モリノスノザジ

 エッセイを書いています

ハラスメント・スイッチ

 夏は海岸に打ち寄せた波が引いていくように8月を通り過ぎていった。夏ではなくまだ秋でもないこの季節は半袖でもぐりこむ毛布がすばらしく、いつもなら一番好きな季節なのだけれど、私はここのところ疲れて落ち込んでいる。仕事に行くたびに嫌な気分になって、どうしてだろうと思っていたのだがやっと原因が判明した。上司に「何か文句ある?」って言われたことだ。
 そう言われたのは特になんでもなく仕事を指示されたときのこと。特段反抗的な態度を見せるわけでもなく普通に返事をしたのだが、「何かある?文句いいたそうにしてるけど」と言われて絶句した。

 特段意識しているわけでもなんでもないけれど、必要があれば私は自分の意見を言う。それは自分の仕事に責任をもって取り組んでいる以上あたりまえのことだと思うし、そこに上司に反抗する気持ちや自分の意見を受け入れさせて優位に立ちたいというような気持ちはない。そうやって私が意見を言うのをどう思っているのかはわからないが、あるときから上司がしきりに私に意見を求めるようになってきた。しかしそのやりかたが(少なくとも私にとっては)決してうまくなくて、マイクを向けてインタビューするような手ぶりをしながら意見を求められたりすると揶揄されているように感じる。遠くのほうでこっそり「森さんにも聞いといたほうがいいんじゃない?」なんて言われるといわれると、まるで私が、じぶん抜きで物事を進められたらへそを曲げるやつみたいに思えてくる。課長に伺いを立てているにも関わらずしつこく私に最終的な判断を求めてくるときなど、腹が立つ。

 何が根本的な問題かというと、上司自身には悪気がない(たぶん)のだが、その言いぶりが圧倒的に他人の誤解を招くものであるということだ。

 「何かある?文句言いたそうにしてるけど」と言われてから、私は自分の意見を言いづらくなった。意見を言えば「根拠のないわがまま」と受け取られるのではないかと感じたから。しかし一方で、なにも言わずに従うのも嫌だった。その気がなくても黙って従えば「文句があるのに我慢している」と思われているのではないかと感じた。しかし、そうやってじわじわと私がストレスを蓄積している間に起きていることは、客観的に見ればなんでもない。ただただ普通の指示を上司がして、私が「はい」とか「いやそれが」とか言っているだけのことだ。「文句ある?」という上司の言葉で私のなかのスイッチが押されて、なんでもないことがネガティブな意味合いを持った事柄に変換されてしまうように感じる。

 世の中はハラスメントでいっぱいだ。私の感じている苦痛なんてのはハラスメントの「ハ」にもひっかからないようなことだけれど、「髪切った?」って言うだけでセクハラになる、などと言われるのを聞くと、みんなハラスメントに翻弄されているなって感じる。

 ハラスメントを予防するのが、あるいは理解するのがなぜ難しいかというと、何をハラスメントと感じるかは受け取る側の感じ方や双方の関係性、その場の文脈などによって左右されるからだ。ある文脈においては「髪切った?」は立派なセクハラになりうるだろうけど、すべての人がそれをハラスメントと感じるわけじゃない。一回言われるだけであれば問題なくっても、何回も言われることで〈スイッチが押される〉こともある。

 ほんとうにどうしようもないセクハラ・パワハラ・〇〇ハラについては滅べばいいと思うけれど、〈スイッチ〉が原因で感じているようなストレスに関しては、できれば自分でそのスイッチの正体を暴いて捨ててしまえればいい。思いがけず他人に仕込んでしまったスイッチは…、心を尽くして相手と向き合えばいつか許してもらえるんだろうか。

 

貝がらをひろって歩く

 昨日、小さな劇団の公演を見に行った。
 演劇を見るのは大人になってから初めてだ。いつも省エネ運転で生活している私にとって役者さんのパワーは圧倒的で、すこしくらくらするような気持ちで地下鉄に乗りながら、そのパワーの一部を分けてもらったようにも感じながら帰路についた。

  きっかけは偶然チラシを手にしたことだったのだけれど、幼いころ劇場に通った思い出がなければ行かなかったかもしれない。小さいころ私は、一か月に一度ほど、親に連れられて子ども向けの演劇を見に行っていた。それで私に文化的な素養が身についたとか、芸術に興味を持つようになったとかそんなことはまったくないのだけれど、そういった経験がなければ、大人になってから「演劇を見る」という選択肢が浮かぶことはなかったと思う。

