の中にいないものなのだろうか……などと、夜はまた新しい種を抱えてふくらんでゆくのだった。

 

チーズたっぷりミラノ風ドリアのパ

 12月24日の夕方、サイゼリヤ札幌すすきの交差点店。二人席。テーブルをはさんで向こう側の座席には、ブラウンのコートが丸まっている。まだ少しだけついていた外の雪は、サイゼリヤのあたたかさに緩んで、やがて微細な光の粒へと変わっていく。私はテーブルの上に両腕を乗せたまま、ただそれをじっと見つめていた。

 

 ふたりともスマートフォンをいじりながら、料理を待っている大学生たち。小説を読みつつ、グラスワインを傾けるおじさん。アイドルの話で盛り上がる女子三人組。何もせずにひとりで黙りこくっているような客は私くらいだ。

 店員さんの目には、さっき注文したチーズたっぷりミラノ風ドリアがなかなか届かないために、腹の底で燃えあがる静かな怒りに震える客として映ったかもしれない。忙しいのに、プレッシャーをかけてごめん。やっぱり、忙しいんでしょ、イヴ……と謝りかける。いやしかし、クリスマスイヴだからカップルがサイゼリヤに大挙してやってくる、ということはないだろう。夜景の見えるホテルだとか、オシャレなバーだとか、きっとそういうところにいるのだ。クリスマスイヴのカップルというやつは。つまり、イヴだからサイゼリヤがいつもより混みあっているという道理もない。ごめん、さっきのごめんはやっぱり撤回する。

 

 こういうタイプの、つまり、小さいテーブルをはさんで椅子がひとつずつの席に通されると、いつも悩む。店員に案内されるので、まずはとりあえず座る。荷物は自分が座る席とは反対側の席へ。ハンカチと、財布も取りだしておく。後でセルフの水やおしぼりを取りに行くときに、スムーズに動けるようにだ。メニューを広げ、オーダーをする。注文した料理が届くまでの間、向かいの席の鞄からスマホやら本やらノートやらを取り出して何かをするかと言うと、それもなんだかせわしないように感じる。スマホくらい取り出してみているのがたいていのことだけど、こんなふうに、ただ料理を待っているだけというのも久しぶりかもしれない。

 

 考えるのはブログのことだ。書きかけの記事の続きをどう書くか、どうオチをつけるか……。ブログのことを考え始めると、もうそれしかできない。音楽を流していても書けない。ブログを書いているとき、私はブログを書くだけしかできなくなる。

 

 そもそもが最近は、だらだらと動画を流して過ごしがちなのかもしれない。食事をしながら、取り込んだ洗濯物をたたみながら、料理をしながら。見逃したニュース番組のアーカイブやら、ゲームの作業配信やらをずっと流してしまっている。手を動かしている間も目は空いている――という感覚がある。Amazon Fire Stickを買って以来、テレビで手軽にYoutubeが見られるようになったことも手伝って、ついつい何かを見ながら流し見をする。そうすると自然と、ブログに向かう時間は少なくなる。動画を流しながらブログを書くことはできない。ひとつの時間にひとつのことしかできないということが、なんだかすごくコストパフォーマンスの低いことのように思えてしまう。

 

 もっとも、ゲーム配信を流しながら読む新聞や料理に、どの程度の「パ」があるというのかは疑問だ。常にながら「し」をすることは、結局何かを得ることにはつながらないようにも思える。爪を切りながら映画を観ていても、映画の内容は入ってこないは、爪はガタガタだわ……ということになりかねない。最終的な結論としては、常にひとつのことに集中することがもっとも効率的だという場面もありうるだろう。それでも、効率、とかコスパという考え方は、もうずっととれないままの机のシミみたいに、ずっと私の前にちらついてくる。考えているのか?惰性かもしれないけれど。

 

 そういうわけで、チーズたっぷりミラノ風ドリアが届くまでの時間はひさびさにブログのことだけを考える時間になった。実際には、待ち「ながら」考えている。けれど、待つというのは行動としてほぼ0行動だ。だから、実質的にはただ考えているのだと言ってもいいだろう。

 

