モリノスノザジ

 エッセイを書いています

街中のハミング

 それなりに大きくなるまでの間ずっと、鼻歌は自分にしか聞こえないものだと思いこんでいた。きっとだれに教わるでもなく自然にハミングを習得したものだから、他人がしているのを聞いたことがなかったのだろう。

 

 そんな勘違いもどうやら私だけではないらしく、以前いた職場では後輩がやたらと仕事中にハミングをしていた。それも電話で客にしこたま怒鳴られた後なんかにするものだから、私と同僚はそのたびに、ご機嫌な後輩を挟んで怪訝な表情で目を合わせるのだった。やはり彼も鼻歌は他人に聞こえるという事実を知らなかったらしく、仕事中のハミングを指摘されると恥ずかしそうに顔を赤らめていた。ちなみにクレーム電話の後にハミングをしていたのは、落ち込んだ気分を和らげるためらしい。

 

 そんなわけで鼻歌に関わる事実を知ってしまったいまでは、もう人前で鼻歌を歌うことができない。ハミングができるとしたら、たとえば飛び立つ飛行機のなか。トンネルにさしかかった電車のなか。いつもは煩わしい轟音がきょうは待ち遠しい。隣の人にはわからないようにたくさん息を吸って、鼻歌なのに喉が枯れそうなくらいおもいきり歌う。

 街中で私だけが知っている、私だけのハミング。
 

進路希望に書かない職業

 将来の夢を考えるひとつの材料にしましょう、と教師は言った。適職診断。「実は涙もろいほうだ」とか「あたらしいアイデアを考えるのは得意な方だ」だとか、そんな質問に100ばかり回答すると、電算システムによる処理を経て一か月後に「分析シート」が配られる。そこには、100の回答から読み解いた私の性格に得意分野、苦手分野、そしておすすめの職業が書かれていた。ちなみに、コンピューターがはじきだした私に最も適性のある業界は「オカルト」、向いている職業は「シャーマン」だった。…それって努力をすれば、ふつうの中学生がなれるものなのだろうか?

 

 けれども私は進路希望に「シャーマン」とは書かなかった。それはシャーマンという職業が、自分の身近にはいないという理由で特殊なほかの職業(映画監督とかパイロットとか)の特殊さを超えて、異次元的に特殊な職業のように思えたからだ。よく知らないけどシャーマンって、血筋?とか関係ありそうだし。だいたい、サラリーマン家庭の娘が舞妓入門するみたいな感じで、シャーマン文化に一切触れずに育ってきた子どもがシャーマンになるなんてことがありうるんだろうか?そもそもシャーマンって職業なのか?人の一生を左右するかもしれない診断、それも高校受験を控えた15歳が受ける診断だというのに、こんな診断結果を出すなんて何考えてるんだろう。シャーマンという職業に従事している人が現代の日本に実在するのか、それがどんな職業なのかはいまだにわからないけれど、とにかくあの頃の私にとって「シャーマン」という職業は、「将来の夢」を考えるにあたって候補にもなりえない職業だった。

 

 子どもたちにきいた将来の夢ベストテン、には入らないような職業はほかにもいっぱいある。というか、働く大人のうち「ベストテン」に入る職業に実際に就いている人なんていったい何割いるだろう。よのなかの大部分の人たちは、警察官でもなければ科学者でもなく、お花屋さんでもケーキ屋さんでもない職業に就いている。ひとつには、子どもたちが知っている「はたらく大人」は実際に働く大人たちのほんの一部でしかないからだ。子どもたちは建築家や行政書士やデザイナーになりたいとおもわないのではなく、そういった職業があることを知らないのだ。

 そしてもうひとつの理由は、私たちの社会は芸能人やプロサッカー選手みたいな華々しい職業とは程遠い、言ってしまえば地味な仕事、その圧倒的なつみかさなりで動いているという事実だ。そしてそういった、社会を支える地味な仕事は、決して進路希望に書かれることはない。シャーマンとは違って血筋や生まれは関係ない。どこにでも身近にいる職業なのに、レジ打ちやガスの検針員、清掃員や警備員が「将来の夢」として語られることはほとんどない。

 

 それらの職業が「将来の夢」にならないのは、それがだれにでもできる(と思われている)仕事だからかもしれない。プロ野球選手も医者もアイドルも、スポーツや容貌などなにかに関して他人に秀でた人でなければなれない職業だ。それに対して、スーパーのレジ打ちならたいそうな学力が必要なわけでもないし、たかが数百円で雇われたアルバイトにすぎない。だれにでもできる仕事にやりがいはあるのか?それを自分がやる意味はあるのか?

