モリノスノザジ

 エッセイを書いています

鍵をかけたかわからない

 私の実家は田舎だ。三方を水田に囲まれていて、残る一辺は細い田舎道に面している。その田舎道から家に入るには個人経営の自動車修理店の工場を通り抜けなければならないから、わが家は四方を守られた鉄壁の地と言えるかもしれない。
 そんなわけでわが家は施錠に関する意識が極端にうすい。ありとあらゆる窓、玄関、それによく見たら田んぼに続く裏庭の扉も常時空いている。飼いだした猫が玄関を自力で開けるようになってからは人が中にいるときでも玄関を施錠するようになったのだが、鍵を玄関の外に放置している。それで、玄関前で鍵を発見した宅配業者さんが慌ててピンポンするはめになる。

 そんな田舎意識の影響か、私も一人暮らしの家の鍵をかけたか忘れることがしばしばある。都会で自宅に施錠をしていないことの何よりの問題点は、鍵が開いているばかりに犯罪に巻き込まれる可能性があるということだ。プロの空き巣は集合住宅の扉を手あたり次第に確認して獲物をみつけるとか見つけないとか言うし、あの人もあの人もたまたま家に鍵をかけていなかったばかりに空き巣に入った犯人に殺されたとか殺されなかったとか。
 そのような犯罪に巻き込まれるということを防ぐうえで鍵かけたか忘れることがどのような問題になるかというと、それは帰宅して玄関に鍵がかかっていなかったときに明らかになる。鍵を開けた、と思いきや扉が閉まっている。ということは、私は家を出るときに鍵をかけなかったのか?それとも留守中に誰かが鍵を開けた?開きっぱなしだったということは、すでに仕事を終えて出て行ったということか?それとも今も物色中…?もし犯人がまだ中にいるとしたら、このまま入らずに警察を呼んだほうがいいのだろうか。いやいやそもそも今私は本当に鍵を回したのか?実際には鍵を開ける動作をしていないから開いていないのかもしれない。と、永遠に家に入れなくなってしまう。

 その対策として私が打ち出したのは、鍵かけ行為を意識的に行うことだ。鍵穴に鍵をさして回す、という行為をもはや無意識に行っているのであれば、そこに目立つ目印をつけてやればいい。そういうわけで、鍵をかけた後にはかならずドアを“ゴットン”することにした。こうすれば、“ゴットン”の過程で鍵かけを意識上に浮上させることができる。このようにして私はしばらくの間、鍵をかけ忘れたかもしれないという不安から解放された人生を送っていたのだが、不幸なことにその幸せは長続きしなかった。

 鍵かけを意識するために“ゴットン”していたのだが、ある日私は“ゴットン”したかどうかもわからなくなってしまっていた。“ゴットン”を繰り返しすぎたために、それすら無意識のうちに行うようになってしまったのだ。こうなってしまうと、もはや不安が止まらない。今朝はちゃんと“ゴットン”したつもりだったけど、本当に私は“ゴットン”していたのか?階段を降りたところで、ゴミ捨て場の前で、駅の改札で私は不安になり、仕事どころではない一日。しかもこの「慣れ→無意識」サイクルの恐ろしいところは、仮に“ゴットン”を確認するためのさらなるステップを生み出したところで、それすらいずれ無意識に行うようになる可能性があるという点だ。

 根本的な改善が必要である。

 それにしても、世の中で働く多くの人はミスが許されないわけで、バスの運転手にしても医者にしても、レジのおばさんもどうやってミスを防いでいるんだろう?ひとつの方法は複数人で確認することだ。いわゆるダブルチェックというやつだ。けれど一人暮らしの私には、鍵かけをダブルチェックしてもらう相手がいない。だからこの手は使えない。
 次に思いついたのは、声出し&指さし確認だ。バスの運転手は事故を防ぐために、交差点を曲がるときや車を発進させるときに指さし&声出し確認をしている。実は私も、事務作業のミスを防ぐために日常的に指さし確認をしている。これならば鍵かけにも応用できるのではないか。声に出して確認をすることで、無意識に行う鍵かけを意識の上に浮上させることができる。明日からは鍵をかけてから【指さし】、“ゴットン”して「鍵かけよーし」。

 これでいく。