モリノスノザジ

 エッセイを書いています

サンマがうまい

 ここのところ毎日サンマを食べている。仕事帰りにサンマを一尾だけ買って帰る日が続いて、そうしているうちになんだかそれが特別な行為のように思えてきた。

 サンマの前はリゾットにはまっていて、4種類くらいのリゾットを毎日朝と晩に代わりばんこに食べていた。半年くらい前はアイス(ザ・クレープ)に夢中で、スーパーに行くたびに在庫を買い占めて食べていたし、この間までは絞るだけのホイップクリームを冷蔵庫に常備して暇されあれば舐めていた。好きな食べ物だけじゃなくて、弁当のおかずも毎日だってかまわない。同じものを食べ続けても苦にならないタイプである。

 しかし、サンマは中でも特別だ。グリルで焦げて泡立ったからだを箸でおさえると、ぱりっと音を立てて皮が浮いてくる。ほわっと湯気があふれて、なかから暑くてふっくらした身が姿をあらわす。この、皮と身の関係がなんとも言えない。皮に包まれじっくりと火を通されて、身にはうまみがギュッとつまっている。だんだんとしみだしてくる脂で焼き上がりが香ばしくなるところといい、食べられるために生まれた身体としか思えない。調理法は同じなのに、食べるたびにこちらの期待を超えてくるところが秋のサンマの憎いところだ。

 生のサンマはすべすべしていて、手でさわるとささやかな抵抗を感じる。手のひらの上できらきらするサンマを眺めていると、こんなふうに触覚や嗅覚までも総動員する食事は久しぶりだと思う。子どもの頃はもっとたくさんの世界を感じながら生きていたような気がするのに、いつの間にか地面も草も遠くなり、いろんな物が感じる世界から消えてしまった。屈みさえすれば土も草も手で触れることができるけれど、触っても戻ってこないものはある。生のサンマを触っていると、なんだかその時の感覚をすこしだけ取り戻せるような気持ちになって、もう少し私はサンマを食べ続ける。
 

 

スキップ、スキップ → ランランラン♪

 社会人のみなさんは、最近いつスキップをしましたか?私はしています、スキップ。

 前にスキップをしたのは10年前…いや20年くらいはしていないかもしれない。大人になってスキップをしようと思い立ったのは、スキップが身体の老化を防ぐための簡単な方法としてテレビ番組で紹介されていたからだ。

 血液を身体のすみずみまでめぐらせるための毛細血管。歳をとるとこの毛細血管が減少し、身体じゅうに酸素や栄養が行き渡らなくなり、これが肌のトラブルや臓器の欠陥につながっている。こうした毛細血管の老化を防ぐための方法として紹介されていたのがスキップだった。スキップをすることでふくらはぎに筋肉がつき、それが身体じゅうに血液を送り出すポンプとしての役割を果たすらしい。

 しかし、スキップをしようと思ったのはそんな心配があったからないじゃない。いまのところはまだ老化が気になるような年ごろじゃない。そもそもテレビの健康番組なんてどこまで真に受けるべきものだかわからないし、番組の内容も改めて調べてやっと思い出したくらいだ。それでも街を歩いているときにふとスキップのことを思い出したのは、たぶん日ごろ気にしている運動不足とスキップとが、知らない間に私のなかで関連付けられていたのだろう。今になればまったくの勘違いだとわかるのだけれど、(昨日くらいまで)私はスキップが運動不足に有効だと信じ込んでいた。

 公道で真昼間からスキップをしている成人など不審なことこのうえない。スキップ再デビューするにあたっては最新の注意が必要だった。周囲の様子をうかがうと、十数メートル先を女性がこちらに背を向けて歩いているだけで、幸い周りにはほかに誰もいない。