 

 あなたがその職業を選ぶ意味があるのかはわからないけれど、だれにでもできる仕事をだれかがやってくれている、というのはとても意味のあることだ。と思う。できるということと、やる、ということは違う。

 

 好きなゲーム実況者がいる。彼の何が好きかって、努力することに対してすごくひたむきなのだ。たとえば、最強武器をつくるために何週間も時間を費やしたりする。そして視聴者にそれを褒められると「時間をかければだれにでもできることですから」と言うのだ。

 たしかに「時間をかければだれにでもできる」。けれど、それだけの時間をかけて実際にそれをやる人がいったい何人いるだろうか?彼がすごいのは、時間をかければだれにでもできることを実際にやってしまうところだ。

 そしてそれと同じ。だれにでもできる仕事、というのはたしかにあるかもしれない。けれど、だれにでもできる仕事を実際に「やっている」というのはほんとうに意味のあることだ。そうした仕事を生業に社会を支えてくれている人たちは、だれにもできない仕事をやっている人と同じくらい尊敬されるべきだと思う。

 

 私は薬剤師にもサッカー選手にもなれなかった。ふつうの会社のふつうの会社員で、だれにでもできる仕事をしている。たったひとりの子どもの夢にもなりえない職業だ。だけど、だからなんだっていうのか?私は私にやれることをやっている。私がやらなければほかのだれかがやるだけだけれど、とにかく私は私で毎日はたらいている。それはそれで、肯定されるべきものじゃないか。

 

 去年の地震で北海道全域がブラックアウトしたとき。一日目は完全に日常生活が停止してしまっていた。いつもきれいな駅舎はごみで汚れ、店の棚はからっぽになった。いつもなら「だれかがやってくれている」その仕事をするひとがいなかったからだ。やがて人々は暗闇に怯えながらもそれぞれの役割に戻っていき、そうして日常はすこしずつもとどおりになった。

 私がやらないことをやってくれているだれかがいる。

 

やたらとカッコつけるマン

 自分が書いたメールを読みかえして、やれやれと思う。それは業務メールでも個人のメールでも同じ。なんならブログの文章だって気を抜くとそうだ。私はやたらと『(かっこ)』を使いすぎる。たとえばこんなふうに。

 

・ 明日の午後は〇〇で研修のため不在です(直帰します)。

・ 時間は15時で(いつものモニュメントの前)

・ 2巻持ってきて(1巻はうちにある)

・ 牛乳(大きいの)

・ 後ほど打ち合わせをお願いします(資料の印刷は不要です)。

 

 メールなんかはとくに、気を抜くと句点の前には8割がた『(かっこ)』がついている。よくない。気を付けていてもそうなのだから、もはや癖なのだと思う。ああもうどうしようもない。いっそのこと、『(かっこ)』つけて『(かっこ)』つけてもう二度と『(かっこ)』なんて使いたくないと思うくらいに『(かっこ)』つけてやろうか。

 

 『(かっこ)』を使いすぎるのがよくないのは、単純に見栄えが悪いからだ(いろんな意味で)。文末『(かっこ)』を連発することによって、こころもち文字のレイアウトが崩れる(そんな気がする)。括弧記号の前後のわずかな空白もなんだかまぬけ(連発するとさらにまぬけ)。デザイナーがついた書籍の文章であれば、そのあたりもうまく調整して目障りにならないようにするのだろうけれど、私のWordにデザイナーはいない(当然のことだが)。行末の句読点や英単語、『(かっこ)』を自動的に次の行へ送る機能も相まって、やたらと『(かっこ)』が多い文章は、文章全体のまとまりも阻害する(ひどいことばかりだ)。

 

 同じような話で、卒論を書いていたときには「註」をつけるのがたのしくてしかたがなかった(だれにでも少しは心当たりがあると思う)。文章の末尾にちっちゃな数字、章末にその内容を書く*1(←こういうの)。註をつけるだけでなんとなく大人になったような、立派な論文を書いているような気分になってたのしかった(実際はまったくそんなことはない)。

 そんな私と違って、註を使わないことをモットーにしている同期がいた(実際、彼のレポートを読んでも註はひとつもついていなかった)。彼曰く、必要なことなら註にせずに文章に盛り込めばよい(もっともだ)。不要なことなら註にすら書く必要はない(ううむ)。ゆえに、註は必要ないのだと言う(もっともすぎて苦しい)。