  最近映画を見に行ったり、音楽を聴きに行ったりすることがなくて、それも今回演劇に見に行こうと思った理由のひとつだ。コンサートホールで音楽を聴くのも、演劇を見るのもそんなに安いものじゃない。行ったところでいまひとつピンとこなかったりすることもあるけれど、それでも音楽や本、劇や映画を見ることは大事だと思っていて、少なくとも一か月に一回はそういった機会をつくるようにしている。「自己投資」というと立派に聞こえるけれど、本当にこの経験は役に立つのか?私にはもったいない経験じゃないか?なんて不安になることもある。だけど、実をつけない植物が無駄だなんてはないように、実生活に利益をもたらさない経験のすべてが無駄だというわけでもない。花屋に売られているバラを買っても私の年収は増えないけれど、美しい花を家に飾るだけで私はしあわせになる。それに、私が払ったお金はまわりまわってクリエイターの手にわたる。そうやって、芸術文化の担い手や、まちの文化を守ったり育てたりすることに貢献しているのであれば、たとえ役に立たない経験だったってそれでいいかな、という感じがする。

  劇場に行くと、子どものときに感じた劇場の独特な空気間を思い出して、不思議な気持ちになった。役者さんが歩きまわるときの舞台がきしむ音、舞台が暗転したときのこっそりあわただしい雰囲気に子どもの頃の私はどきどきしていたのだけれど、それは大人になっても変わらなかった。こうやってどきどきしたり、映画の思わぬ展開に驚いたりするとき、こんな経験ができるなんて、人生ってすばらしいなって思う。大人になってわかることはどんどん増えていくけれど、わからなかったことを知って感動したり、美しいものにふれて心を動かす素直さをわすれたくない。


 なにもないまっしろな部屋がある。最初は壁すらないから、もしかしたら部屋ですらないのかもしれない。いつか忘れてしまうことが惜しくって、何度も見に行きたい場所がいつでも見えるように、その場所に窓をつくる。部屋のなかには、生きていく途中で出会った大切なもの、大好きなもの、それを順番にひろって並べていったら、私の部屋はどんな部屋になるのだろう。私は私自身ちっとも特別じゃなく、平凡な生活を送っていて、それでもそれを無駄な人生だといってやめられないのは、それがどうしようもなくオリジナルで、ほかにはない人生だからだ。ひろった貝がらはちっとも役に立ちはしないけれど、美しい貝がらをひろって歩く生活を私はとても楽しく思っている。

 

読書感想文後遺症

 義務教育を終えてから10年以上の時が経ったいまでも、私は読書感想文後遺症に苦しんでいる。
 私たちは、読書感想文をはじめとした、日誌や観察記録、学級新聞といった教育文章を繰り返し書かされることによって、ある種の文章の型を仕込まれてきた。それはとりわけ文章の締めに当たる部分で如実に現れる。例えば、「…ことを学びました」という〈学び型〉、「今後は~していきたいと思いました」という〈課題型〉。学校で書かされるありとあらゆる文章をそれなりにうまくこなしてきた私は、日記のようなきわめて私的な文章を書くときですら、これらの型に縛られて書くようになってしまった。例えばある日の日記はこう。

〇月×日
 午後から先週図書館で借りた××の本を読んだ。〇〇を見て気になったので借りてみたけれど、興味をもって読んだので勉強になった。いままでこういうきっかけで本を読んだことはあまりなかったけど、今後は続けていきたいと思う。

 また、無駄に道徳的なムード漂う文章も。

〇月△日
 今日、仕事中に□□が××していた。いつもなら気にしないけれど、今日はそれをみて本当に腹が立った。イライラしたので周りに冷たく接してしまったかもしれない。だけど、□□のそんな様子をみて周りにイライラを振りまくのなら私も□□と同じだ。腹が立つけど、これからはそういうことがないように注意していきたい。

ほんとうは「腹立つ!」しか考えていないくせに、文章を締めにかかることを意識した文章だ。

 こうした日記を書くことの何が問題かというと、書いている私がじわじわとつらい気持ちになることだ。「ああ頑張らなきゃ」「学ばなきゃ」というプレッシャーをほとんどわからないくらいの圧で受け続ける。また、悲しみとか怒りのような行き場のない感情を日記に書いているにもかからわず、そうした生の感情を自分自身ですら受け止めてはくれず、常に「正しい」私に見張られているようにすら感じてしまう。最近はできるだけ事実や評価を加えない感情のみを書くようにしているけれど、これが結構難しい。しばらく治療の必要がありそうだ。