 周囲の安全を確保したので、そろそろとスキップを始めてみる。頭で考えてみるとスキップの始め方がどんなだったかわからない。最初のステップは片方の太ももを上げること?それとも、片足で軽くジャンプするほうが先だろうか?わからないまま片足で道路へ踏み出してみる。二歩くらいスキップしてからいったん中断し、周りの様子を確認してからもう一度スキップしてみる。わからないのに身体は間違えずにスキップができていて、不思議な気持ちだった。

 大人になってからするスキップは、思った以上に高く身体がジャンプして新鮮だ。思えば成長期を迎える前にスキップをやめてしまっていたので、この身長でスキップするのは初めてだった。身体には、スポーツ選手のように立派ではないにしても大人として不自然じゃない程度の筋肉がついていて、それも身体を大きく持ち上げる。普段見ることのない景色に身体も軽くなったような気がした。

 その日以来、気が付いたらスキップをしている。スキップといっても、ピヨンピヨン跳ねるほんもののスキップじゃなくて、高さを抑えたプチスキップだ。通常の歩行が0でスキップが100くらいだとしたら、スキップゲージ3くらいのスキップ。それでも普通に歩くより息が上がって身体もホカホカするので、スキップが運動不足防止に役立つという説もあながち間違いではないのではないかと思っている。

 なにより、スキップをすると楽しい。スキップを始めると、特に楽しい出来事がなくてもなんだか楽しくなってくる。仏頂面でスキップをしてる人って、たぶんいないんじゃないだろうか。
 以前、テレビで「笑いのサークル」というのが紹介されているのをみた。何人かで集まって、とにかく大笑いする。笑うことでストレス解消を目指すという活動だ。
 こういう話を聞くと、なんだかよくわからないけど、心と身体はつながっているようだな、と感じる。特にハッピーな出来事がなくっても、笑ったりスキップしたりしたら何となく楽しくなる。下を向いて歩いていたら、気持ちも後ろ向きになる。

 そういえば「スキップスキップ、ランランラン♪」というフレーズもよく見たらスキップをした後にランランしているのであって、特に楽しくなんてなくたって、スキップは万人に許されているみたいだ。

 

「平成の夏」が思い出になるとき

 ここのところ、「平成最後の8月」だとか、「天皇陛下が〇〇を訪問するのは最後」なんていう報道を耳にすることがあって、ああそういえば最後なんだな、っておもう。あと9カ月で元号が変わるというのにちっとも実感がわかなくて、「平成最後の6月」も、「平成最後の7月」も、お別れを言う間もなく通り過ぎてしまった。

 思えば、5~7月ももうすでに平成中の出番を終えているのだった。春夏秋冬の季節ということで言えば、最初に最後(ややこしい)を迎えるのは夏なわけだけれど、それにしたって「平成最後の秋」とは言われないだろうという気もしていて、やっぱり夏という季節は特別な季節なんだろうなあと感じる。

 けれど、「平成最後の夏」といっても実際たいしたことはない。平成が終わっても夏はまたやってくるし、たぶん来年の夏も今年とそれほど変わりはないんだろう。現に、昭和の夏と平成の夏だってそうたいして変わらない。私がイメージする「昭和の夏」はゲーム『ぼくのなつやすみ』で過ごす夏だけれど、「昭和の夏」感がするものを具体的に思い浮かべてみたら案外今でもあるものだった。昭和といっても60年あるので、一概に昭和と平成は同じだとは言えないだろうけど、田舎に行けば案外昭和らしい夏が残っているような気もする。

 「平成最後の夏」という言葉は、なにか特別な「平成の夏」らしいものがあるということよりも、多かれ少なかれ「平成」という時代に対する名残のようなものを示しているんだと思う。昭和がいつまでも「古き良き昭和」として懐かしがられる一方で、平成は常に暗いムードに覆われていて、平成生まれも30年間ずっと軽んじられてきた。他方、新元号の制定にあたっては元号不要論が唱えられたりもした。けれど、平成が終わるのを名残惜しく感じる気持ちが少なからずあるのだと思うと、平成しか知らない身として少しほっとしたような、わだかまりがすこし解けそうな、そんな気がする。

