モリノスノザジ

 エッセイを書いています

正しいけりの使い方

 短歌をやっています、と言うと「ずいぶん古風な趣味をお持ちで…」と返されたことがあるのだけれど、はたして短歌は古風な趣味なのだろうか?まったく短歌に接点のない人は、短歌と聞けば百人一首に収められているような和歌をイメージするのかもしれない。でも、私が詠むのは口語短歌だ。そして、好んで読むのも口語短歌だ。

 どうして口語で?と聞かれると、どう説明したものか迷う。逆に、普段使っていない言葉を短歌を詠むときだけは使うことのほうが説明が必要なのでは?と思うのだけれど、そういうわけにはいかないのが「短歌」なのかもしれない。私も口語短歌というものがあることを知るまでは、短歌と言えば文語を使わなければならないものだと思い込んでいた。

 

 短歌に興味を持ってはじめて手にした短歌雑誌?がNHK短歌で、これは近所の小さな本屋でも簡単に手に入るからなのだけれど、そこに掲載されていた〈短歌クリニック〉なるコーナーを読んで私はずいぶん落胆したものだった。それは読者から投稿された歌をプロの歌人が添削するというコーナーだった。プロはいったいどんな指摘をするんだろう、とわくわくしながら読むと「この『けり』の使い方は文法的に正しくありません」。…ん?どういうわけだか、『けり』の活用が間違っているだとかこの文脈に『けり』はふさわしくないだとか、やたらと文法に関することばかりが指摘されている。

 ええー…。短歌の添削って、文法の添削のことなのか?もっと、こう、内容とか、作者が伝えたい気持ちがどう表現されているかとか、そういうことを吟味するものじゃないのか?というか、正しい文法をマスターしなければ短歌に入門する以前に資格がないということなのだろうか。なんだか短歌って、想像してたよりもつまらないのかも…。

 

飴玉をガリッと噛み砕くように終わりにしたい君をみる癖

                 (藤本玲未、『オーロラのお針子』)

 

 この歌は、そんな私に口語短歌の存在を教えてくれた歌だった。この歌と、この歌を詠んだ歌人のことを知ったとき、私はみっつのことに驚いた。ひとつは、文語をつかわなくても短歌がつくれるということ。ふたつめは、この歌人が自分と同世代であること。みっつめは、この歌のこと。恋をしているときのやりきれない気持ちを、こういうふうに言葉にできるんだっていうことだった。

 

 あの頃の私は何も知らなかった。いまどき若くして活躍している歌人がたくさんいること。若い人たちの間でTwitterを使った短歌交流が盛んであること。口語で短歌を詠む人もそれなりにいること。想像していたよりもずっとたくさんのひとが、自由に、短歌を楽しんでいた。

 若手歌人を中心に集めたアンソロジーやイラスト付きの短歌集なども出版されていて、こういう本に当時出会えていればよかったなと思う。

桜前線開架宣言

桜前線開架宣言

 
食器と食パンとペン わたしの好きな短歌

食器と食パンとペン わたしの好きな短歌

 

 

 歌集を読むのは苦手だけれど、ここのところはできるだけ時間を取って読むようにしている。いいな、と思った歌は手帳にメモする。歌を書き写して、その隣にいいと感じた理由を書く。いいと思ったところを真似して一首詠んでみる…というのはなかなかできないのだけれど。

  われながら不思議に思うのは、ある歌を「いいな」と思うとき、技術的な点に着目することもそれなりにあること。初句6音は好きだな、とか。この字余りはうまくいってるなとか。うわ、これについてそんな見方があったのか、とか、この比喩はかっこいいな、というのもあるけれど、それを参考にしては単なる二番煎じだし、真似をするのも難しい。内容にまったく関心がないというわけではないけれど技術的な側面にもそこそこ目が行くようになってきて、あれ、これは「正しい『けり』の使い方」のフェーズにやっとたどり着けたということだろうか?なんて思う。けっきょくあの頃の自分はまだまだ未熟だったということ、なんだろう。たぶん。