 それもこれもチーズたっぷりミラノ風ドリアが届くまでの時間だと思っていたのだけれど、食べ始めてみれば、それほどチーズたっぷりミラノ風ドリアに思考を割くこともなかった。頭のなかで考える文章のなかに、(熱い)とか(本当にチーズたっぷりだな)なんてひとりごとを呟く私がときどきフェードインしてくる。

 

 しかしそれはあくまでも考えるのを邪魔するほどではなく――店員さんの目には、空腹で空腹で待ちきれなかったところに届いたチーズたっぷりミラノ風ドリアを全身全霊で食べる熱心な客として映ったことだろう。熱いドリアを口に運びながら、ただドリアだけを見つめて考えていた。

 そのおかげでこうやって、まがりなりにも文章ができあがったわけだから、チーズたっぷりミラノ風ドリアのパフォーマンスの高さには驚かされる。ありがとうサイゼリヤ。ありがとう、チーズたっぷりミラノ風ドリア。

 

3年4カ月めの下書き

 クローゼットを開けると収納ケースの上に箱があって、箱を開けると、ずっと昔に買ったiPhone4の付属イヤホンに、余ったカーテンフック、何かの家具を組み立てるのに使った小さなレンチや目の入ったダルマがあるというように、そういうふうにこの下書きは3年4カ月の間ずっとここで眠り続けている。そして、下書きにあるのはこれだけだ。

 私は下書きを書かない。正確に言うと、記事を下書きとして保存するという習慣がない。記事はWordで書いたものをエディタに貼りつけて投稿しているし、書いたものはすべて投稿しているから、下書きに何かを保存しているということはない。しかし、この記事は3年4カ月前の2018年6月――つまり、このブログに私が最初の記事を投稿するよりも前からずっとここに眠っている。これは、私の、未来だったものだ。

 

 その下書きは、未来に書かれたものだった。ブログ開設から5年後、つまり2023年の私が書いたという設定で、ブログを立ち上げてからの5年間を振り返るという内容だった。このブログをどういうものにしたいか、どんな記事をどれくらい書いて、何人くらいの人に読んでもらいたいか。今読みかえしても、あのときの私のブログに対する思い入れが伝わってくる。多分私は、ブログを始めることで何かを変えられると思っていたのだと思う。

 

 「今読みかえしても」と書いたけれど、本当のところ、あまり読みかえすことはない。あまりにも力みすぎていて恥ずかしいし、あのときと今ではずいぶん考え方が変わったように思う。

 3年と4カ月の間ブログを書いたり書かなかったりしているうちに、いつからか、ブログに関わる数字にすっと興味がなくなった。気にしなくなった。

 自分の書いたものが誰かに見つけてもらえるのは、とてもうれしい。でも、たくさんの人に読まれるためだけの文章を書きつづけて、いつもアクセス数や読者数に追い詰められているのは不幸なことだ。自分がニヤニヤできる文章を書き続けることのほうが、ずっと満たされた気持ちになる。

 多分それは、このブログを通じて人と言葉を交わし、人のブログを読むことでもたらされた変化なのだと思う。私はこのままでいいと、信じられるようになった。ブログを書いていくなかでそういうやりとりが生まれること、それによって自分が変わっていくということを、あの頃の私は理解していなかったけれど。

 

 だからそろそろ私は、この下書きを消すべきなのかもしれない。消して、新しい下書きを書くのがいいのかも。次の3年4カ月、いや、次の10年間を振り返る新しい未来を。

 

 

*はてな特別お題キャンペーン【お題1:はてなブロガーに10の質問】「05 下書きに保存された記事は何記事? あるならどんなテーマの記事?」に答えました。ほかの9つは続きから。

 

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入浴は戦いだ

 入浴は戦いだ。

 

 入浴前に、入浴剤を選ぶのは好きだ。家と職場とスーパーを行き来しているだけの生活で手に入る入浴剤はバブくらいだが、柚子か蜜柑かを選べるだけでもずっと楽しい。ばら売りの入浴剤がいくつもストックされていると、よりよい。暑い夏はクールタイプの入浴剤を、ぐっすり眠りたい夜にはラベンダーの香り付きのものを、なんとなくリッチな気分になりたい日には泡風呂を、そんなふうに考えながら入浴剤をひとつひとつ吟味するのはとてつもなく楽しい。

