モリノスノザジ

 エッセイを書いています

それもラブ、これもラブ

 伝説のアンチRPG、なんて呼ばれているらしい。ドラクエとかFFとか、いわゆる王道のRPGに対して「マニアック」だとか「知る人ぞ知る」ゲームと思われていたmoonは、その内容もまた王道のRPGに逆らうものだった。

 テレビゲームの世界に入ってしまった少年は、勇者が殺したアニマルの魂を救い、住人たちと心をかよわせることで「ラブ」という経験値を集めていく。眠りのなかで語りかけてくる謎の女性の助言に従って、少年はラブを集める冒険の旅に出かけるのだった。「さあ、あなたの力で扉を開けて」。真のエンディングにたどり着き、「扉を開ける」ことの意味を知ったとき、プレイヤーはこのストーリーに隠されたメッセージを気がつくことになる。

 

 そのmoonがSwitchに移植されることが決まったのは去年のこと。10年以上前からファンであり続けている私も、このニュースに驚き、喜んだ。たくさんのファンがいてもやがて過去になってしまうタイトルがたくさんあるなかで、新しいニュースを聞けるというのは言葉にできなくらいのうれしさがある。さらにうれしいことに、Switchでの移植販売が決まった後も、サウンドトラックにコンプリートボックス、フィギュアにオリジナルキャップ等々のグッズ販売が続々と発表された。ファンにとっては歓喜の1年である。

 

 いかに好きなコンテンツでもグッズは買わないと決めている私。サウンドトラックとコンプリートボックスはまあ買うとして、フィギュアとキャップに困りに困る。グッズのキャップなんて使いようないし。と、いつもなら切り捨ててしまうものなのだけれど、このキャップのデザインがファンにとってはたまらないのである。少年がアニマルの魂をキャッチするときの〈catch〉の文字。カラフルで粘土みたいにかわいくて、プレイ中何度と見てはよろこんだ記憶が刷り込まれた文字。グッズと言えどもこれを手にせずしていられるものか⁉

 …というわけで、キャップは勢いに任せてポチリ。フィギュアにはかろうじて手を出さずにいるけれど、その自制心だっていつまでもつかわからない。

 

 身近なところにmoonファンがいなくて本当によかったと思う。近くに同志がいたら、どこまでグッズを持っているかで張り合うような不毛な戦いに身を染めていたかもしれない。でもきっと、好きなアニメやアーティストのグッズを買いまくるファンのなかにはそういう人だっているに違いない。好きだけどマグカップはいらないなー、なんて人もいていいのだし、別にみんながみんなすべてを買い集める必要はない。持っているグッズの数で愛は測れない。と頭では思うのだけれど、近くに仲間がいたらそう冷静にもなれないかもしれない。同志が身近にいなくてよかった。

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 とはいえ、気になるは気になってフィギュア販売の特設ページにアクセスしてみる。スマホ画面のなかにはあの日みた少年が、moonの世界そのものが映し出されていて、なんだか心がギュッとした。このポリゴンの感じ。文字の感じ。変わらない。

 moonの世界には、そして、moonに続くいわゆるラブデリック系のゲームには、エンディングを迎えた後になってずっとこの世界にいたかったと思わせる何かがある。真のエンディングを迎えてゲームを終えたとき、moonの世界もまた終わってしまう。単にゲームをクリアしたというだけではないのだ。エンディングを迎えたとき、moonの世界は過去のものになってしまう。そのことに気がついたとき、ひどく何かがかけたような気持ちになる。

 

 こうしていろいろなニュースが聞けるのはうれしいことではあるけれど、完全版が出るということは、この先はないということの裏返しでもある。私はふたたびmoonを失ってしまうんだな、という気もありつつ、こんなに素敵な終わり方をファンに与えてくれてありがとうという気持ちもありつつ。プレミアムエディションが届いたら、久しぶりにmoonの世界に落ちよう。そして、何度目のエンディングを迎えるまでmoonの世界を大事に過ごそう。ふたたび私がこの世界を失うまでは。

 

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PSソフトゆえ入手が難しかったmoonも、ずいぶん手軽にプレイできるようになりました。昔のゲーム、なんて言わずに、興味を持っていただけるととてもうれしいです。

moon-rpg.com

「ご報告があります」

 新型コロナでニュースは毎日ブルーだけれど、どういうわけだかここのところ芸能界におめでたいニュースも多いような気がする。…と書いておきながら、具体的には誰だったっけ?と、調べてみたら知ってる人も知らない人もたくさんご結婚されていた。考えてみれば、芸能人だって人なのだ。だから、人並みに結婚したり子どもができたり病気したり恋愛したりもする。そのうちの一部が一部の報道番組やなんかに取り上げられて、私のような赤の他人の耳にも入るというだけで。

