モリノスノザジ

 エッセイを書いています

進路希望に書かない職業

 将来の夢を考えるひとつの材料にしましょう、と教師は言った。適職診断。「実は涙もろいほうだ」とか「あたらしいアイデアを考えるのは得意な方だ」だとか、そんな質問に100ばかり回答すると、電算システムによる処理を経て一か月後に「分析シート」が配られる。そこには、100の回答から読み解いた私の性格に得意分野、苦手分野、そしておすすめの職業が書かれていた。ちなみに、コンピューターがはじきだした私に最も適性のある業界は「オカルト」、向いている職業は「シャーマン」だった。…それって努力をすれば、ふつうの中学生がなれるものなのだろうか?

 

 けれども私は進路希望に「シャーマン」とは書かなかった。それはシャーマンという職業が、自分の身近にはいないという理由で特殊なほかの職業(映画監督とかパイロットとか)の特殊さを超えて、異次元的に特殊な職業のように思えたからだ。よく知らないけどシャーマンって、血筋?とか関係ありそうだし。だいたい、サラリーマン家庭の娘が舞妓入門するみたいな感じで、シャーマン文化に一切触れずに育ってきた子どもがシャーマンになるなんてことがありうるんだろうか?そもそもシャーマンって職業なのか?人の一生を左右するかもしれない診断、それも高校受験を控えた15歳が受ける診断だというのに、こんな診断結果を出すなんて何考えてるんだろう。シャーマンという職業に従事している人が現代の日本に実在するのか、それがどんな職業なのかはいまだにわからないけれど、とにかくあの頃の私にとって「シャーマン」という職業は、「将来の夢」を考えるにあたって候補にもなりえない職業だった。

 

 子どもたちにきいた将来の夢ベストテン、には入らないような職業はほかにもいっぱいある。というか、働く大人のうち「ベストテン」に入る職業に実際に就いている人なんていったい何割いるだろう。よのなかの大部分の人たちは、警察官でもなければ科学者でもなく、お花屋さんでもケーキ屋さんでもない職業に就いている。ひとつには、子どもたちが知っている「はたらく大人」は実際に働く大人たちのほんの一部でしかないからだ。子どもたちは建築家や行政書士やデザイナーになりたいとおもわないのではなく、そういった職業があることを知らないのだ。

 そしてもうひとつの理由は、私たちの社会は芸能人やプロサッカー選手みたいな華々しい職業とは程遠い、言ってしまえば地味な仕事、その圧倒的なつみかさなりで動いているという事実だ。そしてそういった、社会を支える地味な仕事は、決して進路希望に書かれることはない。シャーマンとは違って血筋や生まれは関係ない。どこにでも身近にいる職業なのに、レジ打ちやガスの検針員、清掃員や警備員が「将来の夢」として語られることはほとんどない。

 

 それらの職業が「将来の夢」にならないのは、それがだれにでもできる(と思われている)仕事だからかもしれない。プロ野球選手も医者もアイドルも、スポーツや容貌などなにかに関して他人に秀でた人でなければなれない職業だ。それに対して、スーパーのレジ打ちならたいそうな学力が必要なわけでもないし、たかが数百円で雇われたアルバイトにすぎない。だれにでもできる仕事にやりがいはあるのか?それを自分がやる意味はあるのか?

 

 あなたがその職業を選ぶ意味があるのかはわからないけれど、だれにでもできる仕事をだれかがやってくれている、というのはとても意味のあることだ。と思う。できるということと、やる、ということは違う。

 

 好きなゲーム実況者がいる。彼の何が好きかって、努力することに対してすごくひたむきなのだ。たとえば、最強武器をつくるために何週間も時間を費やしたりする。そして視聴者にそれを褒められると「時間をかければだれにでもできることですから」と言うのだ。

 たしかに「時間をかければだれにでもできる」。けれど、それだけの時間をかけて実際にそれをやる人がいったい何人いるだろうか?彼がすごいのは、時間をかければだれにでもできることを実際にやってしまうところだ。

 そしてそれと同じ。だれにでもできる仕事、というのはたしかにあるかもしれない。けれど、だれにでもできる仕事を実際に「やっている」というのはほんとうに意味のあることだ。そうした仕事を生業に社会を支えてくれている人たちは、だれにもできない仕事をやっている人と同じくらい尊敬されるべきだと思う。

 

 私は薬剤師にもサッカー選手にもなれなかった。ふつうの会社のふつうの会社員で、だれにでもできる仕事をしている。たったひとりの子どもの夢にもなりえない職業だ。だけど、だからなんだっていうのか?私は私にやれることをやっている。私がやらなければほかのだれかがやるだけだけれど、とにかく私は私で毎日はたらいている。それはそれで、肯定されるべきものじゃないか。

 

 去年の地震で北海道全域がブラックアウトしたとき。一日目は完全に日常生活が停止してしまっていた。いつもきれいな駅舎はごみで汚れ、店の棚はからっぽになった。いつもなら「だれかがやってくれている」その仕事をするひとがいなかったからだ。やがて人々は暗闇に怯えながらもそれぞれの役割に戻っていき、そうして日常はすこしずつもとどおりになった。

 私がやらないことをやってくれているだれかがいる。