モリノスノザジ

 エッセイを書いています

さんまのひと

 最近なんとなくふしぎなことがあって、蛍光ブルーの破片が歯に挟まっている。歯磨きをしてフロスをかけると、歯と歯の間から小さな蛍光ブルーがこぼれてくるのだ。もちろん、蛍光ブルー色の食物なんて食べた覚えはない。アメリカンな色彩のキャンディも、M&M’sのブルーも食べていない。ひょっとして、私の体内で生成されているのだろうか?いずれにしても、はっきりとした原因がわからない。原因のわからないことが自分の体内で起きているということは、なんだかすっきりしないものだ。

 

 すっきりしない心を安定させるには、生活のリズムをつくることが大切だ。そういうわけでもないんだけれど、この時期の私にはルーティンがある。帰りの電車から降りると、毎日スーパーマーケットに向かう。入り口を入ってすぐ、野菜売り場や果物売り場を冷やかしたあとで向かうのは鮮魚コーナーだ。発泡スチロールのなかで氷水に浸かっている魚たちはちょっと独特なにおいを発していて、このにおいが私は苦手だった。魚の生臭さが嫌いだった私は、一人暮らしを始めるまでの約20年間もの間、スーパーマーケットでは鮮魚コーナーをかたくなに避け続けていたのだった。それが今となっては毎日ここに通い詰めている。あの頃の私にはとても想像がつかなかっただろう。

 

 鮮魚コーナーで選ぶのは、パック詰めされずに氷水に浸かっている魚。トングを握って、まずは箱のなか全体を見渡す。くちばしが黄色くてできるだけ瞳がきれいな個体を選んだら、他の魚たちを傷つけないようにそっと水面をかき分け、身体の中央あたりをトングで挟む。持ち上げる。全身がダラっとならずにピンと張っていれば最高だ。そうやって選び抜いたサンマを袋に入れて、私は今日もレジに向かう。

 

 例年この時期になると毎日やってきてはサンマを一尾買っていく私のことを、店員が「サンマの人」と呼んでいてもおかしくはない。毎日サンマを食べることは決して恥ずかしいことではないのだが、それでも私にだって多少の恥じらいはある。できるだけ連続で同じ店員のレジに並ばないように十分注意して、並ぶレジを選択する。それにしたって、3日に一度サンマを買いに来る人だって十分「サンマの人」なのであるし、むしろそういった小賢しさがおかしいような気もするのだけれど、こんな私でもやっぱり連続は恥ずかしい。

 

 そういうわけでいろんな店員にサンマを売ってもらううちに、気がついた。店員によってサンマの数え方が違うのだ。ある店員は「サンマが一尾」。うむ、一尾。別の若い店員は「サンマが一匹」。お?まあそうとも言うか。別の店員は「サンマが一個」。一個?さらに別の店員は「サンマが一点」。…うーん、まあ正しいんだけどなんだかな。

 

 毎年1カ月以上サンマを食べ続けていると、サンマの焼き方にも発見がある。別にこだわりはないんだけど、このあいだネットで見た焼き方は短時間でパリッと火が入ってとてもよかった。

 ① 水で洗って水けを取る

 ② 塩を振って15分おく

 ③ あらかじめグリルをあたためておく

 ④ 表面の水分を軽くぬぐって、表面に焼き色がつくまでグリルで焼く

 塩を振ることで余計な水分が抜けるのか、②の15分があるのとないのとで焼き時間がぐっと変わる。

 

 ついでに言うと、塩を振って15分おいた後のサンマにはふしぎなことが起こる。サンマの水分を吸うためか、塩が膨張してやけにきらきらして、塩の乗っていたサンマの表面が蛍光ブルーに輝くのだ。私の歯に挟まっていた蛍光ブルーの破片は、もしかしたら塩に水分を吸われたサンマのうろこだったのかもしれない。頭から蛍光ブルーの星が落ちてきて目が覚めた気分、というか、目からうろこって感じである。

 サンマを食べることって、毎日が発見の連続だ。

 