 こうした後遺症がなかなか治らないのはそもそも文章を締めるのが難しいという問題もあるのだけれど、日記のような文章でわざわざ「締め」を意識する必要はないといえばない。文章には「締め」や「まとめ」が必要だという思い込みもまた読書感想文後遺症の症状のひとつなのかもしれない。

  最近社内報でストレス解消法として紹介されていたのが「マインドフルネス」という方法だ。「マインドフルネス」は禅をルーツとしたストレス軽減法で、大まかにいうと「今、この瞬間の体験に意図的に意識を向け、評価をせずに、とらわれのない状態でただ見ること」だという。
 人の心にある考えが浮かんだとき、それには価値判断が伴うことが多い。例えば、「明日仕事休みたい」という考えに対して「休みたいのはみんな一緒だ、我慢するべき」という価値判断が伴っていたり、「××腹立つ」という考えに「そう思うのはよくない」という価値判断が伴っていたりする。
 「マインドフルネス」の方法にはいろいろなやり方があるようだが、簡単に取り入れる一つの方法は、「評価」の部分を切り離して、あるがままの自分の状態を認識することだという。ああ私は「××腹立つ」って思ってるんだな、「疲れた」って思ってるんだな、と認めるだけで心が楽になる。
 少し話は変わったけれど、日記も価値判断を手放して向き合うことを心掛けることで、自分を癒すツールに変えることができるのかもしれない。

 

 

鍵をかけたかわからない

 私の実家は田舎だ。三方を水田に囲まれていて、残る一辺は細い田舎道に面している。その田舎道から家に入るには個人経営の自動車修理店の工場を通り抜けなければならないから、わが家は四方を守られた鉄壁の地と言えるかもしれない。
 そんなわけでわが家は施錠に関する意識が極端にうすい。ありとあらゆる窓、玄関、それによく見たら田んぼに続く裏庭の扉も常時空いている。飼いだした猫が玄関を自力で開けるようになってからは人が中にいるときでも玄関を施錠するようになったのだが、鍵を玄関の外に放置している。それで、玄関前で鍵を発見した宅配業者さんが慌ててピンポンするはめになる。

 そんな田舎意識の影響か、私も一人暮らしの家の鍵をかけたか忘れることがしばしばある。都会で自宅に施錠をしていないことの何よりの問題点は、鍵が開いているばかりに犯罪に巻き込まれる可能性があるということだ。プロの空き巣は集合住宅の扉を手あたり次第に確認して獲物をみつけるとか見つけないとか言うし、あの人もあの人もたまたま家に鍵をかけていなかったばかりに空き巣に入った犯人に殺されたとか殺されなかったとか。
 そのような犯罪に巻き込まれるということを防ぐうえで鍵かけたか忘れることがどのような問題になるかというと、それは帰宅して玄関に鍵がかかっていなかったときに明らかになる。鍵を開けた、と思いきや扉が閉まっている。ということは、私は家を出るときに鍵をかけなかったのか?それとも留守中に誰かが鍵を開けた?開きっぱなしだったということは、すでに仕事を終えて出て行ったということか?それとも今も物色中…?もし犯人がまだ中にいるとしたら、このまま入らずに警察を呼んだほうがいいのだろうか。いやいやそもそも今私は本当に鍵を回したのか?実際には鍵を開ける動作をしていないから開いていないのかもしれない。と、永遠に家に入れなくなってしまう。

 その対策として私が打ち出したのは、鍵かけ行為を意識的に行うことだ。鍵穴に鍵をさして回す、という行為をもはや無意識に行っているのであれば、そこに目立つ目印をつけてやればいい。そういうわけで、鍵をかけた後にはかならずドアを“ゴットン”することにした。こうすれば、“ゴットン”の過程で鍵かけを意識上に浮上させることができる。このようにして私はしばらくの間、鍵をかけ忘れたかもしれないという不安から解放された人生を送っていたのだが、不幸なことにその幸せは長続きしなかった。

