モリノスノザジ

 エッセイを書いています

妖精ミズクラシ

 妖精ミズクラシは民家の天井に棲み、夜になると子どものような足音を立てて走り回る。このとき、水気のない天井であるにもかかわらず、ちゃぷちゃぷ・じゃぶじゃぶといった水音が聞こえることから「ミズクラシ」と呼ばれている。水音とともにちいさなはしゃぎ声を聞いたという報告が年に数件寄せられているものの、一般的にはミズクラシが家の住人の前に姿を現したり、会話をすることはないものと考えられている。

 天井に棲みついて水音や騒ぎ声を立てる妖精は九州から東北地方にかけてひろく民話が残っており、東北地方の一部では、ミズクラシが棲みついた家には幸福が訪れると信じられている。

 

 妖精ミズクラシ。なんじゃないかなあと思うくらい、とにかく始終、上の部屋の人がじゃぶじゃぶ音を立てている。妖精ミズクラシは私が考えた妖精だ。とにかく朝から晩までちゃぷちゃぷ音を立てている406号室のことを考えながら生んだ妖精だ。406号室は妖精ミズクラシなのだ。

 築年数が古いアパートなので、406号室と同時にトイレに入ると怒涛の勢いで水が流れる音を聞くことになる。やたらと406号室とトイレのタイミングが合うものだから、その水音を聞くたびに心のなかで苦笑するのだけれど、どうやら聞こえるのはトイレだけではない。風呂に入れば風呂の音。キッチンに立てば米を洗う音。それならまだ理解できる。水気のない洋室でベッドに入っていても、真上からちゃぷちゃぷと音がする。と書きつつ今も頭の上から絶えず水音が聞こえている。

 こんなにあちこちで、しかも四六時中水音が聞こえてくるなんて異常ではないか。はじめは、天井に配水管が通っていて水が流れる音が聞こえるのだとか。シンクで米を洗う音が金属で増幅されて聞こえるのだとか。常識的に説明できそうな範囲で理由を考えてみたのだけれど、こうもずっと水音を聞かされるととてもそんな説明では納得できない。足音だってちゃぷちゃぷしているのだ。そう。だから。406号室は妖精ミズクラシに違いない。

 

 住んでいるアパートで上下左右の顔すら私は、朝の出勤のタイミングがほかの住人と重なるとちょっと緊張してしまう。余裕のあるときは、気配がなくなるまで玄関の前で息をひそめていたりもする。そんななか、ある日のこと。ぱんぱんにふくれたスーパーの買い物袋を手に、なかなか家の家の鍵が見つからず、扉の前であたふたしていると、406号室の扉が開いて、鍵のかかる音。それから、誰かが階段を降りてくる音がした。階段から踊り場に差し掛かって、足音のペースがすこし変わる。また階段。一段。二段。すこしずつ降りてくる。そして、「こんにちは」とあいさつの主を見てみると、そこにいたのはすこぶる普通のサラリーマンだった。