 洗面所の床に入浴剤をひろげてひとり頭をひねる時間は、菓子店のショーケースの前でケーキを選ぶ時間にも似ている。あ、そういえば、そういう時間がたまにしかこないところも似ているのか。普段は湯ぶねに入らずシャワーで済ませてしまうし、ケーキだって3カ月に一度買うかどうか。そんな特別感もまた、入浴前のこの時間を楽しいものに感じさせるのかもしれない。

 しかし、決して忘れてはならない。入浴は戦いである。そして、その戦いはすでにこの瞬間から始まっているのだ。

 

 戸をわずかに開いたまま、ざっと湯をかぶり、浴槽に身を投じる。思わず声が出る。避けようがない。それは声というよりほとんどため息に近い。中身がわずかになったマヨネーズの容器が、押すとブシュッと音を立てるように、いや、立てずにはいられないように、風呂に入った瞬間に出るこの声は、もはや避けようがない。

 ちょっと前まではそうでもなかったような気がするんだけれど、これがくたびれたマヨネーズになるってことなんだろうか。

 

 さっき少しだけ扉を開けておいたのは湯気を逃すためで、いい感じに湯気を逃がした風呂場の空気のなかで、だらだらTwitterを眺める。天井からぽたぽた落ちる滴の数を眺める。ぼんやりと考える。今日起こった出来事を、明日や週末にすべきことを、その他、とりとめのないあれやこれやを。

 すっかり気の抜けたリラックスタイムに見えるが私は、これでも熱い戦いのなかに身を投じている。あたたかい湯にじっくりと身を沈めながら。

 

 そういえば、こんなふうにお風呂のなかでなにかを考えたりするようになったのはいつ頃からだろう。そもそも幼いころの私は、こんなに長い時間入浴する習慣がなかった。ぱっと入って、ぱっと出る。お風呂のなかで100数えられるのは、すごいこと。そんな感覚で、私にとって、お風呂は決して長い時間を過ごす場所ではなかった。

 

 お風呂が、身体が濡れることがもしかしたら嫌いだったのかもしれない。子どもの頃は毎日洗髪をしていなかった。身体と頭を一日おきに洗って、日曜日は頭からつま先まで泡だらけになる特別な「あわあわの日」だった。

 後にそのことが同級生の女の子(彼女はなおみちゃんといった)に知られると、なおみちゃんは「えーっ、二日に一回しか頭洗ってないの?くさっ、きたなっ」と私を罵った。あるいは彼女にそのつもりがなくても、その言葉は私を傷つけた。

 

 今の私なら、彼女に苦情を言いたてるだろう。「え?頭洗ってないって知った瞬間に『くさっ』って、なんなの?『くさっ』が先にくるなら分かるけど。『頭洗ってないの?くさっ!』はおかしいでしょ。だって、毎日頭洗ってないってわかるまでは『くさっ』って思ってなかったわけでしょ。それが、毎日頭洗ってないってわかった瞬間に『くさっ』なるのはおかしいじゃん。それに、臭いのも汚いのも仮に事実だったとして、臭ければ公衆の面前で人を侮辱してもいいとでも思っているわけ?なおみちゃんが清潔だから?清潔な人っていうのはそんなに偉いのかなあ。だいたいなおみちゃんは…」などと言い連ねて、小さななおみちゃんを責め立てることもできるだろう。

 でも、当時の私にそんな余裕はなかった。なおみちゃんの言葉にまっしろになった私は、その日から毎日髪を洗うと決めた。

 

 私の母は、いまでも一日おきに髪を洗っているようだ。たぶん、母がそうだったから私もそうだったのだと思う。昔はそれも当たり前だったというから、それは衛生観念の違いというよりも、むしろ世代における習慣の違いによるもののようにも思える。

 あのころの私やなおみちゃんは、ちょうど昭和と平成の狭間にいた。なおみちゃんは私よりちょっとだけ早く平成だったというだけだ。

 

