モリノスノザジ

 エッセイを書いています

和服はチャンス

 ごみ袋みたいになで肩のシルエットをしたステンカラーコートを買った。そんなのがほしかったのだ。そのステンカラーコートが手触りまでもつるつるとごみ袋風であったので、すこしためらったけれど、15分ほど悩んで結局買った。家で袖を通してみると思った通りの着心地。今日はあたたかかったので外で着られた。春。たのしい。
 タイトなシルエットの服が苦手な私にとって、ここ数年のゆったりブームはとてもありがたい。首の太さとか肩の厚さのような身体のサイズをそこまで気にしなくてもいいし、体形も隠してくれる。ドロップショルダーのトップスやワイドパンツが永遠であってくれればいいのにと思う。

 

 男女ともに「リラックス」とか「ビッグシルエット」がトレンドの世の中で、女子に至ってはまるで着物に逆戻りしたかのような印象を受けることもある。ワイドパンツは大正時代の女学生が履く袴のようなシルエットだし、ラップスカートは着物そのもの。ロングカーディガンは道行や羽織とほぼ同じと言っても過言ではない。アウターも大きめサイズをあえてゆったり肩にかけ、首筋を見せるコーディネートがトレンドのようだ。大胆に覗く女性のしろい首筋は、着物の襟を抜いた花魁姿を連想させる。

 そういうわけで、このリラックスブームがどうにかして和服再興の糸口になったりはしないものだろうか。そもそも着物は、一枚が十年、何十年と長い期間にわたって大切に着られてきた。サイズが合わなければ糸を抜いて仕立て直し、身体に合わせて着付けをする。大きくなった子供に母親の着物が引き継がれ、また長い時間をかけて大事に着られていく。着物のそんな性格は、またたくまにトレンドが変わり、古いデザインの服がどんどん捨てられていく現代には合わないのかもしれない。けれど、トレンドがどうあろうと着物を好きな人は存在するし、ブランド服にたくさんのお金を費やす人がいることを考えれば、着物の値段だけが問題なのではない。和服が現代の日本で日常的に着られるようになるための手がかりは、洋風化した「現代の日常」に和服がどう溶け込んでいくかだと思う。

 

 そう考えたときに、和服に限りなくシルエットが近い今のリラックスコーデブームは、和服文化や和服を着たいと思っている人にとって空前のチャンスだ。ワイドパンツに羽織、着物風重ねトップス。アリでは?

やりたいことはなんでもやる部

 『ボヘミアン・ラプソディ』を観たあとの気分は、なんだか焦りだった。上澄みなのだと思う。たった45歳で亡くなったといってもそれは120分の映画に詰め込むには長すぎる人生で、だから映画は彼が生きてきた人生の一部でしかないし、商品としてデザインされた上澄みでしかない。

 意味のあることと意味のないことの両方が起きるのは、きっと彼の人生も同じだった。けれど映画のなかではすべてが意味を持つ。だれかのささいなしぐさのひとつも、できごと、身につけるもの。会話。すべてがひとつの点に向かっていくよう、意味と場所を与えられている。結果的に映画で描かれる彼の人生は、意味のあるもの・ことばかりで満たされていて、最初から最後までメインディッシュしか出てこないコースみたいに濃厚だ。批判をしているわけじゃない。誰かの人生を、無意味なことも含めてすべて再現しようと思えば、その人生と同じだけの時間を費やす必要がある。それができないのなら情報を取捨選択しなければならないし、そうすれば結果的に無駄なエピソードは省いていかざるを得ない。

 だからこの手の映画を観ると、なんだか焦る。フレディ・マーキュリーが45年間の人生をかけて成し遂げたことは2時間の映画に凝縮されていて、そんなにも濃い人生を追体験して戻ってきた自分の人生はまるで味のないスープだ。毎日が無意味なことばかりで過ぎていく。それは確かなことで、そして同じように確かなことは、何もしない今日を重ねていくだけの人生に掬い取る上澄みなんてうまれやしないということだ。だから私は『ボヘミアン・ラプソディ』を観てなんだか焦った。同時に、やりたいことは全部やらないと、という確信のようなものが芽生えるのを感じた。行動しなければ、人生なんて2時間の映画みたいにあっという間に終わってしまう。「生まれ変わったら〇〇したい」?この映画に続編は約束されていないんだ。やりたいことは全部、やらなきゃ。

 そういうわけで、やりたいことは全部やることにした。と言っていても「やるぞ」と思っているだけでは何もはじまらない。先週の月曜日から毎日30分、仕事帰りに勉強をしてから帰る。部活だ。実際のところ残業や飲み会があるので毎日というわけにはいかないけれど、図書館で調べ物をしたり、本屋で読んだことのない種類の本を読んでみたり。そんなことなんの意味があるのって思うかもしれないけれど、なんとなくどこかでつながっているんじゃないかな。何をしたってけっきょくは私一人の人生なのだから。あるいはつくりものの映画とは違って、表面的にはつながりのないように見えるあれこれが現実の人生をかたちづくっているのだとすれば、やっぱりどこかで、あのときは無意味に思えたあの経験もやっぱり「私」の人生の一部なんだって感じるときがくるんじゃないか。

