モリノスノザジ

 エッセイを書いています

入浴は戦いだ

 入浴は戦いだ。

 

 入浴前に、入浴剤を選ぶのは好きだ。家と職場とスーパーを行き来しているだけの生活で手に入る入浴剤はバブくらいだが、柚子か蜜柑かを選べるだけでもずっと楽しい。ばら売りの入浴剤がいくつもストックされていると、よりよい。暑い夏はクールタイプの入浴剤を、ぐっすり眠りたい夜にはラベンダーの香り付きのものを、なんとなくリッチな気分になりたい日には泡風呂を、そんなふうに考えながら入浴剤をひとつひとつ吟味するのはとてつもなく楽しい。

 洗面所の床に入浴剤をひろげてひとり頭をひねる時間は、菓子店のショーケースの前でケーキを選ぶ時間にも似ている。あ、そういえば、そういう時間がたまにしかこないところも似ているのか。普段は湯ぶねに入らずシャワーで済ませてしまうし、ケーキだって3カ月に一度買うかどうか。そんな特別感もまた、入浴前のこの時間を楽しいものに感じさせるのかもしれない。

 しかし、決して忘れてはならない。入浴は戦いである。そして、その戦いはすでにこの瞬間から始まっているのだ。

 

 戸をわずかに開いたまま、ざっと湯をかぶり、浴槽に身を投じる。思わず声が出る。避けようがない。それは声というよりほとんどため息に近い。中身がわずかになったマヨネーズの容器が、押すとブシュッと音を立てるように、いや、立てずにはいられないように、風呂に入った瞬間に出るこの声は、もはや避けようがない。

 ちょっと前まではそうでもなかったような気がするんだけれど、これがくたびれたマヨネーズになるってことなんだろうか。

 

 さっき少しだけ扉を開けておいたのは湯気を逃すためで、いい感じに湯気を逃がした風呂場の空気のなかで、だらだらTwitterを眺める。天井からぽたぽた落ちる滴の数を眺める。ぼんやりと考える。今日起こった出来事を、明日や週末にすべきことを、その他、とりとめのないあれやこれやを。

 すっかり気の抜けたリラックスタイムに見えるが私は、これでも熱い戦いのなかに身を投じている。あたたかい湯にじっくりと身を沈めながら。

 

 そういえば、こんなふうにお風呂のなかでなにかを考えたりするようになったのはいつ頃からだろう。そもそも幼いころの私は、こんなに長い時間入浴する習慣がなかった。ぱっと入って、ぱっと出る。お風呂のなかで100数えられるのは、すごいこと。そんな感覚で、私にとって、お風呂は決して長い時間を過ごす場所ではなかった。

 

 お風呂が、身体が濡れることがもしかしたら嫌いだったのかもしれない。子どもの頃は毎日洗髪をしていなかった。身体と頭を一日おきに洗って、日曜日は頭からつま先まで泡だらけになる特別な「あわあわの日」だった。

 後にそのことが同級生の女の子(彼女はなおみちゃんといった)に知られると、なおみちゃんは「えーっ、二日に一回しか頭洗ってないの?くさっ、きたなっ」と私を罵った。あるいは彼女にそのつもりがなくても、その言葉は私を傷つけた。

 

 今の私なら、彼女に苦情を言いたてるだろう。「え?頭洗ってないって知った瞬間に『くさっ』って、なんなの?『くさっ』が先にくるなら分かるけど。『頭洗ってないの?くさっ!』はおかしいでしょ。だって、毎日頭洗ってないってわかるまでは『くさっ』って思ってなかったわけでしょ。それが、毎日頭洗ってないってわかった瞬間に『くさっ』なるのはおかしいじゃん。それに、臭いのも汚いのも仮に事実だったとして、臭ければ公衆の面前で人を侮辱してもいいとでも思っているわけ?なおみちゃんが清潔だから?清潔な人っていうのはそんなに偉いのかなあ。だいたいなおみちゃんは…」などと言い連ねて、小さななおみちゃんを責め立てることもできるだろう。

 でも、当時の私にそんな余裕はなかった。なおみちゃんの言葉にまっしろになった私は、その日から毎日髪を洗うと決めた。

 

 私の母は、いまでも一日おきに髪を洗っているようだ。たぶん、母がそうだったから私もそうだったのだと思う。昔はそれも当たり前だったというから、それは衛生観念の違いというよりも、むしろ世代における習慣の違いによるもののようにも思える。

 あのころの私やなおみちゃんは、ちょうど昭和と平成の狭間にいた。なおみちゃんは私よりちょっとだけ早く平成だったというだけだ。

 

 大人になると長風呂をしてしまうのは、こうやって思い出す過去がどんどん増えてくるからなのだろうか。

 「適正な入浴時間は10分前後」と入浴剤の説明書きには書かれているけれど、入浴剤の注意事項をちゃんと読むような大人になってから、その注意書きを守ったことがない。

 10分入浴するのと1時間入浴するのとで身体への影響にどんな違いがあるのかは分からないけれど、長風呂はよくないということは確かにわかってもいる。特に、湯沸かし機能のない我が家の風呂のような場所では――そう、こんなふうにすっかり湯が冷めてしまうから。

 

 入浴は戦いだ。何と戦っているのかって?わからない。強いて言うなら、だんだん冷えていくお湯と、少しでも長く湯に浸かっていたいと思う自分自身との戦いだ。

 長い間浸かっていると、お湯は少しずつ冷めていく。いったん湯が冷え始めると、そこから出るには何よりも強い強い意志が必要だ。お湯から出るのは、寒い。だから出たくない。しかし、ずっと浸かっていればお湯はますます冷めていく。外に出るタイミングを逃したまま、私の身体も一緒になって冷えていく。ああ、ゲームオーバー。今日も入浴に負けた。

 せっかく風呂であたたまったというのに、風呂から出るまでに冷えてしまった悲しい身体を引きずって浴槽の外に出る。わかっているのに。

 

 でも、いつの日か私が、まだあたたかいお湯を残してなんの未練もなく浴室を後にできる日がいつかやってくるのかと言うと、なんだか当面こない気がするし、きてほしくないような気もする。わかっている。わかっているのだけれど。今日も私は、入浴に負け続ける。
 

今週のお題「お風呂での過ごし方」