モリノスノザジ

 エッセイを書いています

それ、キモチイイ?

 ゲーム『ワールドネバーランド』を久しぶりにやっている。『ワールドネバーランド(ワーネバ)』は決まったストーリーがなく、とにかく自由に生活できるシミュレーションゲーム。仕事はしてもしなくてもいい。恋人をつくって毎日デート三昧の生活でもいいし、朝から晩まで釣りだけをしていても誰にも怒られない。働かなくても生活が保障されていて、そのうえ自然あふれる環境で好きなことをして暮らしていけるなんてうらやましい限りなのだけれど、どういうわけだか、どのシリーズでも気付いたら実生活と大して変わらない勤勉な暮らしをしてしまっている。朝起きたら食事をして農地へ直行。畑に水やりをしてから昼過ぎまで牧場で動物の世話をして、市場で買い物をしてから自宅で料理をつくる。夜になったら即ベッド。根が勤勉なのか、自由なはずの王国ライフは気づけば単なる現実の延長になっていた。どうも私は勝手にルールをつくってしまう傾向にある。現実も、というよりむしろ現実のほうが、自由に生きたってかまわないはずなのに。

 そうやってストレスを溜めるせいか、10代の頃から常に肌荒れで悩んでいた。ストレスが肌に出やすいのだとおもう。あるときなど、仕事の電話を架けるのが嫌すぎて、ダイヤルしてから受話器を降ろすまでの間ににきびが一つ増えていた。相手が電話に出ればめちゃくちゃに罵声を浴びせられることが分かっていたからで、結局相手は電話にでなかったのだけれど、ダメージだけはしっかり受けている。これほど影響を受けやすい私の肌のことだから、寝不足にも注意が必要だし、日焼けも厳禁である。

 そういうわけで毎日日焼け止めを塗るのだけれど、あるとき、日焼け止めクリームを顔に伸ばすにも、肌を擦れば赤くなることに気が付いた。それ以来、日焼け止めを塗るとき、顔を洗うときには(これ、きもちいい?)と自問して、肌を擦らないように注意している。三カ月ほどそうしていたら、以前ほど肌荒れが気にならなくなった。

 肌をきれいにしたい一心でいろいろな洗顔料や化粧水を試したりしてきたけれど、こんな心がけ一つで長年の悩みが解消するなんてなんだか拍子抜けだ。けれど一方で、どんなに高価な化粧品をつかっていても「痛い、苦しい」と感じながらするケアではきれいになれそうもない気もして、細かいことを気にせずにひたすら〈きもちいい〉を追及するのも一つの方法かもしれない。

 どうせならもっと〈きもちいい〉を前面に押し出したらいいのになあ、というのは、特に人間関係に関することについても同様に感じる。ときどき、理由もなく周囲に不機嫌をまき散らしたり、やたらと攻撃的にふるまう人を見かけるけれど、どうせならもっと気持ちよくできればいいのに、と思う。

 ただし〈きもちいい〉はあくまでも何かをする方法であるべきで、それを目的にすることはまた別のことだ。それに、〈きもちいいか?〉を基準に行動することがすべての人にとってプラスになるわけではもちろんなくて、勤勉に行動しがちな私にはぴったりだったということにすぎない。

 けれど、目的から視線を外してひたすら「たのしいか?」「きもちいいか?」って問いながら行動していて、気が付いたら目的地にたどり着いていた、なんてことが起こるのなら、そんなにラッキーなことってないですね。

 

男はいつワックスを捨てるのか

 5月頃から、同僚がだんだんワックスを付けなくなってきた。それまでは固めのワックスを使って毎日ばっちり前髪を上げていたのに、ワックスなしのふさふさヘアで出勤する日が一日増え、二日増え、ついには一週間を通してスタイリングをしなくなってしまった。付けなくなり始めの頃はスタイリングをする時間がなかったのかもしれない程度に考えていたのだけれど、これだけワックスを付けなくなるということは、何らかの考えがあって付けなくなったのだろう。

 同僚は30代(後半?)と思われるけれど、そういえばおっさんはワックスを付けていないイメージがある(すべてのおっさんがワックスを付けないとは言わないけれど)。男性は青年からおっさんに差し掛かるタイミングでワックスを使わなくなるのだろうか?