ご近所ドラマチック

 どうやらここのところご近所に赤ちゃんが住んでいるらしく、朝といわず夜といわず泣き声がきこえてくる。熱帯夜が続いた半月前頃はとくに夜泣きがひどかったようで、まあ私はうるさければ耳をふさぐこともできるし、ただゴロゴロしながらうなっているだけなのだけれど、赤ちゃんが泣くたびに起こされてはあやしたり世話をしたりするパパ&ママのことを考えると子育てというのは本当に大変なのだなあと思う。

 

 ふしぎなのは赤ちゃんの声が時間帯によっていろいろな方向からきこえてくることで、昼間は東からきこえてくると思えば、夜は西のほうが大きくきこえる。それも、お昼にはずいぶん遠くで泣いているみたいだ。これはもしかして、近所に同時多発的に複数の新生児が生まれたのでは?と考えたこともあったのだけど、おそらくは同じ建物で泣いている赤ちゃんの声が向かいの建物に反響しているのだろう。でなければこの少子化真っ只中の世にあって、こんなに狭い範囲に同時期に子どもが生まれるというのもふしぎだし、なにより昼間しか泣かない東の赤ちゃんと夜しか泣かない西の赤ちゃんというのは変だ。そう考えて納得することにする。

 

 建物に反響してきこえてくるのは赤ちゃんの声だけではない。夜中、女性が泣いているような声がきこえてうっすらと意識が現実に引き戻される。私に霊感はないし、もちろん幽霊の声ではない。それがどういう声なのか気がついたとき、私はつい目を覚ましてしまったことを後悔する。きいているとこっちまで興奮してくる、ということもない。ああいうときの女性ってどうして泣いているみたいな声を出すんだろう、とか、明日も平日だっていうのにご苦労なこと、なんて思いながら夢への旅路を引き返す。最近はふたりの“周期”みたいなものがすこしわかってきてしまっている自分がいて、われながらなんだかなあと思う。

 

 おとといも、短くしゃくりあげて泣くような女の声で目を覚ました。だがいつもとは違う。よく聞くと、か細い女の声と混じってうっすらと音楽がきこえてくる。リズムを感じさせないゆったりとした音楽。NHKのプレミアム特集『地球ドラマチックーグレートバリアリーフ、生命のドラマー』なんてのがあったとしたらBGMで流れていそうな音楽だ。

 

 うっすらとした光のなかでかすかに揺れる海藻。

〈グレートバリアリーフに夜が訪れました〉

 静かな海底は夜に包まれ、よりいっそう静まり返る。

〈おや、サンゴ礁のまわりに小さな魚が集まってきたようです〉

 魚たちがにわかに動き始めて、さっきまで静かだったグレードバリアリーフがかすかな緊張感に包まれる。特集は山場を迎えつつあり、BGMはゆっくりと、張り詰めるような緊張を伴いながら鼓動のようなリズムを持ち始める。

〈…見てください…!月の光を浴びたサンゴが、一斉に産卵を始めました…!〉

 あたり一面のサンゴが同時に産卵したたくさんの卵たちが、満月に照らされたグレートバリアリーフをまっ白に散らばっていく。それは海底から見上げればまるで雪のようで、その美しい情景をとらえた場面にBGMも最高潮を迎えていた。

 

 …という具合に、♪ユーーーーーーーーーーーーーンン…ユーーーーーーーーーーーーーーーン…ってリラックス音が次第にジン…ジン…と盛り上がり始め、ついには♪…ジャーーーーーーーーーーーーーーーーーーーンン…とクライマックスを迎えるのである。

 例のカップルがムードを出すために流している音楽なのかもしれないが、それにしたってふたりが愛を語らうのにこんなチョイスがあるものだろうか?と思わせるようなBGMでもあり、時間が経つにつれて盛り上がりを見せる一方のムードと合っているようで絶妙にずれているのが妙な味わいを生んでいる。もしかしてこれも、第三の反響音なのだろうか?