 大人になると長風呂をしてしまうのは、こうやって思い出す過去がどんどん増えてくるからなのだろうか。

 「適正な入浴時間は10分前後」と入浴剤の説明書きには書かれているけれど、入浴剤の注意事項をちゃんと読むような大人になってから、その注意書きを守ったことがない。

 10分入浴するのと1時間入浴するのとで身体への影響にどんな違いがあるのかは分からないけれど、長風呂はよくないということは確かにわかってもいる。特に、湯沸かし機能のない我が家の風呂のような場所では――そう、こんなふうにすっかり湯が冷めてしまうから。

 

 入浴は戦いだ。何と戦っているのかって?わからない。強いて言うなら、だんだん冷えていくお湯と、少しでも長く湯に浸かっていたいと思う自分自身との戦いだ。

 長い間浸かっていると、お湯は少しずつ冷めていく。いったん湯が冷え始めると、そこから出るには何よりも強い強い意志が必要だ。お湯から出るのは、寒い。だから出たくない。しかし、ずっと浸かっていればお湯はますます冷めていく。外に出るタイミングを逃したまま、私の身体も一緒になって冷えていく。ああ、ゲームオーバー。今日も入浴に負けた。

 せっかく風呂であたたまったというのに、風呂から出るまでに冷えてしまった悲しい身体を引きずって浴槽の外に出る。わかっているのに。

 

 でも、いつの日か私が、まだあたたかいお湯を残してなんの未練もなく浴室を後にできる日がいつかやってくるのかと言うと、なんだか当面こない気がするし、きてほしくないような気もする。わかっている。わかっているのだけれど。今日も私は、入浴に負け続ける。
 

今週のお題「お風呂での過ごし方」

ほんの記録(7・8・9月)

 まぬけか。まぬけなのか、私は? 書棚を前に、頭を抱えている。頭痛の種はと言えば、本棚に並んだこの本の並びだ。以前この本棚を整理したのは、たしか三ヵ月前。つまり、たった今眺めているこの並びは、三ヵ月前に何らかの意図をもって並べた結果である。しかし、これがどう見たってまぬけが並べたとしか思えない並びなのだ。同じ著者の本がバラバラの位置にある。隣り合う本どうしに統一感がない。背の高い本と、背の低い本とを同じ列に並べているため、その分スペースにロスがある。ゲームソフトやら、使ってない眼鏡ケースが紛れている。などなど。

 あきれた私は改めて本を並べ直すことにして、しかし、しばらくしてはたと気がつく。はたして完璧な本棚などあるのだろうか、と。

 著者で揃えれば、出版社がばらばらになる。スペースのロスをなるべく減らすべく並べると、頻繁に読みたい本ほど取り出しにくい場所に並んでしまう。背表紙の色で並べれば、ジャンルや著者でまとめるのはあきらめなければならない。あれだけまぬけに見えた並びも、あれでいて、そのときありったけの知恵を絞った結果なのだということが、だんだんとわかってくる。しかし、諦めてはいられない。完璧な本棚はなくとも、完璧に近い本棚はあるのだ。そうして並びなおした本棚を見て、きっと三か月後の私は思うことだろう。

「は?まぬけなのか?」

 

 

内澤旬子『世界屠畜紀行 THE WORLD’S SLAUGHTERHOUSE TOUR』角川文庫

 6月に読んだ『ベジタリアン哲学者の動物倫理入門』に関連して、(id:philia0)さんが紹介してくださった本。ひどくカルチャーショックを受けた。
 その理由はふたつ。ひとつは、私がこの種の紀行文・フードルポをこれまでほとんど読んでこなかったこと。もうひとつは、動物を殺して食べるという行為に対する著者の考え方ゆえだ。

 『ベジタリアン哲学者の動物倫理入門』は、タイトルからもわかるとおり、ベジタリアンである著者がベジタリアンの立場から書いた本である。決して薄い本ではないけれど、主張していることはいたってシンプルだ。曰く、人間に人権があるのと同じように、動物にも基本的動物権がある。したがって、動物を殺したり苦しめてはならない。畜産や愛玩動物(ペット)の飼育など、さまざまな問題が検討されるときには、常にこの主張に立ち戻ってくることになる。