 

 『(かっこ)』にしても同じことだ。必要な情報ならば『(かっこ)』に入れずに地の文に放り込んでしまえばいいし、いらない情報なら削除してしまえばいい。文章を練らずに思いついたことから書けばいいのだから『(かっこ)』を使うのは簡単なことだ。けれど、『(かっこ)』をやたらと使う文章が読みづらくなるのは、かなしいことにこの文章でも証明されてしまっている。やたらと『(かっこ)』つけていても、それがカッコいいことにはならないのだ。 

 

 そういうわけでいいかんじに胸やけした。これからはもう『(かっこ)』つけない(できるだけ)。

*1:特に書くことはなかった

名探偵ピカチュウ

※映画『名探偵ピカチュウ』等に触れていますが、ネタバレはありません

 

 一時期ボリウッド映画にハマって、インドから取り寄せたDVDを英語でみたりもしていた。インド映画の好きなところは、ストーリーの筋がまっすぐで安心できる結末が待っていること、大人数で繰り広げる華やかなダンス、はっきりとした顔立ちのうつくしい俳優たち。最近は扱うテーマや魅せ方にも幅が出てきて一概に「インド映画」という言葉でくくることはできないのかもしれないけれど、私はあのときのインド映画の、単純でB級っぽい感じが好きだった。

 とりわけ好きだったのは、CGを使ったシーン。どうみたってバレバレなCG合成でムチャクチャなアクションをやってのける。画面のなかで繰り広げられるあまりにもシュールな光景に、スタッフはやけくそになったのか?と心配になるほど。やけくそというよりも、CGという新しいおもちゃで遊ぶのがたのしくて仕方がないみたいにも思える。昨年話題になった『バーフバリ』でも、主人公:バーフバリが知恵と勇気で劣勢を切り抜けるここぞという場面でプチシュールなCGが用いられていて、私はこっそりとうれしくなった。

 

 映画といえば先日『名探偵ピカチュウ』をみた。実写化されたポケモンたちの容貌についてあれほど話題になっていたにも関わらず、実際に公開されてからの評判を耳にしない。そのことをふしぎに思っていたのだけれど、実際に見てみると謎が解けた。あの映画の新しさは「ポケモンの実写化」という一点に凝縮されていたのだとわかったのだ。全体として破綻なく収まってはいるものの、ストーリーに関してはとりわけ展開に驚くようなものではない。なるほど公開後にとりたててうわさが聞こえてこないわけだとひとり納得する。

 

 CGアニメーション映画の先駆けとなったピクサーの『トイストーリー』でおもちゃが、『バグズ・ライフ』で虫が物語の主人公となったのは、おもちゃや虫のつるつるとした質感がCGで表現するのに向いていたためだと言われる。その後は『モンスターズ・インク』や『ペット』など毛の生えた生き物が物語に登場することもあるけれど、それはあくまでもアニメーションのキャラクター。生身の人間、実写の街と合成して「あたかも現実にいるかのように」表現することに成功したのが『名探偵ピカチュウ』のあたらしかったところなのだろう。

 一方で、ストーリーにはなんとなくまだ納得できない部分があって、あのストーリーを、あのお手本のようにどこにでもあるストーリーにポケモンという素材を当てはめる必要性はあったのか?と思ってしまう。たぶん『名探偵ピカチュウ』がやりたかったのは「CGを使ってポケモンがいる世界を表現する」ことだったのだろう。そしてそれは「ポケモンの世界を表現する」こととは似ているようでちょっと違う。

 いやいやあの映画の筋書きやメッセージはオリジナルのポケモンと同じベクトルだよ!と言われれば、それは私の考え違いなのかもしれないけれど。

 

 そんなことを考えながら本を読んでいて、偶然、海外と日本とのゲーム文化の違いについて触れられている文章に出くわした。

  ゲームデザインについて言えば、日本のゲームが「コンセプトドリブン」であるのに対して、海外のゲームは「テクノロジードリブン」であるというのは、よく言われる話ですね。要は、技術が先にあって、それをどう使おうかという発想で考えるんです。