 窓からはいろんな音がきこえてくる。

 

正しいけりの使い方

 短歌をやっています、と言うと「ずいぶん古風な趣味をお持ちで…」と返されたことがあるのだけれど、はたして短歌は古風な趣味なのだろうか?まったく短歌に接点のない人は、短歌と聞けば百人一首に収められているような和歌をイメージするのかもしれない。でも、私が詠むのは口語短歌だ。そして、好んで読むのも口語短歌だ。

 どうして口語で?と聞かれると、どう説明したものか迷う。逆に、普段使っていない言葉を短歌を詠むときだけは使うことのほうが説明が必要なのでは?と思うのだけれど、そういうわけにはいかないのが「短歌」なのかもしれない。私も口語短歌というものがあることを知るまでは、短歌と言えば文語を使わなければならないものだと思い込んでいた。

 

 短歌に興味を持ってはじめて手にした短歌雑誌?がNHK短歌で、これは近所の小さな本屋でも簡単に手に入るからなのだけれど、そこに掲載されていた〈短歌クリニック〉なるコーナーを読んで私はずいぶん落胆したものだった。それは読者から投稿された歌をプロの歌人が添削するというコーナーだった。プロはいったいどんな指摘をするんだろう、とわくわくしながら読むと「この『けり』の使い方は文法的に正しくありません」。…ん?どういうわけだか、『けり』の活用が間違っているだとかこの文脈に『けり』はふさわしくないだとか、やたらと文法に関することばかりが指摘されている。

 ええー…。短歌の添削って、文法の添削のことなのか?もっと、こう、内容とか、作者が伝えたい気持ちがどう表現されているかとか、そういうことを吟味するものじゃないのか?というか、正しい文法をマスターしなければ短歌に入門する以前に資格がないということなのだろうか。なんだか短歌って、想像してたよりもつまらないのかも…。

 

飴玉をガリッと噛み砕くように終わりにしたい君をみる癖

                 (藤本玲未、『オーロラのお針子』)

 

 この歌は、そんな私に口語短歌の存在を教えてくれた歌だった。この歌と、この歌を詠んだ歌人のことを知ったとき、私はみっつのことに驚いた。ひとつは、文語をつかわなくても短歌がつくれるということ。ふたつめは、この歌人が自分と同世代であること。みっつめは、この歌のこと。恋をしているときのやりきれない気持ちを、こういうふうに言葉にできるんだっていうことだった。

 

 あの頃の私は何も知らなかった。いまどき若くして活躍している歌人がたくさんいること。若い人たちの間でTwitterを使った短歌交流が盛んであること。口語で短歌を詠む人もそれなりにいること。想像していたよりもずっとたくさんのひとが、自由に、短歌を楽しんでいた。

 若手歌人を中心に集めたアンソロジーやイラスト付きの短歌集なども出版されていて、こういう本に当時出会えていればよかったなと思う。

桜前線開架宣言

桜前線開架宣言

 
食器と食パンとペン わたしの好きな短歌

食器と食パンとペン わたしの好きな短歌

 

 

 歌集を読むのは苦手だけれど、ここのところはできるだけ時間を取って読むようにしている。いいな、と思った歌は手帳にメモする。歌を書き写して、その隣にいいと感じた理由を書く。いいと思ったところを真似して一首詠んでみる…というのはなかなかできないのだけれど。

  われながら不思議に思うのは、ある歌を「いいな」と思うとき、技術的な点に着目することもそれなりにあること。初句6音は好きだな、とか。この字余りはうまくいってるなとか。うわ、これについてそんな見方があったのか、とか、この比喩はかっこいいな、というのもあるけれど、それを参考にしては単なる二番煎じだし、真似をするのも難しい。内容にまったく関心がないというわけではないけれど技術的な側面にもそこそこ目が行くようになってきて、あれ、これは「正しい『けり』の使い方」のフェーズにやっとたどり着けたということだろうか?なんて思う。けっきょくあの頃の自分はまだまだ未熟だったということ、なんだろう。たぶん。

 

森の書斎から

 一人暮らしの部屋に書斎をつくった。いや、つくったというよりは、気がついたらそうなっていたというほうが正しい。ベッドの脇に、天板と脚だけのシンプルなサイドテーブル。LEDのスタンドライトを取り付けて、ノートとボールペンを置けば即席書斎のできあがりだ。夜中でも朝方でも、なにかを考えついたり思い出したりしたときは、手探りでLEDライトを点けて、ベッドにうつぶせのままペンをとる。近くにノートがあろうと、毎晩寝る前にお祈りをしていようと、書けないときには書けないものなのだけれど、寝返りをうてば消えてしまうほどのちょっとした思い付きを書きつけるにはちょうどいい。そういうわけで、眠れない夜はときどきむっくりと頭を起こして、スタンドライトの小さな明かりで枕の上のノートを照らしている。