 『世界屠畜紀行』の著者が、動物を殺すことや動物を苦しめることを容認しているわけではない。彼女もまた、屠畜場で電気ショックを流されてわななきながら処理されていく豚を見て、心を痛める。しかし同時に、そういった現実をまっすぐに見つめたうえで、そのうえで肉を食べることを選ぶのだ。

 

 だけど、まったく抵抗させないで動物を殺すことができるだろうか。ニコニコ笑いながら「どうぞ殺してください」なんて言う動物なんぞいるわけがない。植物だって目鼻や声がないだけで、刈り取られるときに泣いてるかもしれないし。肉をおいしく食べているんだからしょうがないじゃん。見ればショックを受けるのも確かだけど、そのことをまったく知らないで肉を食べているのは、もっと嫌だ。しっかり眺めて頭に叩き込んでから、バリバリ肉食ってやる。

 

 「動物を殺すのはいけないことなのかもしれない」と思いながらも肉を食べることをやめないのは、ただ単にそういうそぶりをしているだけのようにも思える。動物たちがどうやって肉になるのかをしっかり見て、そのうえでたくさん感謝して肉を食う。そういうやり方があること、そしてそれがどういうことなのかを、この本を読むまでちゃんとわかっていなかったような気がする。

國分功一郎『暇と退屈の倫理学 増補新版 』homo Viator

 文字通り、「暇」と「退屈」をテーマとした本。暇?退屈?そんなものが倫理学の主題になるのだろうか?と思いつつ手に取ったのだけれど、思いのほか面白い。
 私たちの生活は豊かになって、余裕ができ、その時間に好きなことをするようになった。しかし「好きなこと」とはいったいなんだろう?私たちは本当に好きなことをしているのだろうか。それは、他人や社会から与えられたものではないのか。私たちは、暇のなかでいったいどう生きるべきなのか。それがこの本の主題である。

 哲学の本だけれど、哲学のことをよく知らない人でも、ゆっくり読めば大丈夫だと思う。自分もそうだ。前半では主に歴史的な見地から「暇と退屈」についての考察が進められ、後半からハイデッガーの議論を参照しながらの哲学的考察がはじまる。毎日少しずつ読みすすめるのが楽しみ。

美術史関連

 来月に美術検定の試験を控えているので、美術関係の読み物を増やしていこうと考えてのラインナップ。池上英洋さんの美術史シリーズは、1項目数分で読み終えられるので、通勤中などのちょっとした時間の読み物として重宝する。どれもエロティックな絵画が表紙に使われていて、本屋で買うのがちょっと恥ずかしかった。

歌集ほか

 三田三郎さんの歌集、内容がおもしろいと結構評判のよう。歌もそうだけど、自由に伸び縮みするような韻律がいいなあと思う。こんな歌が収録されています。

ずっと神の救いを待ってるんですがちゃんとオーダー通ってますか
気をつけろ俺は真顔のふりをしてマスクの下で笑っているぞ
目覚めれば現実起き上がれば現実ちょっとお茶でも飲めば現実
パーティーで失言をした大臣のその時はまだ楽しげな顔

 

漫画

 最終巻発売と思ったら、おまけのTwitter漫画分2冊も同時発売でした。すごいな!うれしい!

その他

 

 しばらくブログをサボっていたにも関わらず、ここに挙げたなかにもまだ積み残しがある。冬になったら家にこもって、ゆっくり本を読みたいな……と思ったのだけれど、家にいるのはいつものことだった。いったいどうしてこんなに積み残しているんだろう?

 

 今月は、11月の美術検定に向けてアート関係の本をしっかり読む予定。いままで、好きで、好きなように楽しんできたいろいろなことについて、ちゃんと知識もつけていきたいなという気持ちになってきている。

 そして、1月?2月から記録をつけてきてようやく小説がリストに現れました。分野に関わりなく、もう少しいろいろ読むようにしないとなあ。もともとは「月3冊以上読む」が目標で、そのなかに新書と古典を少なくとも一冊ずつ入れる……とか、そういうルールがありました。美術検定が終わったら、もう少し本の買い方も考えよう。

 

今週のお題「今月の目標」