モリノスノザジ

 エッセイを書いています

やりたいことはなんでもやる部

 『ボヘミアン・ラプソディ』を観たあとの気分は、なんだか焦りだった。上澄みなのだと思う。たった45歳で亡くなったといってもそれは120分の映画に詰め込むには長すぎる人生で、だから映画は彼が生きてきた人生の一部でしかないし、商品としてデザインされた上澄みでしかない。

 意味のあることと意味のないことの両方が起きるのは、きっと彼の人生も同じだった。けれど映画のなかではすべてが意味を持つ。だれかのささいなしぐさのひとつも、できごと、身につけるもの。会話。すべてがひとつの点に向かっていくよう、意味と場所を与えられている。結果的に映画で描かれる彼の人生は、意味のあるもの・ことばかりで満たされていて、最初から最後までメインディッシュしか出てこないコースみたいに濃厚だ。批判をしているわけじゃない。誰かの人生を、無意味なことも含めてすべて再現しようと思えば、その人生と同じだけの時間を費やす必要がある。それができないのなら情報を取捨選択しなければならないし、そうすれば結果的に無駄なエピソードは省いていかざるを得ない。

 だからこの手の映画を観ると、なんだか焦る。フレディ・マーキュリーが45年間の人生をかけて成し遂げたことは2時間の映画に凝縮されていて、そんなにも濃い人生を追体験して戻ってきた自分の人生はまるで味のないスープだ。毎日が無意味なことばかりで過ぎていく。それは確かなことで、そして同じように確かなことは、何もしない今日を重ねていくだけの人生に掬い取る上澄みなんてうまれやしないということだ。だから私は『ボヘミアン・ラプソディ』を観てなんだか焦った。同時に、やりたいことは全部やらないと、という確信のようなものが芽生えるのを感じた。行動しなければ、人生なんて2時間の映画みたいにあっという間に終わってしまう。「生まれ変わったら〇〇したい」?この映画に続編は約束されていないんだ。やりたいことは全部、やらなきゃ。

 そういうわけで、やりたいことは全部やることにした。と言っていても「やるぞ」と思っているだけでは何もはじまらない。先週の月曜日から毎日30分、仕事帰りに勉強をしてから帰る。部活だ。実際のところ残業や飲み会があるので毎日というわけにはいかないけれど、図書館で調べ物をしたり、本屋で読んだことのない種類の本を読んでみたり。そんなことなんの意味があるのって思うかもしれないけれど、なんとなくどこかでつながっているんじゃないかな。何をしたってけっきょくは私一人の人生なのだから。あるいはつくりものの映画とは違って、表面的にはつながりのないように見えるあれこれが現実の人生をかたちづくっているのだとすれば、やっぱりどこかで、あのときは無意味に思えたあの経験もやっぱり「私」の人生の一部なんだって感じるときがくるんじゃないか。

 今はやりたいことやつくりたいものがあって、しかしそれとはあまり関係なく、気が付いたらロゴやなんかに夢中になっている。当初の予定からずれていたってなんでもありなのが、この「やりたいことはなんでもやる部」のいいところだ。おもしろいことは全部やりたい。そのうえで、おもしろいモノをつくれたらいいなと思うし、ここやTwitterでそれについて話すことができたらいいなと思っている。いや、できたらいいなじゃなくて「やろう」。なんてったって、やりたいことはなんでも「やる」部、だ。
 

PS:きょうはさぼった。