モリノスノザジ

 エッセイを書いています

私はいつ準備ができるのか(4)

 森(2)と森(3)は、地震に備えた準備についての考え方を「準備すること」一般に適用できると考えているようだが、その類推は間違っている。

 「準備すること」一般について言えることは地震に対する準備についても当てはまるが、その逆もそうだとは言い切れない。たとえば、哺乳類について言えることは人間にも当てはまるけれど、人間が二足歩行をするからといってすべての哺乳類が二足歩行をすると考えるのは誤りだ。

 さらにいえば、私たちが準備すべきさまざまな物事のなかでも、地震、つまり災害はある種の特徴を備えている。それは、災害はそれが起こるタイミングを任意に決められないという特徴だ。災害はいつも人の意思とは無関係に発生する。一方、多くの物事はそれを始めるかどうかを自分の意思で選ぶことができる。

 森(3)は、『どんな準備も万端ではありえない以上、何度も「現実」を繰り返し経験していくなかで…補っていくしかない』と話している。しかし、このように「ある程度準備をしたらあとは仕方がない」と諦められるのは、災害がまさに自分の意思とは無関係に起こるからだ。私は、私が〈やりたいこと〉をしかしいつまでも始められずにいるのは、それを始めるタイミングが自分自身にゆだねられているという点が大きいと思う。自身の考え次第で前にも後にも動かせるから、「準備ができているか?」ということが気になるのだ。

 だから、地震のための備えについて考えたことが「準備すること」一般に適用できると考えるのは間違っている。

 しかし、森(3)が、準備を「物」「システム」「人」の三つに便宜上分けたうえで、最終的に「人」が最も重要であると考えたことには同意する。〈やりたいこと〉は私が始めない限りは始まらない。だから、私にやる気がどれくらいあるか、本気で取り組むつもりがどれくらいあるか、という心構えが重要になってくるのだ。森(2)はこの問題を早々に切り捨てていたが(② 本気じゃないので取り組めない、③ 真面目に取り組むのが恥ずかしい)、むしろ私は②や③といった気持ちの側面を高めていくことが重要だと思う。

私はいつ準備ができるのか(3)

 森(2)の提案はとてもいいと思う!「準備ができていない」ってつかみどころがなくてどうやって考えたらいいのかわからなかったけど、地震に置き換えるとわかりやすくなった。だから、このまま続きを考えてみたいと思う。

 まずは①の「やり方を知らない」から。これはつまり、「何を準備すればいいのか知らない」っていうことだろうか。

 地震のことに関していうと、今の私なら、この問いに対する答えをある程度持っている。例えば、非常用の食料や避難時に役に立つ道具を備えておくこと。緊急時の連絡方法を事前に家族と話しておくのも大事かもしれない。普段から避難訓練をしておけば、いざというときにも慌てずに避難することができる。

 こうやって答えの側から考えてみると、一口に「準備」っていってもいくつかの種類があるみたいに思える。試しにいくつかに分類してみたら、少しでも考える助けにならないだろうか?たとえば、「物」の準備と「システム」の準備、そして「人」の準備。パソコンで何かをしようとするときに、物(ディスプレイやキーボード)とシステム(ソフトウェア)、そして操作する人が必要なのと同じように、地震が起こったときには物資や機材とそれを動かすための体制、そして何よりもそれを使って実際に対応に当たる人が必要だ。

 こうやって「準備」を便宜的にみっつに分けてみると、何を準備すればいいのか、やみくもに考えるよりはいいような気がする。

 けれどそれにしたって、「物」にしても「システム」にしても「人」にしても、どれだけ準備すればいいのかっていうのは確かに問題だよね。⑧だ。「現実」はいつも教科書どおりなわけじゃないから、いくら準備をしてもし足りない。だけど、あらゆる可能性を考慮してすべてを準備するというのは不可能だ。地震に備えることだけに専念して生きてるのならできるのかもしれないけど、私はそのほかにも仕事をしたり遊んだりしながら生きているわけで、そういった生活とも両立させながら準備をしなければならない。

 そう考えると、どんな準備も万端ではありえない以上、何度も「現実」を繰り返し経験していくなかで(あるいは、過去の経験から学んで)、状況に応じて判断する力を養って、準備不足な部分は補っていくほかないのかもしれない。地震に関して言うと、何度も繰り返し経験して学ぶ、なんて避けられるのであれば避けたいものだけど。

私はいつ準備ができるのか(2)

 「準備ができてない」っていうのはたしかに不安なことだよね。

 高校を卒業するまで私が住んでいた地域は、30年以内に50パーセントの確立で大地震が発生すると言われてきた。幼かいころの私は、いつか地震が起きることやそれによって家族や周りの人が傷つくことをとても恐れていた。眠っている間に地震が起きるんじゃないかと不安で、真夏でも布団を頭までかぶらないと眠れなかった。

 いま思えば、この不安は「準備ができていない」ことの不安だったんだと思う。靴を枕元に置いておくなり落ちそうな物は床に下ろしておくなり、何か準備をしてさえいれば、私はぐっすり眠れていたはずだ。じゃあどうして、私はそれができていなかったんだろう?