 

 芸能人の結婚報告でふしぎなのは、というか結婚に限らず芸能人の報告全般かもしれないけれどふしぎなのは、彼ら/彼女らが手書きの報告書(?)をしばしば用いることだ。当然ながら、見ず知らずの芸能人から私のところへ直接お手紙がくることはありえない。たとえばその芸能人のTwitterアカウントや公式HPで結婚の報告がなされ、それを受け取ることによって結婚の事実を知る。

 報告にあたっては、シンプルに文章を掲載すればよい。Twitterならいつものツイートと同じように、HPならいつものお知らせと同じように。Twitterでの文字数規制の問題で画像を用いるとしても、ワープロで打ち込んだ文章を画像化すればよい。けれど、これがときどき手書き文書であることがある。紙に手で書いた文書をスキャンして、電子データ化したものを使用するのだ。もとから電子媒体で発表するとわかっていながら、あえて紙に書いてスキャンするというひと手間をかませる理由はなんだろうか?

 

 当然ながら、一字一句同じ文章を書くのであれば、ワープロで打つのと鉛筆で書くのとに変わりはない。「トマト」と鉛筆で書けば自転車を、ワープロで打てば青りんごを指す。なんてことが起きているとすれば、文字によるコミュニケーションは相当に混乱する。何を使ってどう書かれようと同じ言葉は同じ物を意味するというのが、言葉のお約束なのだ。

 

 紙に鉛筆、あるいはペンで何かを書くとすると、文字以外の物も書くことができる。レイアウトだって自由自在だ。文字を斜めに書いたり、折り返したり、イラストを挟んだり、間違えた文字が消えずに残っていたり。しかし、たいていの結婚報告はシンプルに文章を紙に記しただけで、そうした類の装飾が加えられていることはほとんどない。とすれば、これも違う。

 

 一番想像がついて、一番ありえそうなのは「手書きのほうが心が伝わる」という理由だ。PCで作成した履歴書がマナー違反だなんて話を聞くとばかばかしいなあと感じるけれど、ワープロで打ったのを便箋に差し込み印刷したラブレターをもらう場面を想像すると、まあ、気持ちはわからなくもないかもしれないとも思う。

 文面を考えるのに費やした時間が同じでも、手書きのほうが直にその痕跡がみえるというのか、「心が伝わる」なんて具体的に何がどうなるのかわけのわからない言い分だけれど、なぜだかジーンときてしまうのが人間なのだ。結婚報告もしかり、単なる事務連絡ではなくて、報告相手(つまり私)に対する思いというのか、まあ、心がこもっているような感じがするのだろうね。

 

 というわけで芸能人の方々は心を伝えるために手書きの報告書をWEB上で公表されるのでしょうけれど、こうして手書きでないかたちで日々記事を書いているわれわれブロガーはどうなだろう。「手書きのほうが心が伝わる」なんて言われちゃったら、手書きしたら何がどうなるというのか試してみたくなる。もしかしてものすごく皆さんに心が伝わって、バーン!でジーン!な感じになっちゃったりするのではないだろうか。

 といっても、数千字にわたる記事をすべて手書きにしたら重いだろうし(仮にきれいな文字だとしても)ウザいだろうし、とても現実的ではない。ここぞというときに書くかな、って思ったけど、ブロガーのここぞ報告っていったいなんなのだろう?結婚報告もしないだろうし。今年も無事ボーナスがもらえました!てのもヘンだし。トイレ直りましたよ~ってのもおかしいし。…でも、それはちょっと楽しそうかも。
 

(追記)手書きでつぶやいてみた。

髪の中庸

 多すぎるのも少なすぎるのも、それぞれ尽きない悩みがあって、それは何事も。

 

 お金がたくさんありすぎる人の悩みなんて想像したくてもしようがないけれど、金はあればあるほどいい、なんて言いはしても、実際にお金があればあるでいろいろ大変なことがあるんだろう。お金持ちだと人に知られたら、お金目当てでろくでもない輩が近づいてくるかもしれないし、日常的に身の危険を感じるとか、そうやって他人をやすやすと信じられなくなったりということもあるのかもしれない。一夜にして銀行が破綻したり、株券がただの紙切れになったりすることもある世の中だから、手元にあるお金をどうやって管理するかということも問題だ。

 それに、いまお金があるということは、いつかそのお金がなくなるかもしれないという恐怖と絶えず対峙し続けることでもある。もともとお金がなければなんともなることだって、元がお金持ちなら耐えられないことがあるだろう。それを覚悟しながら生きる。お金持ちもなかなか大変だ。

