モリノスノザジ

 エッセイを書いています

耳のライフは1

 私の部屋にはブタがたくさんいる。と言っても、ほんものの豚ではない。ミニブタは犬や猫と比べてもふもふした毛が生えているわけじゃなくて、人間の肌みたいにしっとりとしてそれはさわりごこちがいい(さわったことはないけど)。けれど、私の安月給では子豚一匹養うこともできない。そこで、生きた豚の代わりに置きもののブタを飾っているというわけだ。

 軽い気持ちでもブタ好きを公言するとなにかとブタが集まってくるもので、洗面台には番いのブタ、本棚には友達がカンボジアで買ってきたエキゾチックな金のブタ、ソファにブタの抱き枕、ファブリーズをカバーするブタ、TV台の下を開けばDVDの隣にブタ、と部屋のあちこちにたくさんのブタがちりばめられている。これでも引越しのたびにすこしずつさよならしてきた結果なのだ。

 

 そんなブタたちのなかでも、最近特に気になっているブタがいる。玄関に置いている素焼きのブタだ。どこかのイオンのチャイハネで買ったもので、脚が三本しかない。なにも私が怒りに任せてへし折ったとかいうわけではなく、店頭で売られているときから三本だったのだ。幸せの三本足の豚と言うらしい。

 そのとき読んだ説明文によると、こんな言い伝えがあるらしい。南米チリのある村で、干ばつで食べるものがなくなり、人々は飢えに苦しんでいた。人々は、飼育していた豚の足を切って分け合うことでなんとかその危機を乗り越え、以来三本足の豚は幸運の象徴となったという。そういうわけで、三本足の豚を模した置物が幸運を呼ぶお守りとして今でもつくられているのだ。

 

 人間からしてみれば困ったときに救ってくれた幸運の豚だけれど、豚にしてみればどんなものだろう。なんだかよくわからないけど足を一本切り取られ、なんだかわからないけどそのことを尊い犠牲だとか言って人間たちが祭り上げる。そんなことを言うと、そもそも家畜として人間に(いずれ)食べられるために育てられている豚たちはどうなるのかとか、そもそも動物のいのちを食べるのはどうなのか、なんて難しい話になってしまいそうだけれど、この話、チリの豚たちの間では別の伝承として子々孫々伝え継がれているかもしれない。

 

 わが家にある三本足のブタの話に戻ると、わが家の玄関には2体のブタがいる。脚はそれぞれ三本ずつ、そして、脚以外は五体満足なはずのブタなのだけれど、よく見るとすこしずつ欠けているのだ。

 欠けているのはブタたちの耳。いつのまにか大きい方のブタの耳が両方欠けてなくなっていて、気がついたら小さい方のブタの耳も片方欠けて落ちている。ちなみに、そのブタは玄関に置いてあるだけでほとんど手を触れたりしない。細かいパーツから劣化して壊れてきているのかもしれないけれど、豚の脚一本と引き換えに人間が生き延びたという言い伝えがあるだけに、なんとなく心配だ。最後の耳が落ちた後、いったい何が起こるのだろうか?耳のライフはのこり1。