モリノスノザジ

 エッセイを書いています

髪の中庸

 多すぎるのも少なすぎるのも、それぞれ尽きない悩みがあって、それは何事も。

 

 お金がたくさんありすぎる人の悩みなんて想像したくてもしようがないけれど、金はあればあるほどいい、なんて言いはしても、実際にお金があればあるでいろいろ大変なことがあるんだろう。お金持ちだと人に知られたら、お金目当てでろくでもない輩が近づいてくるかもしれないし、日常的に身の危険を感じるとか、そうやって他人をやすやすと信じられなくなったりということもあるのかもしれない。一夜にして銀行が破綻したり、株券がただの紙切れになったりすることもある世の中だから、手元にあるお金をどうやって管理するかということも問題だ。

 それに、いまお金があるということは、いつかそのお金がなくなるかもしれないという恐怖と絶えず対峙し続けることでもある。もともとお金がなければなんともなることだって、元がお金持ちなら耐えられないことがあるだろう。それを覚悟しながら生きる。お金持ちもなかなか大変だ。

 

 一方で、お金がないもやはり大変だ。自分自身で味わったことがなくても、(かつての)職業柄それがどんなことが想像することはできる。仕事を探そうにも、家を探そうにも携帯電話がない。料理をするためのガスコンロが買えなくて、毎日インスタント食品ばかり食べている。久しぶりに話す妹に金を貸してくれと頼んだら、「あなたのような人は知らない。もう連絡しないでほしい」と言われる。…もう、これくらいにしておこう。何事も中庸が重要だ。

 

 お金も容貌も友達も多すぎるほどには持っていない私が、たくさん持っているとすればそれは髪だ。幼いころから切って捨てるほどに生い茂っていて、今でもぶあつく私の頭を覆っている。髪なんて多くてもいいじゃないの、なんて言わないでほしい。これでも困っているのだ。多すぎる髪は人を幼く見せるし、なにより手入れが大変だ。梅雨時期は毎朝目覚めるたびに火焔土器のようなかたちに爆発していて、そのボリュームを抑えるだけで苦労する。夜は夜でこいつを乾かすのにたいそう時間がかかる。かといって、乾かさずに放っておけば翌朝にはスーパー火焔土器の出来上がりだ。夢のなかでじっくり焼かれて、しっかり硬いやつだ。やっかいだ。

 

 頭髪の爆発を気にする毎日がこれからも続くのかと思うとうんざりする。頭髪のことを考えるネガティブな時間を、もっといいことに使いたいのだ。たとえばプリンを食べるとか、小説を読むとか。いっそのこと、いっさいの髪を捨ててはどうだろうか?――とはいうものの、多すぎても少なすぎても困るのが世の理。なんてったって、髪は少なくて困っている人のほうが圧倒的に多いのだから、少ないのは少ないでやっぱりいろいろ苦労があるんだろう。今までのファッションが似合わなくなるとか、頭皮が直に太陽で焼けて痛いとか。わからないけど。

 

 それならば、かつらをかぶって生活するのはどうだろうか。見た目は髪がある今と変わらない。でも、生活は大きく変わる。髪質のせいでできなかったあこがれの髪型になってみる。日替わりだってOKだ。パーマもヘアカラーも、今までしたことがなかった髪型に自由に挑戦して、髪の痛みを気にする必要はない。今日のドライヤーの出来栄えとか、朝目覚めたときの頭の爆発具合についての憂いから解放されて、朝のヘアセットはかつらを頭にのせるだけで終了。浮いた時間でプリンを食べる。これって意外とありじゃない?