モリノスノザジ

 エッセイを書いています

街中のハミング

 それなりに大きくなるまでの間ずっと、鼻歌は自分にしか聞こえないものだと思いこんでいた。きっとだれに教わるでもなく自然にハミングを習得したものだから、他人がしているのを聞いたことがなかったのだろう。

 

 そんな勘違いもどうやら私だけではないらしく、以前いた職場では後輩がやたらと仕事中にハミングをしていた。それも電話で客にしこたま怒鳴られた後なんかにするものだから、私と同僚はそのたびに、ご機嫌な後輩を挟んで怪訝な表情で目を合わせるのだった。やはり彼も鼻歌は他人に聞こえるという事実を知らなかったらしく、仕事中のハミングを指摘されると恥ずかしそうに顔を赤らめていた。ちなみにクレーム電話の後にハミングをしていたのは、落ち込んだ気分を和らげるためらしい。

 

 そんなわけで鼻歌に関わる事実を知ってしまったいまでは、もう人前で鼻歌を歌うことができない。ハミングができるとしたら、たとえば飛び立つ飛行機のなか。トンネルにさしかかった電車のなか。いつもは煩わしい轟音がきょうは待ち遠しい。隣の人にはわからないようにたくさん息を吸って、鼻歌なのに喉が枯れそうなくらいおもいきり歌う。

 街中で私だけが知っている、私だけのハミング。