モリノスノザジ

 エッセイを書いています

たねとたね

12/26分の再投稿です。文章が表示されていなかったようで、申し訳ありませんでした。(id:ymaria53) 、ご指摘ありがとうございました!

 

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 ヴィーナスの着衣のようなドレープ。思わずため息が漏れる。うつくしいからではない。悩ましいからだ。恋の悩みではない。からだの悩みだ。それも、だるいとか眠いとかそういったたぐいの。実に、悩ましいからだなのだ。
 冬の低気圧が日本列島にうつくしいドレープを描くころ、私のからだは下水管にこびりついたへどろへとなりはてる。本来人間のからだには、生きていくためにからだじゅうの機能をうまくコントロールするしくみが備わっている。それが、冬の到来を察知するやいなや、いっせいに仕事を放棄するものだから、つまるところ死と同じことだ。ほとんどゾンビのようになったからだは、めまいはするし、毎朝起きるたびに泥みたいに重たいし、ねむいし、ねむいし、とにかく眠い。生活は夢のなかのように歪んでゆらゆらして、それがここ数年のこの季節の悩みの種。そのはずだった。
 
 「相談が、あるんですけどぉ」
 金曜日の夕方、会社を出たところで話しかけてきたのは、林田(仮)さん。正社員と委託社員という雇用形態の違いはあれど、毎日職場で顔を合わせる関係ではある。でも、こんなところで声をかけられるのははじめてだった。ずっとあたたかかったのに、これまで足りなかった分の冬を取り戻すみたいに一気に雪が積もったこと。雪の降りようがあまりにひどかったために、日中私が駐車場の除雪作業をしなければならなかったこと。それに対する労いのようなことを林田さんは話して、別れ際にそう切り出した。

 仕事の相談と言われれば、もちろん聞く。まあそれが仕事だし。と、なにも考えずに「いいですよ」と答えてしまったのが、その後の混乱の元だったのかもしれない。それからの私は、眠くてねむくてねむくて仕方がなかったはずの夜を眠れずに過ごすことになる。「ここに連絡してください」と林田さんが渡してきたのは、林田さん個人の連絡先だったからだ。
 林田さん曰く、これはあくまでも仕事の相談である。しかし、他の社員には聞かれたくない。普段ふたりきりでゆっくり話す時間もないから、個人的にLINEでやりとりをさせてほしいと言うのだった。

 

 「ぜんぜん変な話ではないですから!」と念を押す林田さんに圧され、(そんなものか)とメモを受け取る。しかし、別れた後の電車に揺られながら、夕食に冷えたアラビアータを食べながら、湯ぶねにつかりながら、次第にふつふつと違和感が湧き上がってきた。
 会社の人――それもあまり意識していない異性と、個人的なつながりを持つことに対する抵抗感もある。それに加えて、あくまでも仕事の話だと言い張るのであれば、それはやはり会社で、業務時間中に話すべきことなのではないだろうか?どんな内容の相談なのかわからないが、なぜプライベートの時間にわざわざ仕事の話をしなければならないのか?もしそれに応じるのであればその理由は、林田さんがどうやら私を信頼して相談してくれているらしいということ、そして、その気持ちに応えなければならないというその一点のみにあるのであった。
 
 「お母さんがLINEに連絡してきて、困ってんねん」という友人の話を聞いて、そうしてLINEの連絡先を教えてしまうのだろうと内心思ったことがある。なにも、実の母親と連絡を絶つべきだと言うわけではない。彼は高校教師で、「お母さん」というのは生徒の母親のことである。子どものことで相談がある、と言われて連絡先を交換したあと、その「お母さん」から熱烈なアプローチを寄せられて困っているらしい。同じく高校の教師になったもうひとりの友人も「あるある」なんて頷いているものだから、それなりによくあるケースなのかもしれない。
 その話を聞いたときには内心すこし呆れてもいたのだけれど、今だったらわかる。「相談がある」なんて言われたら、断れない。真面目な教師であればあるほど、むしろ熱心に相談に応じようとするだろう。「お母さん」たちはそんな彼らの誠実な姿に次第に魅かれていくのかもしれないが、なかには意識的に/無意識に「相談」というワードを選択して近寄ってくる巧者もいることだろう。それでも彼らは、「相談がある」と近寄ってくる彼女たちを無下に遠ざけることはできない。そしてそれは、私も同じだ。
 
 林田さんに連絡先を渡されてからというもの、私は夜に眠ることができなくなった。悩みごとで眠れなくなるなんて、まるで漫画みたいでちょっと滑稽で、でも、滑稽だと笑っても眠たさが戻ってくることはなかった。
 私はいったい、何にそんなに悩んでいたのだろう。林田さんと個人的に連絡を取ることに抵抗があった。でも断れば、せっかく私を信頼して相談してきてくれている林田さんを傷つけてしまうかもしれない。
 しかし、林田さんの言う「相談」とやらは、あくまでも口実に過ぎないという可能性もある。林田さんが私に近づくために――普段私がいかに異性にモテるかを考えれば、それが事実である可能性がどの程度あるかはわかりきったことであるが――、「相談」を持ちかけてきたのだとしたら?もしそうだとしたら、ちょっとだけ嫌な気持ちだ。自分のなかにある利用されているような、あるいは試されているような。でもそういうとき、そうかもしれないとわかっているときも、自分は怒ったり拒んだりすることができないんだ。現に今回もそうであったように。
 
 他人に困惑させられたとき、迷惑をかけられたとき、傷つけられそうになったとき、怒らずにへらへらお茶を濁している自分をときどき見つける。情けなくてしかたがないのに、そのままでもいいよって同時に思うこともあって、そんな自分自身の肩をただやさしく叩いてあげたいような、そんな気持ちになる。そういうときの自分はやさしいというよりもむしろ弱いのだと思えて、やさしいということがどういうことなのか、急に見失ってしまう。「付き合うなら?」「やさしい人が」なんてことで友人と盛り上がった高校時代には、どういうことがやさしいということなのかははっきりしていたはずなのに。
 
 はたして林田さんからの相談は、本当に単なる仕事の相談だった。自転車を見て「馬」と言う人がいないのと同じくらいはっきりと、仕事の話であった。その話は結局職場の非常階段でなされたので、林田さんとLINEでやりとりをすることはなかった。特に何をしてほしいということでもなく、ただ愚痴を共有できる相手がほしかったということらしい。ひとまず一安心、かと言うとそうでもなくて、悩みの種が林田さんから仕事にまつわるふわっとした問題点にすりかわっただけのことではあるのだが、信頼が篤くてモテない森淳さんを信じて正解だったというわけである。林田さんは林田さんで(勘違いしてんじゃねえぞ)くらい思っていたかもしれない。なんて恥ずかしいことだろう。
 しかし、それはそれとして、私がこの手のエピソードに恵まれないことに関しては、ちょっと黙ってはいられない気持ちもある。私はなぜモテないのか――万人に好意を寄せられるほどではなくとも、ちょっとくらい浮かれる場面があってもいいはずなのに……というのは、なんとなく理解することができるような気もする。悔しいことに。しかし自分がモテる人々のようになりたいかというとそういうわけでもなく、今のままの私でぴったりと心が通じ合うような人は世の中にいないものなのだろうか……などと、夜はまた新しい種を抱えてふくらんでゆくのだった。