モリノスノザジ

 エッセイを書いています

読書感想文後遺症

 義務教育を終えてから10年以上の時が経ったいまでも、私は読書感想文後遺症に苦しんでいる。
 私たちは、読書感想文をはじめとした、日誌や観察記録、学級新聞といった教育文章を繰り返し書かされることによって、ある種の文章の型を仕込まれてきた。それはとりわけ文章の締めに当たる部分で如実に現れる。例えば、「…ことを学びました」という〈学び型〉、「今後は~していきたいと思いました」という〈課題型〉。学校で書かされるありとあらゆる文章をそれなりにうまくこなしてきた私は、日記のようなきわめて私的な文章を書くときですら、これらの型に縛られて書くようになってしまった。例えばある日の日記はこう。

〇月×日
 午後から先週図書館で借りた××の本を読んだ。〇〇を見て気になったので借りてみたけれど、興味をもって読んだので勉強になった。いままでこういうきっかけで本を読んだことはあまりなかったけど、今後は続けていきたいと思う。

 また、無駄に道徳的なムード漂う文章も。

〇月△日
 今日、仕事中に□□が××していた。いつもなら気にしないけれど、今日はそれをみて本当に腹が立った。イライラしたので周りに冷たく接してしまったかもしれない。だけど、□□のそんな様子をみて周りにイライラを振りまくのなら私も□□と同じだ。腹が立つけど、これからはそういうことがないように注意していきたい。

ほんとうは「腹立つ!」しか考えていないくせに、文章を締めにかかることを意識した文章だ。

 こうした日記を書くことの何が問題かというと、書いている私がじわじわとつらい気持ちになることだ。「ああ頑張らなきゃ」「学ばなきゃ」というプレッシャーをほとんどわからないくらいの圧で受け続ける。また、悲しみとか怒りのような行き場のない感情を日記に書いているにもかからわず、そうした生の感情を自分自身ですら受け止めてはくれず、常に「正しい」私に見張られているようにすら感じてしまう。最近はできるだけ事実や評価を加えない感情のみを書くようにしているけれど、これが結構難しい。しばらく治療の必要がありそうだ。

 こうした後遺症がなかなか治らないのはそもそも文章を締めるのが難しいという問題もあるのだけれど、日記のような文章でわざわざ「締め」を意識する必要はないといえばない。文章には「締め」や「まとめ」が必要だという思い込みもまた読書感想文後遺症の症状のひとつなのかもしれない。

  最近社内報でストレス解消法として紹介されていたのが「マインドフルネス」という方法だ。「マインドフルネス」は禅をルーツとしたストレス軽減法で、大まかにいうと「今、この瞬間の体験に意図的に意識を向け、評価をせずに、とらわれのない状態でただ見ること」だという。
 人の心にある考えが浮かんだとき、それには価値判断が伴うことが多い。例えば、「明日仕事休みたい」という考えに対して「休みたいのはみんな一緒だ、我慢するべき」という価値判断が伴っていたり、「××腹立つ」という考えに「そう思うのはよくない」という価値判断が伴っていたりする。
 「マインドフルネス」の方法にはいろいろなやり方があるようだが、簡単に取り入れる一つの方法は、「評価」の部分を切り離して、あるがままの自分の状態を認識することだという。ああ私は「××腹立つ」って思ってるんだな、「疲れた」って思ってるんだな、と認めるだけで心が楽になる。
 少し話は変わったけれど、日記も価値判断を手放して向き合うことを心掛けることで、自分を癒すツールに変えることができるのかもしれない。