 ただ、今年の夏には「平成最後の夏」らしく、これまでの夏とは違った夏の兆しをみせた面もあった。主に暑さだ。毎日気温が40度近くまで上がって、各地で人がたくさん亡くなっている。
 私が通っていた小学校では夏休み中プールが無料開放されていた。通学区域別だったか学年別だったか、利用可能な時間帯が決まっていて、授業とは違って学年入り混じった状態でプールに入るのがとても楽しかった覚えがある。けれど、今年はプールの開放を取りやめたらしい。猛暑が原因でプールの温度が高くなってしまうからだ。このほかにも、子どもたちが熱中症で倒れるのを防ぐために、夏休み中の登校日を取りやめる学校があるなんて話も聞く。授業で遠足に出かけた子どもが熱中症で亡くなる事故もあったくらいだから、暑さによる被害を避けるために、これから学校の課外活動のありかたも変わっていくのかもしれない。平成が終わっても変わらず夏はやってくる、なんて思っていたけれど、今まで当たり前だったことがだんだん当たり前じゃなくなってきている。いつか平成の夏の夏を思い出して、あのころの夏はよかったね、なんて懐かしむときがくるのかもしれない。

 平成が終わっても何も変わらない。夏も相変わらずまたやってきて、私たちをどきどきさせたり暑さで苦しめたりするんだろう。けれど、いつか平成を懐かしくおもうときがくるとしたら、それは私たちが何かを得たからなのだろうか。

 …なんだかちょっと寂しくて不安。

 

今週のお題「#平成最後の夏」

 

ステルスご当地のススメ

 父は、旅先でスーパーに入りたがる。普段通っているスーパーとは品ぞろえが違うのが面白いらしい。

 たしかに、最近はスーパーにもお土産品が置いてあったり、地元の酒蔵の商品をあつめた特設コーナーがあったりする。簡易包装で比較的安価であったりもして、確かに穴場ではある。
 しかし、「おみやげとして売られているものがスーパーにもある」パターンでなくて、本当に「地元のスーパーならでは」の商品をみつけるのはなかなか難しい。家で料理をつくったり、家事に使うつもりで食材や商品を吟味するのと比べれば、旅先でのスーパーめぐりはどうしても簡易的なものになってしまう。特別なコーナーが設けられていたり、目をひくパッケージでなければ、事前に情報を得ていない限りご当地品を探し出すのは簡単ではない。

 旅先のスーパーだからということで特に丹念に店内を歩くものだとしても、やっぱりご当地品を探し出すのはむずかしい。そもそも、普段通っているスーパーの品ぞろえを、私たちはそれほどしっかり見ているだろうか?いつも行ってるスーパーの商品くらいよく知ってるよ、と思うかもしれないが、私はいつものスーパーに食器用洗剤が何種類、どんな商品が置いてあったかまったく思い出せない。毎日見ているようでいて、案外どんな商品があるかなんて見ていないものだ。何か欲しいものがあったら、多分はじめにその商品が置かれている棚の前に行き、いつも同じ商品を買っているか、決まったルール(一番安いとか、国産のものしか買わないとか)に従って自動的に選んでいるんじゃないだろうか。

 すると、旅先のスーパーでご当地商品を探そうとしても、なかなかうまくいかない。例えば、普段アイス売り場を見ない人は、旅先のスーパーでアイス売り場を見てもどれがご当地アイスなのかわからない。普段からアイスを食べるとしても、「いつも買うのはMOWと決めている」という人は、やっぱりご当地アイスに気が付きにくいだろう。