 今はやりたいことやつくりたいものがあって、しかしそれとはあまり関係なく、気が付いたらロゴやなんかに夢中になっている。当初の予定からずれていたってなんでもありなのが、この「やりたいことはなんでもやる部」のいいところだ。おもしろいことは全部やりたい。そのうえで、おもしろいモノをつくれたらいいなと思うし、ここやTwitterでそれについて話すことができたらいいなと思っている。いや、できたらいいなじゃなくて「やろう」。なんてったって、やりたいことはなんでも「やる」部、だ。
 

PS:きょうはさぼった。

お風呂にする?お風呂にする?お風呂にする?

 大家族の入浴は大変だ。一人が入浴するのに30分かかると仮定して、7人全員がお風呂に入るためには3時間半かかる。途中の人は、最後までお湯が冷めたり減ったりしないよう気をつけなければならないし、長風呂なんてしていたら怒られてしまう。脱衣も迅速に。下着姿のまま、バスマットのうえでゆっくり肌の手入れをするなんてもってのほかだ。こんな大家族の前では昭和の家庭にありがちな「父親が一番風呂」なんてルールは機能しない。とにかく入れる人が・入れるうちに入浴しなければならない。

 そんなわけで、7人家族の「子ども」だった私が入浴するのは、大人たちが帰宅する前、夕方の時間帯だった。学校から帰って部屋にカバンを置いたらすぐに「いまのうちにお風呂入ってよー」という母の声。お風呂場の窓から差し込む光が湯気でぼやける。タイミングの問題上子ども向けTV番組が見られないのが残念だったけれど、夜にならないうちからお風呂に入ることはそんなに嫌いじゃなかった。

 子どもの頃に身に着いた習慣は一生残るってほんとうなんだろうなあ。今でも帰宅して最初にするのは入浴だ。お風呂はご飯の前がいいとか後がいいとか。所説あるけれど、そんな問題は別にしてとにかくお風呂が最初なのだ。お風呂にする?お風呂にする?お風呂にする?なのだ。それ以外の選択肢を選ぶ日は基本的にない。

 休日はまだ明るい時間から入浴する。だいたい17時くらいなのだけれど、外出の予定がなければもっと早くてもいい。なんだか最近どんどん時間が入っているような気がする。一番好きなのは、ゆっくりと湯舟につかったあと、パジャマで3時のお風呂を食べることだ。なんとなく「お風呂」というイベントは食事や就寝と同じくらいに生活の区切れになるような気がしていて、だらだらとした休日の午後の切れ目を少しずらしてやるのも悪くな…

あ。

お風呂が沸いたみたいだ。

妖精ミズクラシ

 妖精ミズクラシは民家の天井に棲み、夜になると子どものような足音を立てて走り回る。このとき、水気のない天井であるにもかかわらず、ちゃぷちゃぷ・じゃぶじゃぶといった水音が聞こえることから「ミズクラシ」と呼ばれている。水音とともにちいさなはしゃぎ声を聞いたという報告が年に数件寄せられているものの、一般的にはミズクラシが家の住人の前に姿を現したり、会話をすることはないものと考えられている。

 天井に棲みついて水音や騒ぎ声を立てる妖精は九州から東北地方にかけてひろく民話が残っており、東北地方の一部では、ミズクラシが棲みついた家には幸福が訪れると信じられている。

 

 妖精ミズクラシ。なんじゃないかなあと思うくらい、とにかく始終、上の部屋の人がじゃぶじゃぶ音を立てている。妖精ミズクラシは私が考えた妖精だ。とにかく朝から晩までちゃぷちゃぷ音を立てている406号室のことを考えながら生んだ妖精だ。406号室は妖精ミズクラシなのだ。

 築年数が古いアパートなので、406号室と同時にトイレに入ると怒涛の勢いで水が流れる音を聞くことになる。やたらと406号室とトイレのタイミングが合うものだから、その水音を聞くたびに心のなかで苦笑するのだけれど、どうやら聞こえるのはトイレだけではない。風呂に入れば風呂の音。キッチンに立てば米を洗う音。それならまだ理解できる。水気のない洋室でベッドに入っていても、真上からちゃぷちゃぷと音がする。と書きつつ今も頭の上から絶えず水音が聞こえている。

 こんなにあちこちで、しかも四六時中水音が聞こえてくるなんて異常ではないか。はじめは、天井に配水管が通っていて水が流れる音が聞こえるのだとか。シンクで米を洗う音が金属で増幅されて聞こえるのだとか。常識的に説明できそうな範囲で理由を考えてみたのだけれど、こうもずっと水音を聞かされるととてもそんな説明では納得できない。足音だってちゃぷちゃぷしているのだ。そう。だから。406号室は妖精ミズクラシに違いない。

