モリノスノザジ

 エッセイを書いています

やたらとカッコつけるマン

 自分が書いたメールを読みかえして、やれやれと思う。それは業務メールでも個人のメールでも同じ。なんならブログの文章だって気を抜くとそうだ。私はやたらと『(かっこ)』を使いすぎる。たとえばこんなふうに。

 

・ 明日の午後は〇〇で研修のため不在です(直帰します)。

・ 時間は15時で(いつものモニュメントの前)

・ 2巻持ってきて(1巻はうちにある)

・ 牛乳(大きいの)

・ 後ほど打ち合わせをお願いします(資料の印刷は不要です)。

 

 メールなんかはとくに、気を抜くと句点の前には8割がた『(かっこ)』がついている。よくない。気を付けていてもそうなのだから、もはや癖なのだと思う。ああもうどうしようもない。いっそのこと、『(かっこ)』つけて『(かっこ)』つけてもう二度と『(かっこ)』なんて使いたくないと思うくらいに『(かっこ)』つけてやろうか。

 

 『(かっこ)』を使いすぎるのがよくないのは、単純に見栄えが悪いからだ(いろんな意味で)。文末『(かっこ)』を連発することによって、こころもち文字のレイアウトが崩れる(そんな気がする)。括弧記号の前後のわずかな空白もなんだかまぬけ(連発するとさらにまぬけ)。デザイナーがついた書籍の文章であれば、そのあたりもうまく調整して目障りにならないようにするのだろうけれど、私のWordにデザイナーはいない(当然のことだが)。行末の句読点や英単語、『(かっこ)』を自動的に次の行へ送る機能も相まって、やたらと『(かっこ)』が多い文章は、文章全体のまとまりも阻害する(ひどいことばかりだ)。

 

 同じような話で、卒論を書いていたときには「註」をつけるのがたのしくてしかたがなかった(だれにでも少しは心当たりがあると思う)。文章の末尾にちっちゃな数字、章末にその内容を書く*1(←こういうの)。註をつけるだけでなんとなく大人になったような、立派な論文を書いているような気分になってたのしかった(実際はまったくそんなことはない)。

 そんな私と違って、註を使わないことをモットーにしている同期がいた(実際、彼のレポートを読んでも註はひとつもついていなかった)。彼曰く、必要なことなら註にせずに文章に盛り込めばよい(もっともだ)。不要なことなら註にすら書く必要はない(ううむ)。ゆえに、註は必要ないのだと言う(もっともすぎて苦しい)。

 

 『(かっこ)』にしても同じことだ。必要な情報ならば『(かっこ)』に入れずに地の文に放り込んでしまえばいいし、いらない情報なら削除してしまえばいい。文章を練らずに思いついたことから書けばいいのだから『(かっこ)』を使うのは簡単なことだ。けれど、『(かっこ)』をやたらと使う文章が読みづらくなるのは、かなしいことにこの文章でも証明されてしまっている。やたらと『(かっこ)』つけていても、それがカッコいいことにはならないのだ。 

 

 そういうわけでいいかんじに胸やけした。これからはもう『(かっこ)』つけない(できるだけ)。

*1:特に書くことはなかった