ビーズみたいな雨がばらばらと降る夏の夜だった。大学の裏山のその先がどことつながっているのかを唐突に知りたくなった私たちは、唐突に車に乗り込んで、深夜のドライブに出かけた。街灯もまばらな山道で、太陽もない夜の曇り空が、木と木の間に明るく透けて見えた。
車内はなんとなく『好きなタイプ』が話題になっていて、「ちょっとわがままな人にふりまわされたい」のだとその人は言った。ふうん。そういうものだろうか。そういう人が、少なくとも一定の割合で存在することは知っている。片思いの相手にやきもきさせられるのも楽しいとか、自由奔放な恋人にふりまわされるのもいい気分だとか、そういうのもなんとなくわかる。だけどそれはただ「わかる」だけであって、私自身がそう実感をしたことはないのだ。そのうえ、好きになった人にふりまわされるならまだしも、「ちょっとわがままな人にふりまわされたい」と来た。世の中には変わった人もいるものだよなあ、とそのときの私は思っていて、それがほかならぬ私自身に向けられた言葉だったのだと気づいたのはそれから半年後のことだった。
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『好きなタイプ』についてきかれると困る。交際相手の条件として、これといって意識的に求めているようなものはないからだ。いままでに付き合った相手に共通点があるとすれば、どの人もみんなほぼ同じくらいの背丈をしていたように思う。とはいえ、落とした靴をたよりにひとめぼれ相手を探す王子じゃあるまいし、ある特定の身長に一致しなかったからといって門前払いということにもならない。身長が理由でだれかを好きになることはないし、反対に、身長が原因でだれかを嫌いになることもない。だいたい同じくらいの背丈をした相手とばかり付き合ってきたのは、単なる偶然だろう。
でももしかしたら、ある特定の背丈の人を〈後天的に〉好きになる、ということはあるのかもしれない。たとえば、初めて付き合った相手が身長170センチだったとする。そして、理由はともあれ、恋人の身長が170センチであるという事実はいつも私をよろこばせた。それはたとえば、歩くときにちょうどいい高さで手をつなげるということかもしれないし、恋人とふたり並んだときにバランスよく見えるのをだれかに褒められたとか、そういうことかもしれない。その恋人とは残念ながら長続きしなかったけれど、その次に出会った恋人もまた身長が170センチくらいだった。そして、その恋人の身長がだいたい170センチであるという事実は、やっぱり私をよろこばせた。それは、エスカレーターで前後に並んだときに恋人と交わす視線の甘ったるさだったり、抱き合ったときのお互いの身体の収まりだったりした。そうこうしているうちに、私は学習する。自分が好きなのは身長170センチくらいの異性だと。
そもそも『好きなタイプ』というのは、恋愛経験とは関係なく、もともと持っているものなのだろうか?それとも、恋愛中の気分に影響されたり、あるいは恋愛経験によって移り変わっていくものなのだろうか?私たちはいつかどこかで『好きなタイプ』っていうぼんやりとしたものをつかまえて、それにピッタリ合う恋人を探し続けているんだろうか。それとも、たまたま好意を寄せた相手の特徴が好ましく思えるものなのだろうか。
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雨のドライブから半年後、私は交際を申し込まれた。そのとき私は、「ちょっとわがままな人にふりまわされたい」っていうのは、もしかして、私のことだったのだろうか、と思った。それって、もともと「ちょっとわがままな人にふりまわされたい」願望があって、私のことを好きになったのだろうか。それとも、私のことを好きになったので、そして同じ車内にその私がいるとわかっていて意識的にそう言ったのだろうか。余計なことを考えてなんだか失礼な気もするが、けれどきになる。どちらにしても私が「ちょっとわがままな人」と思われているであろうことに違いはないのだけれど、その違いはそこそこ大事なような気がした。そして、いや、だからというわけではないけれど私はその申し出を断って、なので私がほんとうにその人の『好きなタイプ』だったのかの答え合わせは結局できないままでいる。
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『好きなタイプ』についてきかれると困る。ほんとうのところ、『好きなタイプ』なんてたぶんないのだ。入り口としておおざっぱに『セーフ』と『アウト』の入り口があるだけで、あとは『セーフ』の入り口を通って近くにやって来て、すこしずつ仲良くなった相手をだんだん好きになるだけなのだ。あなたのことは好きだけど、あなたが好きだからあなたと仲がいいのか、あなたと仲がいいからあなたのことを好きなのかはわからない。でも、ただひとりの人と出会って、互いのことをすこしずつ見せ合って、おいしいものを一緒に食べて、そうやってふたりで積み重ねた時間は、もともと好きなタイプだったから、なんてことよりももっとずっと大事じゃないだろうか。「やさしい人」も「かわいい人」も「がんばりや」もたくさんいるけれど、ふたりで過ごした時間とその経験はひとつしかない。
だから『好きなタイプ』なんてないのだ、って言ってしまえば、なんというか身も蓋もない。人によっては『セーフ』っていうのがつまり『タイプ』ってことなんだろう。だけど『セーフ』が最低限の基準をクリアしていれば通過できる扉であるのに対して『タイプ』はそうでもないような気がして、やっぱり『セーフ』は『タイプ』とは違うのだとも思う。だいたい、『セーフ』を通過するための条件を『タイプ』と呼んでしまうと、異性に対するスタンスとしてどうなの…という感じもする。けっきょくのところ、私が『タイプ』と言い表すことがあるとすればそれはただ、あなたがタイプ、と言うときだけなのかもしれない。