 

 いつか書斎を持ってみたかった。考えてみれば書斎というのがいったい何をするための場所なのか、「書」というからには何かを書くための場所なのか、しかし文筆家でもない一般の(?)人の家にもあるようなものなのだから「何かを書くための場所」という解釈が正しいのか、それすらもわからないままただ書斎というものに憧れていた。なんとなく「書斎ってこういうもの」というイメージが私のなかにあって、いつか書斎を手に入れたいと思っていた。手に入れた書斎がこんなものになるなんて、考えもしなかったけれど。

 

 理想の書斎とはこういう感じだ。部屋の一面は大きな窓で、窓の前にひとり掛けのソファとサイドテーブルが置かれている。残りの二面は天井まで高さのある書棚で占められていて、棚にはえんじ色や深緑色の艶のある背表紙がずらっと並んでいる。ソファとは別に書き物をするためのデスクがあって、天板は大きく、学習机についているみたいなダサい作り付けの棚はもちろんない。シンプルなつくりの机に、座り心地のいい椅子。机のうえには、万年筆のインクや未使用の便せんがきれいに並べられている。散らかってははいない。この部屋で私は休日の午後を読書して過ごし、友人に手紙を書き、日記を書く。夜になると、大きな窓から夜の街が見渡せる。これが私の理想の書斎だ。

 

 実家には書斎がなかったので、こういった書斎のイメージがどこから来たのかはわからない。だけど、私のほかにも書斎に夢を見ている人がいるとすれば、その書斎イメージは私の理想の書斎イメージとそこまで遠くはないだろう。つくりつけの書棚とか、机と椅子とか。理想ってたぶん、あんまりバリエーションの幅がないのだ。理想の書斎というのは書斎の典型的イメージからどこまでも外れないもので、たとえば部屋の真ん中にハンモックが吊るされているとか、椅子がバランスボールだとか、そういうイメージはなかなか生まれない。ましてや、ベッドに寝転んだまま物を書く書斎なんて、手に入れるまでは考えつきもしなかった。けれどまあ、それはそれでたのしい。窓から見えるのがうつくしい夜景ではなくて隣家の脱衣所の明かりだとしても、広い机がないとしても、自分だけの書斎というのができてみるとそれなりに愛着が沸くものだ。小さな明かりも、なんとなく自分だけの秘密の書斎といった感じがして悪くない。

 

 そんなわけでこのブログは、リビングときどきベッドサイドからのお届けとなっている。

 

あなたがタイプ

 ビーズみたいな雨がばらばらと降る夏の夜だった。大学の裏山のその先がどことつながっているのかを唐突に知りたくなった私たちは、唐突に車に乗り込んで、深夜のドライブに出かけた。街灯もまばらな山道で、太陽もない夜の曇り空が、木と木の間に明るく透けて見えた。

 

 車内はなんとなく『好きなタイプ』が話題になっていて、「ちょっとわがままな人にふりまわされたい」のだとその人は言った。ふうん。そういうものだろうか。そういう人が、少なくとも一定の割合で存在することは知っている。片思いの相手にやきもきさせられるのも楽しいとか、自由奔放な恋人にふりまわされるのもいい気分だとか、そういうのもなんとなくわかる。だけどそれはただ「わかる」だけであって、私自身がそう実感をしたことはないのだ。そのうえ、好きになった人にふりまわされるならまだしも、「ちょっとわがままな人にふりまわされたい」と来た。世の中には変わった人もいるものだよなあ、とそのときの私は思っていて、それがほかならぬ私自身に向けられた言葉だったのだと気づいたのはそれから半年後のことだった。

 