 たとえば、私は幼かったので、靴を枕元に置くというような方法を知らなかったのかもしれない。避難用の靴を買うだけのお金がなかったのかもしれない。もしかしたら、怖い怖いって言いながら本当に地震が起きるなんて信じていなかったのかも。靴を置くことで「地震怖いの?」ってきょうだいに笑われるのが嫌だったのかもしれないな。想像しづらいけど、ほんとうは地震が起きたら助からないような状況で眠ることにスリルを感じていたのかもしれない。

 そうすると、私がいま「準備ができていない」のも例えばこんな理由なのかもしれない。

① 方法を知らなかった
② 本気じゃなかった
③ 真面目に取り組むのが恥ずかしかった
④ 方法は知っていたものの、準備するお金がなかった
⑤ 方法は知っていたものの、準備する時間がなかった
⑥ 不安に思いながらも、一方で不安な気持ちを楽しんでいた
⑦ 方法は知っていたものの、その方法が正しいかわからなかった
⑧ どれだけ準備をしたら十分なのかわからなかった

 ②や③が一番大きな理由なのだとしたら、もうそれ、やらなくていいんじゃない?と思う。なので、②と③は今回は無視することにする。一応ささやかなお金とそれなりの時間はあるものとして④と⑤もパス(お金がないのはどうにもならないしね)。⑥も⑥で、私がもし不安な状態を楽しんでいるのだとしたら、それを解消する必要がない。これもいったん無視することにする。

 そうすると、私が〈やりたいこと〉に取り組むためには、ひとまず①・⑦・⑧の問題について考えてみるのがいいんじゃないだろうか?やりかたを知らない場合はどうしたらいい(①)?この方法は合ってるの(⑦)?どれだけやっておけば大丈夫(⑧)?
 どうだろう?

私はいつ準備ができるのか

 またやってしまった。時計のかたちを確かめてため息をつく。今ごろ洗濯機のなかでは、洗濯物がすっかりなまあたたかくなっているんだろう。ほんの少しの時間のつもりだったのに、いつの間にこんなに経っていたんだろう?こうやって、スマホでネットやゲームをしているうちに時間が経ってしまい、後悔することがしょっちゅうある。

  10年前はまだスマートフォンを持っている人のほうがめずらしかった。大学三年の夏、iPhone3Gを手に入れた先輩が、研究室でフリック入力を自慢げに披露していたのを覚えている。世間一般ではどうだったかわからないけど、私が所属する研究室では初めてスマートフォンを手にした人間だった。
 黎明期のスマホに〈ガラケーにはできなくてスマホにできること〉や〈あえてスマホを持つ理由〉がどれほどあったのか。当時はあまりよく知らなかった。手元の携帯もまだまだ現役だったので、私がスマホを手にしたのはそれから数年経ってからだったと思う。けれど今はもう、スマホを持つまで自分がどうやって生活していたのかわからない。携帯でネットって見れたんだっけ?外出先で地図を見るとかできなかったの?ガラケーでもゲームとかあったんだっけな?かつてはドライブ中道がわからなくなったら紙地図を広げて現在地を探すところから始めなければならなかったし、ゲームをするには初めにいくつものケーブルとゲーム機をつなぎ合わせなければならなかった。そういう点では、スマホはいろんなことを手軽にしたんだと思う。

 そして私は、気が付いたらスマホを使って手軽にできるあれこれと、そのほかの特にやりたくもないことで毎日の空白を埋めながら、本当に〈やりたいこと〉を先送りにして生活するようになっていた。

 もちろん、私が〈やりたいこと〉をやらない生活をしている原因はスマホだけじゃない。どこかに「まだ準備ができていない」という感覚がある。スマホから顔を上げて初めて時間の浪費に気が付くのと同じように、過去の自分はいつだって愚かだった。これまでに自分が〈完全に間違っていなかった〉ことがなかった以上、現在の自分が〈完全に間違っていない〉ということがありうるだろうか?私は今も気が付いたらスマホに熱中してるんじゃないかってそれが不安で、ずっと「準備ができていない」。

 いったい私は、いつになったら準備ができるんだろう?