 

 住んでいるアパートで上下左右の顔すら私は、朝の出勤のタイミングがほかの住人と重なるとちょっと緊張してしまう。余裕のあるときは、気配がなくなるまで玄関の前で息をひそめていたりもする。そんななか、ある日のこと。ぱんぱんにふくれたスーパーの買い物袋を手に、なかなか家の家の鍵が見つからず、扉の前であたふたしていると、406号室の扉が開いて、鍵のかかる音。それから、誰かが階段を降りてくる音がした。階段から踊り場に差し掛かって、足音のペースがすこし変わる。また階段。一段。二段。すこしずつ降りてくる。そして、「こんにちは」とあいさつの主を見てみると、そこにいたのはすこぶる普通のサラリーマンだった。

座右の銘は、きみにきめた。

 それなりに、ばたばたした一週間だった。仕事の分量とか残業時間数といったような問題とは別に、仕事にさしせまった期限があるという事実に精神的に追い詰められていた感じがする。この一週間を乗り切れたのはあきらかに周囲のサポートがあったからで、さりげなく気をまわして書類を持ちまわってくれた先輩や、本来無関係なのに協力してくれた他部署の方々の優しさをひしひしと感じた一週間だった。

 

 そんなこんなで気持ちぐったりで帰宅してブログを回遊していると、仕事に取り組むうえでの心構えとして「正確・迅速・丁寧」について書かれている記事があった。そこでは「正確」・「迅速」・「丁寧」ひとつひとつの意義について説明したうえで、これらみっつは「正確>迅速>丁寧」の順に重要だと解説する。いましがたググってみたところ、同じような言葉がほかのブログで取り上げられていたり、銀行のキャッチフレーズとしてつかわれていることがわかった。私がこの言葉(と説明)を知ったのは今回が初めてだったけれど、社会で働く人にとってはあたりまえな言葉なのかもしれない。

 普段なら、よくある『役に立つ』ブログにありがちな解説記事だとスルーしていたかもしれない。でも、先週の私は年度末のばたつきのなかでポロポロとミスを繰り返していたのでなんとなくその記事が気になって、結局その記事を最後まで読んだのだった。

 

 先週はひどくミスを連発していた。私はひとつミスをすると、焦ってミスを重ねる傾向にある。それも、ふたつめみっつめのミスは自分でもどうしたらそんなことになるのか想像もつかないようなミラクルなミスである。ミスをして動揺するのは仕方のないことだし、間違いを見つけたあと時間に追われながら対処するにあたって焦りの気持ちが生まれるのもやむを得ないことだ。ミスった後の動揺がどううにもできないものなのであれば、ミスの悪循環を防ぐにはとにかく最初のミスが起こることを防ぐしかない。うっかりミスを繰り返して気疲れするなか、あらためて仕事に対する心構えを正そうと思ったときに思い出したのが、何日か前にどこかのブログで読んだ「正確・迅速・丁寧」の言葉だった。

 

 自己紹介で座右の銘を話させられるのが嫌だった。だいたいみんな、どうして一つの言葉にそれほどつよい思い入れを持てるのだろう?私には、心から尊敬する教師にかけられた忘れられない言葉もなければ、残業終わりに連れていかれた焼き鳥屋で先輩写真が語ってくれた言葉もない。これまでの人生のなかで、ひとつだけ選びだして心のよりどころにするような言葉には出会ってこなかった。だから不思議だった。どうしてみんな、座右の銘と言えるような思い入れのある言葉を持っているのだろう?

 「座右の銘」に対して警戒してしまう理由はもう一つある。それは、どんな言葉を座右の銘に選ぶかによって、自分という人間が測られているようにみえるからだ。多くの人は、誰かが好きな言葉とか座右の銘として選ぶ言葉にはその人らしさが現れていると思っているんじゃないだろうか。座右の銘を「一生懸命」とするからにはひたむきな努力家なのだろうと考えるし、「有言実行」と言えば行動的で信用の高い人物なのだろうと考える。選んだ言葉によって自分自身が丸裸にされるような恐怖。だから、多少思い入れのある言葉だからといって安易に座右の銘にしてはいけないのだ。

 

 そんなこんなで座右の銘を持たずに生きてきた私だけれど、まあ、いいか、という気分にもなってきて。それ以上にここ一週間のミスの沼と、そこからもたらされる自己嫌悪とがひどかったものだから、とうとう座右の銘を持つことにした。もちろん選ぶ言葉は「正確・迅速・丁寧」だ。

 今の自分は「正確」「迅速」「丁寧」のすべてが常にできているわけではない。だからこの言葉を座右の銘としてたからかに表明するのはすこし恥ずかしいような気もする。けど、改めて『座右の銘』という言葉を辞書でひいてみて、それも無意味な心配かもしれないと感じた。座右の銘、とは「いつも身辺において日常の戒めとする言葉」。今の自分には容易にできないことだからこそ、座右の銘が必要なのだ。