モリノスノザジ

 エッセイを書いています

名探偵ピカチュウ

※映画『名探偵ピカチュウ』等に触れていますが、ネタバレはありません

 

 一時期ボリウッド映画にハマって、インドから取り寄せたDVDを英語でみたりもしていた。インド映画の好きなところは、ストーリーの筋がまっすぐで安心できる結末が待っていること、大人数で繰り広げる華やかなダンス、はっきりとした顔立ちのうつくしい俳優たち。最近は扱うテーマや魅せ方にも幅が出てきて一概に「インド映画」という言葉でくくることはできないのかもしれないけれど、私はあのときのインド映画の、単純でB級っぽい感じが好きだった。

 とりわけ好きだったのは、CGを使ったシーン。どうみたってバレバレなCG合成でムチャクチャなアクションをやってのける。画面のなかで繰り広げられるあまりにもシュールな光景に、スタッフはやけくそになったのか?と心配になるほど。やけくそというよりも、CGという新しいおもちゃで遊ぶのがたのしくて仕方がないみたいにも思える。昨年話題になった『バーフバリ』でも、主人公:バーフバリが知恵と勇気で劣勢を切り抜けるここぞという場面でプチシュールなCGが用いられていて、私はこっそりとうれしくなった。

 

 映画といえば先日『名探偵ピカチュウ』をみた。実写化されたポケモンたちの容貌についてあれほど話題になっていたにも関わらず、実際に公開されてからの評判を耳にしない。そのことをふしぎに思っていたのだけれど、実際に見てみると謎が解けた。あの映画の新しさは「ポケモンの実写化」という一点に凝縮されていたのだとわかったのだ。全体として破綻なく収まってはいるものの、ストーリーに関してはとりわけ展開に驚くようなものではない。なるほど公開後にとりたててうわさが聞こえてこないわけだとひとり納得する。

 

 CGアニメーション映画の先駆けとなったピクサーの『トイストーリー』でおもちゃが、『バグズ・ライフ』で虫が物語の主人公となったのは、おもちゃや虫のつるつるとした質感がCGで表現するのに向いていたためだと言われる。その後は『モンスターズ・インク』や『ペット』など毛の生えた生き物が物語に登場することもあるけれど、それはあくまでもアニメーションのキャラクター。生身の人間、実写の街と合成して「あたかも現実にいるかのように」表現することに成功したのが『名探偵ピカチュウ』のあたらしかったところなのだろう。

 一方で、ストーリーにはなんとなくまだ納得できない部分があって、あのストーリーを、あのお手本のようにどこにでもあるストーリーにポケモンという素材を当てはめる必要性はあったのか?と思ってしまう。たぶん『名探偵ピカチュウ』がやりたかったのは「CGを使ってポケモンがいる世界を表現する」ことだったのだろう。そしてそれは「ポケモンの世界を表現する」こととは似ているようでちょっと違う。

 いやいやあの映画の筋書きやメッセージはオリジナルのポケモンと同じベクトルだよ!と言われれば、それは私の考え違いなのかもしれないけれど。

 

 そんなことを考えながら本を読んでいて、偶然、海外と日本とのゲーム文化の違いについて触れられている文章に出くわした。

  ゲームデザインについて言えば、日本のゲームが「コンセプトドリブン」であるのに対して、海外のゲームは「テクノロジードリブン」であるというのは、よく言われる話ですね。要は、技術が先にあって、それをどう使おうかという発想で考えるんです。

 例えば、欧米では「ノンリニア破壊」の技術が生まれて、そこからFPSで撃った玉や打ち上げた爆弾だとかでリアルな描写が生まれていきました。それに対して、日本のゲームには基本的に、この技術は使われていません。使われている少ない事例の一つが、『メタルギアライジングリベンジェンス』ですね。…(中略』… 先に「一刀両断」というコンセプトがある。だから、粉々に飛び散らせるのではなくて、綺麗に真っ二つに切れるようにしたい。そのコンセプトの実現のためにこそ、我々はピンポイントで技術を使っていくんです。 

 インド映画のシュールなCGを見ていて、まるであたらしいおもちゃで遊ぶのがたのしくてたまらないみたいだって感じたのを思い出す。『名探偵ピカチュウ』もまた、進化したCG技術をとにかく使うこと、それも第一に据えてつくられた『テクノロジードリブン』の映画なのではないかと感じた。

 

 ちなみに引用したのは電ファミニコゲーマー編集部『ゲームの企画書①』第1章、遠藤雅伸氏と田尻智氏、杉森建氏の対談の一部(引用部分は遠藤氏の発言)。日本のゲームづくりにはまず「コンセプト」がある、と話す田尻氏は、『ポケットモンスター』シリーズの生みの親である。  

ゲームの企画書(1) どんな子供でも遊べなければならない (角川新書)

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