 私の地元愛知のスーパーには、あんかけスパをつくるための太めのパスタ麺が置かれている(あんかけスパには太めのパスタ麺を使うのだが、他県のスーパーでは一定の太さ以上のパスタ麺はなかなか売っていない)。これも地元ならではの商品ではあるのだけれど、麺の太さが違うだけでパッケージは隣の商品と同じなので、一見して気が付くのは難しい。普段からスーパーに置いてあるパスタ麺の太さを熟知していれば気が付くことができるかもしれないけれど、なかなかできることじゃない。パスタ麺を買うとき、たいていの人はいつも同じ太さの麺を選ぶか、置いてある中で一番安い商品を選んだり、ひいきのメーカーの麺を優先して選んだりしていて、直径何ミリのパスタ麺が置いてあるかなど気にも留めないだろう。

 こうしたステルスご当地を見つけやすいのは、お盆と正月だ。しかも、お盆・正月商品には思ったよりも地域性が出る。たとえば、多くの地域では白い丸餅の上にみかんが載った鏡餅を飾るだろうが、石川県では紅白の餅を飾っている(プラ製の装飾用鏡餅も、石川県では紅白のものが売られている)。地元に戻らないお盆、正月には近所のスーパーをゆっくり見てみるのも楽しいかもしれない。
 

 

豆苗の罠

 豆苗は食べておいしく、育ててたのしい野菜です。

 毎朝駅のホームで顔を合わせはするけれど、一度も挨拶をしたことがない人。豆苗に関してはそんな認識だった。スーパーでいつも見かけはするけれど、いっしょに置かれているスプラウト系の野菜との違いもわからない。カイワレなんかはレタスなどと比べても用途が限られるのでは?という考えもあってスプラウト系はこれまでに数えるほどしか買ったことがなく、豆苗に至っては一度も買ったことがなかった。

 昔からあるような気がしている豆苗だけれど、もともとは中華料理の高級食材として食べられていたもので、スーパーで安価に購入できるようになったのは最近のことらしい。えんどう豆の若葉を摘んだものらしく、もっと大きく育てればたくさん食べるところがあるにも関わらず、食感がやわらかいうちに出荷してしまう仔牛のようなもの…と考えると、自然に育てている限り高級食材であるのも理解できる。
 そんな豆苗のたのしいところは、一度葉を食べてしまったあと、残った根と豆を育ててふたたび収穫することができること。豆に残った養分を使い切ったらもう伸びなくなるので、永遠に…というわけにはいかないけれど、一つ買ったら2~3回は食べられるお得感のある野菜だ。パッケージにも栽培方法の説明が書かれている。そしてこれは、群雄割拠の野菜売り場において豆苗が生き残るための、したたなか戦略でもある。

 一つの豆苗を買って3回収穫した人がいるとする。この人が仮に、一度食べ切った豆苗は再収穫が可能であることを知らないとすると、3回豆苗を食べるためには三つの豆苗を買わなければならない。豆苗が一つ売れるよりは三つ売れたほうが豆苗会社にとっては得なのに、どうして豆苗会社はわざわざ「豆苗は育てられる」ことを公にしているのだろうか?
 まず、豆苗の再収穫について知らない人は、一つ目の豆苗を食べ終わってから二つ目の豆苗を買う、という前提が誤っている。私は家に豆苗を持ち帰ってからそれが再収穫可能な野菜であることに気が付いたけれど、そもそも再収穫可能でなければ豆苗は選ばないという人もいるはずだ。野菜売り場にはたくさんの種類の野菜がある。豆苗と同じくらいの栄養価を持ち、同じような用途に使える野菜ももちろんある。そうした野菜の群雄割拠ともいえる状況で、豆苗が「繰り返し選ばれる」ためには、再収穫できるという強みが必要なのではないだろうか。
 つまり、「水に浸しておいたらまた食べられますよー!育てるのたのしいですよー!」なんて親切な呼びかけをしておきながら、その陰にはお得感を餌にリピーター化を狙う豆苗の戦略があったわけです。

 なんという恐ろしい罠…。豆苗の原価なんてわからないけれど、「2つ余分にサービスします!」という商品がよくよく考えればまったくお得ではないように、そもそも再収穫を前提とした価格設定であったりもするんだろうか…。とはいえ、単純に使いやすくて苦みもないので、豆苗はまた買おうと思います。