  *

 『好きなタイプ』についてきかれると困る。交際相手の条件として、これといって意識的に求めているようなものはないからだ。いままでに付き合った相手に共通点があるとすれば、どの人もみんなほぼ同じくらいの背丈をしていたように思う。とはいえ、落とした靴をたよりにひとめぼれ相手を探す王子じゃあるまいし、ある特定の身長に一致しなかったからといって門前払いということにもならない。身長が理由でだれかを好きになることはないし、反対に、身長が原因でだれかを嫌いになることもない。だいたい同じくらいの背丈をした相手とばかり付き合ってきたのは、単なる偶然だろう。

 

 でももしかしたら、ある特定の背丈の人を〈後天的に〉好きになる、ということはあるのかもしれない。たとえば、初めて付き合った相手が身長170センチだったとする。そして、理由はともあれ、恋人の身長が170センチであるという事実はいつも私をよろこばせた。それはたとえば、歩くときにちょうどいい高さで手をつなげるということかもしれないし、恋人とふたり並んだときにバランスよく見えるのをだれかに褒められたとか、そういうことかもしれない。その恋人とは残念ながら長続きしなかったけれど、その次に出会った恋人もまた身長が170センチくらいだった。そして、その恋人の身長がだいたい170センチであるという事実は、やっぱり私をよろこばせた。それは、エスカレーターで前後に並んだときに恋人と交わす視線の甘ったるさだったり、抱き合ったときのお互いの身体の収まりだったりした。そうこうしているうちに、私は学習する。自分が好きなのは身長170センチくらいの異性だと。

 

 そもそも『好きなタイプ』というのは、恋愛経験とは関係なく、もともと持っているものなのだろうか?それとも、恋愛中の気分に影響されたり、あるいは恋愛経験によって移り変わっていくものなのだろうか?私たちはいつかどこかで『好きなタイプ』っていうぼんやりとしたものをつかまえて、それにピッタリ合う恋人を探し続けているんだろうか。それとも、たまたま好意を寄せた相手の特徴が好ましく思えるものなのだろうか。

 

 

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 雨のドライブから半年後、私は交際を申し込まれた。そのとき私は、「ちょっとわがままな人にふりまわされたい」っていうのは、もしかして、私のことだったのだろうか、と思った。それって、もともと「ちょっとわがままな人にふりまわされたい」願望があって、私のことを好きになったのだろうか。それとも、私のことを好きになったので、そして同じ車内にその私がいるとわかっていて意識的にそう言ったのだろうか。余計なことを考えてなんだか失礼な気もするが、けれどきになる。どちらにしても私が「ちょっとわがままな人」と思われているであろうことに違いはないのだけれど、その違いはそこそこ大事なような気がした。そして、いや、だからというわけではないけれど私はその申し出を断って、なので私がほんとうにその人の『好きなタイプ』だったのかの答え合わせは結局できないままでいる。

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 『好きなタイプ』についてきかれると困る。ほんとうのところ、『好きなタイプ』なんてたぶんないのだ。入り口としておおざっぱに『セーフ』と『アウト』の入り口があるだけで、あとは『セーフ』の入り口を通って近くにやって来て、すこしずつ仲良くなった相手をだんだん好きになるだけなのだ。あなたのことは好きだけど、あなたが好きだからあなたと仲がいいのか、あなたと仲がいいからあなたのことを好きなのかはわからない。でも、ただひとりの人と出会って、互いのことをすこしずつ見せ合って、おいしいものを一緒に食べて、そうやってふたりで積み重ねた時間は、もともと好きなタイプだったから、なんてことよりももっとずっと大事じゃないだろうか。「やさしい人」も「かわいい人」も「がんばりや」もたくさんいるけれど、ふたりで過ごした時間とその経験はひとつしかない。

 

 だから『好きなタイプ』なんてないのだ、って言ってしまえば、なんというか身も蓋もない。人によっては『セーフ』っていうのがつまり『タイプ』ってことなんだろう。だけど『セーフ』が最低限の基準をクリアしていれば通過できる扉であるのに対して『タイプ』はそうでもないような気がして、やっぱり『セーフ』は『タイプ』とは違うのだとも思う。だいたい、『セーフ』を通過するための条件を『タイプ』と呼んでしまうと、異性に対するスタンスとしてどうなの…という感じもする。けっきょくのところ、私が『タイプ』と言い表すことがあるとすればそれはただ、あなたがタイプ、と言うときだけなのかもしれない。