 鍵かけを意識するために“ゴットン”していたのだが、ある日私は“ゴットン”したかどうかもわからなくなってしまっていた。“ゴットン”を繰り返しすぎたために、それすら無意識のうちに行うようになってしまったのだ。こうなってしまうと、もはや不安が止まらない。今朝はちゃんと“ゴットン”したつもりだったけど、本当に私は“ゴットン”していたのか?階段を降りたところで、ゴミ捨て場の前で、駅の改札で私は不安になり、仕事どころではない一日。しかもこの「慣れ→無意識」サイクルの恐ろしいところは、仮に“ゴットン”を確認するためのさらなるステップを生み出したところで、それすらいずれ無意識に行うようになる可能性があるという点だ。

 根本的な改善が必要である。

 それにしても、世の中で働く多くの人はミスが許されないわけで、バスの運転手にしても医者にしても、レジのおばさんもどうやってミスを防いでいるんだろう?ひとつの方法は複数人で確認することだ。いわゆるダブルチェックというやつだ。けれど一人暮らしの私には、鍵かけをダブルチェックしてもらう相手がいない。だからこの手は使えない。
 次に思いついたのは、声出し&指さし確認だ。バスの運転手は事故を防ぐために、交差点を曲がるときや車を発進させるときに指さし&声出し確認をしている。実は私も、事務作業のミスを防ぐために日常的に指さし確認をしている。これならば鍵かけにも応用できるのではないか。声に出して確認をすることで、無意識に行う鍵かけを意識の上に浮上させることができる。明日からは鍵をかけてから【指さし】、“ゴットン”して「鍵かけよーし」。

 これでいく。
 

 

 

暑い夏はお好き?

 ここのところ各地で暑い日が続いておりますが、みなさま暑い夏はお好きでしょうか。私の住むまちも今日はめずらしく最高気温が35度を超え、暑い夏好きの私にとってはすばらしい一日となりました。

 子どもの頃、夏は四季のなかで最も嫌いな季節だった。「暑苦しい」という言葉が示しているように、夏は「暑」くて「苦」しいもので、カエルは鳴くし蚊は刺すし、いいことなんてひとつもない。当然「汗をかくのが気持ちいい」なんて感覚も全く理解できなかったのだけれど、どういうわけか、その汗をかくことの気持ちよさに目覚めたばかりに夏が一番好きな季節になってしまった。

 夏に目覚めたのは三年前の夏。8月の暑い日に、出雲大社に詣でたときのことだった。出雲市駅に宿をとり、レンタサイクルで出雲大社まで走ったのだけれど、それが地獄のようだった。

 出雲市駅から出雲大社までの道のりは出雲路自転車道として整備されており、道に従って走っていけば迷わず目的地に到着できるようになっているのだけれど、緑豊かな田園の真中を走るサイクリングロード、飲み物が買える店もなければ自販機もなかなか見当たらない。日差しを避けて休憩できるような場所もほとんどなくて、8月の炎天下に走るのはかなりきつかった(今は改善されているのかもしれない)。

 日ごろの運動不足もたたって、出雲大社に詣でてホテルに帰りついたときにはくたくた汗ビショのボロ雑巾のようになったのだけれど、どういうわけだかこのボロ雑巾が快感で、それから汗をかかない夏では物足りなくなってしまった。

 暑くて夜中に汗をかいた翌朝は、朝早く起きてシーツを洗濯する。シーツを干してできた日陰で横になって1日じゅう本を読んだりして過ごし、夜になったらカラッと乾いたシーツで眠るのがすばらしい一日の過ごし方だ。

 一度好きになると、夏はハッキリくっきりしているのがいい。秋や春とは違って始まりと終わりがとても分かりやすいのが好みだ。みんな夏は暑いから嫌いだというけれど、ほかの季節と違って夏は特別な季節であることは間違いない。「ぼくのなつやすみ」があって「ぼくのふゆやすみ」や「ぼくのはるやすみ」がないこともその証拠だ。

 とはいえ、暑さで多くの人が亡くなっているのも事実ですので、みなさんこまめな水分補給をお忘れなく。そして、残りの夏を存分に楽しみませんか?

[追記]

 地獄などと書きましたが、いままで訪れたあらゆる場所のなかで楽しかった記憶がもっとも強く残っているのも出雲のサイクリングロードです。みずみずしい水田とどこまでも続く青い空がひろがって、その境目を自転車で走っていくのがたまらなく気持ちよかった。途中で通る街中はどこか懐かしい感じも。また、出雲大社へ続く一畑電車には自転車を載せることができます。自転車と一緒に電車に揺られるのは不思議な感覚…というだけでなく、疲れたら帰り道は電車で帰る選択肢があるというのはとても助かります。出雲…また行きたい。