 例えば、欧米では「ノンリニア破壊」の技術が生まれて、そこからFPSで撃った玉や打ち上げた爆弾だとかでリアルな描写が生まれていきました。それに対して、日本のゲームには基本的に、この技術は使われていません。使われている少ない事例の一つが、『メタルギアライジングリベンジェンス』ですね。…(中略』… 先に「一刀両断」というコンセプトがある。だから、粉々に飛び散らせるのではなくて、綺麗に真っ二つに切れるようにしたい。そのコンセプトの実現のためにこそ、我々はピンポイントで技術を使っていくんです。 

 インド映画のシュールなCGを見ていて、まるであたらしいおもちゃで遊ぶのがたのしくてたまらないみたいだって感じたのを思い出す。『名探偵ピカチュウ』もまた、進化したCG技術をとにかく使うこと、それも第一に据えてつくられた『テクノロジードリブン』の映画なのではないかと感じた。

 

 ちなみに引用したのは電ファミニコゲーマー編集部『ゲームの企画書①』第1章、遠藤雅伸氏と田尻智氏、杉森建氏の対談の一部(引用部分は遠藤氏の発言)。日本のゲームづくりにはまず「コンセプト」がある、と話す田尻氏は、『ポケットモンスター』シリーズの生みの親である。  

ゲームの企画書(1) どんな子供でも遊べなければならない (角川新書)

ゲームの企画書(1) どんな子供でも遊べなければならない (角川新書)

 

 

平成の苺大福

 ガチャガチャを見かけるとついつい引き寄せられてしまう。いまでは多くのマシンで価格が200円、なかには300円や500円に設定されているけれど、昔は100円のものがほとんどだった。小学生のころ、ゲームショップや本屋の店頭に置かれたガチャガチャになけなしの百円玉を差し込んで、どきどきしながらレバーをまわしたことを覚えている。そのわりにガチャガチャを引いて手に入れたはずのグッズのことはちっとも思い出せなくて、それは、私がガチャガチャの商品よりもガチャガチャそれ自体に惹かれていたことを示しているのかもしれない。なにが出てくるかわからないどきどき感、レバーをまわすときのすこし引っかかるような手触り、音。どうしてもほしくてたまらないトイなんてなくても、ガチャガチャはそれだけで魅力的だ。

 

 そういうわけでいまでもガチャガチャを見かけるとついまじまじと見てしまう。寿司ネタを模した形のキーホルダー、猫用の帽子、恐竜のフィギュア。あいかわらず、誰が買うんだかちっとも見当がつかないような商品ばかりのラインナップだ。そう言いながら私もときどきは財布から百円玉を取り出していそいそと投入口へ差し込むのであって、まあどこかしらに需要はあるのだろう。

 

 そんなことを考えながら今日も買い物帰りにマシンをチェックすると、新しいマシンが入荷されていた。その名も「おくすり袋ポーチ」。ガチャガチャによくあるペラペラのポーチで、表面には病院で処方される薬袋を模したデザインが印刷されている。病院の薬袋同様、氏名や服用のタイミングを記入する欄だってある。おまけにどうやら人気商品らしく、『再入荷しました』のPOPまでついている。

 困惑した。もちろんジョークグッズなのだろう。「指定ごみぶくろポーチ」とか「ばんそうこうマグネット」みたいなジョークグッズを面白がって購入するような、箸が転がってもおかしい年ごろを対象とした商品なのだろう。だが私の脳裏には、リアルに薬の管理を必要とする世代がこのガチャガチャをまわす光景がちらついてどうしようもなかった。幼いころからガチャガチャに親しんできた世代も、とうとうそんな年ごろになる時代か。これからは「ちいさい文字がよく見えるルーペ」とか「昭和のなつかしマスコット」がカプセルに納まるようになるのか。ちいさなカプセルトイに時代の流れを垣間見たような感じがした。

 

 変わったと言えば苺大福もそうだ。苺が露出している形の苺大福を私が初めて見たのは10年くらい前だったと思う。表面にぱっくりとあいた切れ目に苺が挟まっている。トッピングされた黒ゴマは瞳のようで、まるで丸い形のキャラクターが苺にかぶりついているような姿がかわいらしかった。当時はごくわずかな店しかそういった形の苺大福を製造していなかったのだけれど、今となってはいろいろなお店で売られている。こういう変化って、SNSの発達とか、それこそ「インスタ映え」みたいな文化が生まれたことが影響しているんだろうか。苺が牛皮と餡に包まれた、あの苺大福を、平成の苺大福と呼ぶ日がいつか来るのかもしれない。