モリノスノザジ

 エッセイを書いています

貝がらをひろって歩く

 昨日、小さな劇団の公演を見に行った。
 演劇を見るのは大人になってから初めてだ。いつも省エネ運転で生活している私にとって役者さんのパワーは圧倒的で、すこしくらくらするような気持ちで地下鉄に乗りながら、そのパワーの一部を分けてもらったようにも感じながら帰路についた。

  きっかけは偶然チラシを手にしたことだったのだけれど、幼いころ劇場に通った思い出がなければ行かなかったかもしれない。小さいころ私は、一か月に一度ほど、親に連れられて子ども向けの演劇を見に行っていた。それで私に文化的な素養が身についたとか、芸術に興味を持つようになったとかそんなことはまったくないのだけれど、そういった経験がなければ、大人になってから「演劇を見る」という選択肢が浮かぶことはなかったと思う。

  最近映画を見に行ったり、音楽を聴きに行ったりすることがなくて、それも今回演劇に見に行こうと思った理由のひとつだ。コンサートホールで音楽を聴くのも、演劇を見るのもそんなに安いものじゃない。行ったところでいまひとつピンとこなかったりすることもあるけれど、それでも音楽や本、劇や映画を見ることは大事だと思っていて、少なくとも一か月に一回はそういった機会をつくるようにしている。「自己投資」というと立派に聞こえるけれど、本当にこの経験は役に立つのか?私にはもったいない経験じゃないか?なんて不安になることもある。だけど、実をつけない植物が無駄だなんてはないように、実生活に利益をもたらさない経験のすべてが無駄だというわけでもない。花屋に売られているバラを買っても私の年収は増えないけれど、美しい花を家に飾るだけで私はしあわせになる。それに、私が払ったお金はまわりまわってクリエイターの手にわたる。そうやって、芸術文化の担い手や、まちの文化を守ったり育てたりすることに貢献しているのであれば、たとえ役に立たない経験だったってそれでいいかな、という感じがする。

  劇場に行くと、子どものときに感じた劇場の独特な空気間を思い出して、不思議な気持ちになった。役者さんが歩きまわるときの舞台がきしむ音、舞台が暗転したときのこっそりあわただしい雰囲気に子どもの頃の私はどきどきしていたのだけれど、それは大人になっても変わらなかった。こうやってどきどきしたり、映画の思わぬ展開に驚いたりするとき、こんな経験ができるなんて、人生ってすばらしいなって思う。大人になってわかることはどんどん増えていくけれど、わからなかったことを知って感動したり、美しいものにふれて心を動かす素直さをわすれたくない。


 なにもないまっしろな部屋がある。最初は壁すらないから、もしかしたら部屋ですらないのかもしれない。いつか忘れてしまうことが惜しくって、何度も見に行きたい場所がいつでも見えるように、その場所に窓をつくる。部屋のなかには、生きていく途中で出会った大切なもの、大好きなもの、それを順番にひろって並べていったら、私の部屋はどんな部屋になるのだろう。私は私自身ちっとも特別じゃなく、平凡な生活を送っていて、それでもそれを無駄な人生だといってやめられないのは、それがどうしようもなくオリジナルで、ほかにはない人生だからだ。ひろった貝がらはちっとも役に立ちはしないけれど、美しい貝がらをひろって歩く生活を私はとても楽しく思っている。