 

 一方で、お金がないもやはり大変だ。自分自身で味わったことがなくても、(かつての)職業柄それがどんなことが想像することはできる。仕事を探そうにも、家を探そうにも携帯電話がない。料理をするためのガスコンロが買えなくて、毎日インスタント食品ばかり食べている。久しぶりに話す妹に金を貸してくれと頼んだら、「あなたのような人は知らない。もう連絡しないでほしい」と言われる。…もう、これくらいにしておこう。何事も中庸が重要だ。

 

 お金も容貌も友達も多すぎるほどには持っていない私が、たくさん持っているとすればそれは髪だ。幼いころから切って捨てるほどに生い茂っていて、今でもぶあつく私の頭を覆っている。髪なんて多くてもいいじゃないの、なんて言わないでほしい。これでも困っているのだ。多すぎる髪は人を幼く見せるし、なにより手入れが大変だ。梅雨時期は毎朝目覚めるたびに火焔土器のようなかたちに爆発していて、そのボリュームを抑えるだけで苦労する。夜は夜でこいつを乾かすのにたいそう時間がかかる。かといって、乾かさずに放っておけば翌朝にはスーパー火焔土器の出来上がりだ。夢のなかでじっくり焼かれて、しっかり硬いやつだ。やっかいだ。

 

 頭髪の爆発を気にする毎日がこれからも続くのかと思うとうんざりする。頭髪のことを考えるネガティブな時間を、もっといいことに使いたいのだ。たとえばプリンを食べるとか、小説を読むとか。いっそのこと、いっさいの髪を捨ててはどうだろうか?――とはいうものの、多すぎても少なすぎても困るのが世の理。なんてったって、髪は少なくて困っている人のほうが圧倒的に多いのだから、少ないのは少ないでやっぱりいろいろ苦労があるんだろう。今までのファッションが似合わなくなるとか、頭皮が直に太陽で焼けて痛いとか。わからないけど。

 

 それならば、かつらをかぶって生活するのはどうだろうか。見た目は髪がある今と変わらない。でも、生活は大きく変わる。髪質のせいでできなかったあこがれの髪型になってみる。日替わりだってOKだ。パーマもヘアカラーも、今までしたことがなかった髪型に自由に挑戦して、髪の痛みを気にする必要はない。今日のドライヤーの出来栄えとか、朝目覚めたときの頭の爆発具合についての憂いから解放されて、朝のヘアセットはかつらを頭にのせるだけで終了。浮いた時間でプリンを食べる。これって意外とありじゃない?

大人買いのキラキラ

 ちょっとした用事で駅裏まででかけたあと、そのあたりにケーキ屋さんがあることをふと思い出して、なんのお祝いでもないけれどケーキを買って帰ることにした。

 店内には50代くらいの男性が一人いて、ずいぶん迷ってから果物入りのロールケーキをふた切れと、チョコレートケーキをひとつ、ベリーのムースをひとつ買って店を出ていった。私はやっぱり迷って、ロールケーキをひと切れとエクレアをひとつ選んだ。家に帰ってもどうせ一人なのに、いつもふたつ以上のケーキを買ってしまうのはただの見栄だ。店員さんにはすべてわかっているのかもしれないけれど。

 

 ケーキがふたつ入った小さな紙袋は、片手に下げて歩いたら家に帰るまでにばらばらになってしまいそうなくらい頼りなくて、だから両手で持って帰った。手のひらで眠る小さな生き物を、起こさないように注意して運ぶみたいに。ふいにレジで支払った金額を思い出した。640円。これが、640円か。なんだ、月1でも全然いけるな。――っていうか、ケーキってもっと高級で、特別で、特別な日にしか食べられないものじゃなかったか?

 

 月のおこづかいが500円だった頃は、640円を貯めるのは大変なことだった。500円のなかから漫画が買いたいし、友だちとガチャガチャを回したい。お弁当箱とかバナナとか、わけのわからないかたちの消しゴムを集めたいし、お菓子だってほしい。500円なんてすぐに消えてしまうのだ。おこづかいが5千円になった高校生でも、月5万円の仕送りをもらって一人暮らしを始めた大学生でも、2コで640円のケーキは気軽に食べられるものではなかったと思う。

 