 「おっさんになるとワックスを使わなくなる」説の説明としてすぐに思いつくのは、加齢で髪が減ったりしてワックスを使用できなくなるというもの。年齢が上がって社会的な立場が変わると服装や髪型も変わるだろうから、ヘアスタイルの変化が原因でワックスを使わなくなるのかもしれない。自分には全くそんな発想がなくて驚いたのだけれど、なかには「いい大人がワックスなんて」と思う人もいるらしい。確かにワックスで髪を立てるのは若者っぽい感じがする、かな?指で髪先をつねってツンツンに立てる髪型(最近もいるの?)は、確かに高校生っぽいかもしれない。

 けれどそもそも、すべての若い男性がワックスを使っているわけではない。ワックスを使わない層はおっさんになってもワックスを使わないので、「ワックスを使わないおっさん」のうちの一部はそもそもワックスを使わない層なのだろう。

 そしてもう一つの可能性として、今まさに「おっさん」と呼ばれるまさにその年代が「ワックスを使わない層」である可能性がある。いつからワックスが使われ始めたのかわからないけれど、ワックスを使わない世代がおっさんになり、ワックスを使わないおっさんになったという説。ワックスを使う世代がおっさんになったら、ワックスを使うおっさんが一般的になるかもしれない。

 などと考えているうちに2か月が経ち、気が付いたら同僚が再びワックスを使うようになっていた。4月には立てていた前髪を、少し伸ばして横に流している。なるほど、髪を伸ばして前髪を下すスタイルに変えたかったんですね。

 

私はいつ準備ができるのか(7)

 最終的には「とりあえずやってみろ」ってことになったわけだけど、この結論にはそこそこ納得している。もちろんこれは、今私に見える範囲での暫定的な結論に過ぎないのだけれど。

 私の〈やりたいこと〉はこやって文章を書くことだ。それで何をしたいのかわからないけど、文章を書くのはたのしい。それに、私は文章を手段として信頼していて、このままずっと味方でいてほしいとも思っている。

 私はどこにでもいる普通の29歳で、とりたてて大きくも小さくもない普通の会社で誰にでもできるような仕事をして生活している。私は全然特別じゃないし、頼りにしている文章だってまだうまく使いこなせない。

 だから私はずっと〈やりたいこと〉を後回しにしてきた。

 けれど、「とりあえずやってみろ」に従って書き始めてみたら、不思議なことが起こった。

 私は日ごろからつまらないことを一人で考えることが多い性質だ(ただし決して考えるのがうまいわけではないので、他人の意見をぶつけられて鱗をこぼしてばかりいる)。「私はいつ準備ができるのか?」っていう問題もずっと考えて考えていたことの一つで、書き始める前にある程度のあらすじは考えていた。けれど、実際に書き始めてみたら、もともとの考えの粗さやあいまいさ、誤りに気が付くことが多かった。書かずに考えていたときには気が付かなかったことばかりだった。

 だからたぶん、「とりあえずやってみろ」っていうのは、少なくともいまの自分にとっては有効なことだったんだと思う。

 自分がほかの人に比べて優れているとか、そんなことは全然ない。乗っている船の性能も、船員の能力も、ほかの船に比べたら劣っている。どこを目指して航海しているのかもわかっていない。だけど、ばかな航海士たちが答えのない議論をしているのを横目に前だけを見て船をすすめる船長が私には必要だ。わけのわからない航海だけど、船は動いてさえいればたのしい。すくなくとも、同じ場所にとどまっているよりはずっと。

私はいつ準備ができるのか(6)

 森(5)の話、どこまで準備ができた段階で踏み切ればいいのか?っていう話の続きをしようと思う。

 この問題、80%準備ができないと十分じゃないっていう人もいれば、まったく準備ができていない状態でも問題ないって考える人もいるだろうね。どっちを選んでもいい点・悪い点はそれぞれある。80%準備をしてから始める人はその分出来たものの完成度は高くなるかもしれないけど、始めるまでに時間がかかる。反対に、まったく準備ができていなくても始める人は、成果物の出来が80%の人よりは低くなる可能性があるけど、早めに取り掛かる分実践のなかで力を高めていけるというメリットがあるかもしれない。どっちを選ぶのが正しいっていうわけじゃなくて、どういう方法をとるのかはその人の性格によるのかもしれない。

 ところでさっきから「80%の準備」とか言ってるけど、100%ってどういう状態のことだろう?成果に関しては、何を達成している状況が100%なのか、具体的に想像することができる。たとえば、登山するなら山頂まで行くぞとか。だけどそのための準備に関しては、目指す100%がどこなのか、ちょっと想像ができない。例えば準備として、道の下調べをしておくとか、もう少し低い山で練習するとかの方法を考えるかもしれないけど、100%ってなんだろう?どんなんだからもちろん、20%も80%も想像するのが難しい。森(3)や森(4)は100%準備ができた状態は簡単には達成できないって言っていたけど、そもそも100%がどういう状態かわかっていなければそれを達成なんてできるわけがない。

 しかも森(1)が言うには、過去の自分も現在の自分も間違っていることがありうるらしい。山頂まで登るには崖をよじ登る力が必要だぞ!って思って練習していたのに、後になってそんな練習全然必要なかったってわかるとか、そういうことだ。
 これは実際に登山を始めてからも起こりうることで、最初に山頂だと思っていたところが実は山頂じゃなかったってこともあるかもしれない。

 こんなことが起こるのは、自分の人生を俯瞰して見ることはできないからだ。私がたどり着きたいと思うゴールも、それを達成するためにすべきことも、ここから見えるところしか私には見えていない。

 最初から最終的な到達点が見えていればそこに向かって真っすぐに向かっていけばいい。だけど、私が見える範囲には限りがある。一合目から見える範囲で一番高いところを目指して歩いていても、ある程度歩いてみたらそこよりももっと高いところがあったことに気が付くかもしれない。後ろを振り返って今まで歩いてきた道を見てみたら、ものすごく遠回りしていることに気が付くかもしれない。

 ゴールがどこにあるかわからないうえに、今歩いてる道が間違いかもしれないって思いながら歩くなんて意味あるのかって感じするよなあ。だけど、見える範囲に限りがあるっていう事実はどうしようもないんだから、とりあえず歩き始めるしかないんじゃないかな。歩き始めて初めて間違いや足りないものに気が付くかもしれないけど、それでもスタート地点にいるよりはずっとましだ。

私はいつ準備ができるのか(5)

 森(4)の言うことは間違ってないとおもうけど、それって問題の解決に近づいてるのかな? 森(4)の言うとおり、そもそもやる気がなかったら何も始まらない。それは確か。だけど、気持ちだけでも何も始まらないよね?

 森(4)は森(3)が「人」の準備が大事だと考えるのには賛成っていうけど、森(4)が考える「人」と森(3)が考える「人」にはちょっとズレがあるように見える。森(3)は、地震に備えるために何回も避難訓練をするとか、人の「スキル」を高めることを考えてるみたいだね。一方で森(4)は、人の「心構え」とか「やる気」のことを話している。もちろん、避難訓練には災害に対する意識付けといった意味合いもあるわけだし、森(4)がいう「心構え」がまったく的外れだっていうつもりもない。だけどやる気とか心構えって、「準備」というよりむしろ「前提」のような感じがする。

 人の心構えややる気が〈やりたいこと〉に取り組むうえでの前提である以上、森(4)がそれを大事だと考えたのは正しい。それに、森(2)が、それが欠けているのだとしたら話にならないと考えたのも間違ってない。一方で森(4)が、やる気があることを前提として、物やシステムの準備をしたとしても、結局はその場の状況に応じて動く「人」が重要だと考えるのもわかる。

 そうやって「やる気」は物事に取り組むうえでの前提であって、そのうえで具体的な準備に取り組むものだと考えると、森(4)は森(3)の間違いを正しているようにみえて、順序としてはひとつ前の段階に戻ってしまっているんだよね。やる気や心構えはもちろん大事なんだけど、布団をかぶってコワイコワイって思ってるだけじゃなにも状況が変わらないのと同じように、気持ちだけでは現実は変わらない。

 でも、森(4)が、〈やりたいこと〉の多くは自分で始めるタイミングを決めなければならないと指摘したのはたしかにそうだなって思う。森(3)とかも言ってたように100%準備ができるってことはないんだけど、どこかの段階で終わりのない準備に見切りをつけなくちゃいけない。それがどこか、最低限何%準備ができたら始められるかっていうのがやっぱり問題になってくるのかもしれないね。