 いまだってそんなにたくさんの収入があるわけでもない。だけど、さすがに小学生のころや大学生のころとは変わった。回転寿司でお腹いっぱい食べて2千円なら、なんだ、この程度かって思うし、ケーキも4つくらいなら平気で買えると思う。ケーキを4つも買うなんて、子どものころの自分からすれば相当な夢だったはずだ。気になっている漫画を一気に全巻揃えるとか、金曜日の夜にポテトチップスを大量に買い込んでお菓子三昧するとか、そういう子どものころ夢見た大人買いがぜんぶ、ケーキ4つと同じくらい手の届くところまできてしまった。大人買いはもうキラキラじゃない。

 

 ずいぶん悩んだあげく4つのケーキを買っていった男性のことを思い出す。おじさんが4つもケーキを食べるわけがない。なんて決めつけるわけじゃないけれど、きっとあのケーキはおじさんがすべて食べるわけじゃないだろう。もうキラキラしなくなった大人買いをするのに、あそこまで迷う必要もない。ましてや、私よりずっと年嵩のおじさんだ。あのくらいの年齢になったらきっと、キラキラしないどころか、毎日お風呂に入れるバブの種類を選ぶみたいに気軽に、ケーキだって選んでしまえるに違いない。悩むおじさんの向こうにいたのはもしかしたらおじさんの家族かもしれなくて、私が一人で食べるための大人買いと比べて、なんて素敵な大人買いなことだろうと想像した。

 

 私のクリスマス・イヴには毎年決まった予定があり、それは、デパートで注文したホールケーキを一人で平らげることだ。そして、クリスマスにも決まった予定があり、それは、イヴに食べたホールケーキで腹を壊して寝込むことだ。エクレアとロールケーキをいっぺんに食べた私は、そのきっかり2時間後にお腹を壊し、30分間トイレにこもった。やっぱり大人はキラキラじゃない。

耳のライフは1

 私の部屋にはブタがたくさんいる。と言っても、ほんものの豚ではない。ミニブタは犬や猫と比べてもふもふした毛が生えているわけじゃなくて、人間の肌みたいにしっとりとしてそれはさわりごこちがいい(さわったことはないけど)。けれど、私の安月給では子豚一匹養うこともできない。そこで、生きた豚の代わりに置きもののブタを飾っているというわけだ。

 軽い気持ちでもブタ好きを公言するとなにかとブタが集まってくるもので、洗面台には番いのブタ、本棚には友達がカンボジアで買ってきたエキゾチックな金のブタ、ソファにブタの抱き枕、ファブリーズをカバーするブタ、TV台の下を開けばDVDの隣にブタ、と部屋のあちこちにたくさんのブタがちりばめられている。これでも引越しのたびにすこしずつさよならしてきた結果なのだ。

 

 そんなブタたちのなかでも、最近特に気になっているブタがいる。玄関に置いている素焼きのブタだ。どこかのイオンのチャイハネで買ったもので、脚が三本しかない。なにも私が怒りに任せてへし折ったとかいうわけではなく、店頭で売られているときから三本だったのだ。幸せの三本足の豚と言うらしい。

 そのとき読んだ説明文によると、こんな言い伝えがあるらしい。南米チリのある村で、干ばつで食べるものがなくなり、人々は飢えに苦しんでいた。人々は、飼育していた豚の足を切って分け合うことでなんとかその危機を乗り越え、以来三本足の豚は幸運の象徴となったという。そういうわけで、三本足の豚を模した置物が幸運を呼ぶお守りとして今でもつくられているのだ。

 

 人間からしてみれば困ったときに救ってくれた幸運の豚だけれど、豚にしてみればどんなものだろう。なんだかよくわからないけど足を一本切り取られ、なんだかわからないけどそのことを尊い犠牲だとか言って人間たちが祭り上げる。そんなことを言うと、そもそも家畜として人間に(いずれ)食べられるために育てられている豚たちはどうなるのかとか、そもそも動物のいのちを食べるのはどうなのか、なんて難しい話になってしまいそうだけれど、この話、チリの豚たちの間では別の伝承として子々孫々伝え継がれているかもしれない。

 

 わが家にある三本足のブタの話に戻ると、わが家の玄関には2体のブタがいる。脚はそれぞれ三本ずつ、そして、脚以外は五体満足なはずのブタなのだけれど、よく見るとすこしずつ欠けているのだ。

 欠けているのはブタたちの耳。いつのまにか大きい方のブタの耳が両方欠けてなくなっていて、気がついたら小さい方のブタの耳も片方欠けて落ちている。ちなみに、そのブタは玄関に置いてあるだけでほとんど手を触れたりしない。細かいパーツから劣化して壊れてきているのかもしれないけれど、豚の脚一本と引き換えに人間が生き延びたという言い伝えがあるだけに、なんとなく心配だ。最後の耳が落ちた後、いったい何が起こるのだろうか?耳のライフはのこり1。