モリノスノザジ

 エッセイを書いています

いろんな洋服があります

 左利きとしての経験を描いた漫画と、それに関する記事(迷惑かけてすみません…"左利き"に苦しめられた幼少期描く漫画 母が矯正しなかったワケが… | オトナンサー)を読んで泣いた。今思い出してまた涙が出た。

 私自身も左利き、それもお箸に鉛筆、ラケット、歯ブラシ、あらゆる物を左手で使う生粋のサウスポーだ。例によって習字だけは右に「直された」けど、そのおかげでホワイトボードや黒板であれば左右同時に文字が書けるようになった。

 左利きにとって敵はスープバーのお玉であったり、駅の改札であると思われているのかもしれない。けれど、実際は違う。たしかに世の中のあらゆる道具は右利き用につくられているけれど、そんなものにはもう慣れた。缶切りは左手で持って手前に動かすし、蛍光ペンも右から左に引く。定規は裏返して使ってもメモリが見えるように透明なのを選ぶし、左手で使っても札がさかさまにならない財布を選んでいる。ハサミなど、右利き用を無理に左で使うのはハサミの原理から言ってうまくいかないはずなのだけれど、今のところ問題になったことはない。そんなことより一番くやしいのは、右利きの他人からかけられたこころない言葉、なかでも漫画にも描かれている「親がちゃんとしつけなかったんだね」の類だった。

 正直なところ、私は親に厳しくしつけられたほうだと思う。高級料理店で通用する作法を教わるまではないにしても、庶民としては申し分がないレベルのはずだ。それが、左利きというだけで「みっともない」とか「行儀が悪い」と言われる。頬杖をついているあそこの右利きの人は?食べながらしゃべってるあの右利きの人は?私は箸を左で持っているだけで、行儀が悪いのだろうか?

 と言っても、左利きパーソンに対してあからさまな嫌悪感をぶつけてくる人は一部だし(心のなかではどう思っているかわからないが)それも圧倒的に年配の方だ。多分かつて、いや2~30年前まではそう考える人が多数だったのだろう。すでに根付いてしまった価値観を変えるのはむずかしいから、そういう考えの人が存在するのも仕方のないことだ。でも、たった数十年であっても価値観は変わりゆくものだ。自分の価値観が唯一絶対のものと純真に信じて他者に表明することは、誰かを傷つける可能性のあることだと知ってほしい。

 世界はだんだん「多数派=善」という単純な構図でできているわけではないことに気が付きはじめているみたいだ。それは「多数」の側に所属しない生き方を追求する動きであったり、多数が下した選択によって社会に混乱がもたらされている事実であったり、さまざまだ。左と右にはそれ自体なにも違いがなく、左手と右手もまた道具としてどちらが優れているとかどちらが劣るなんていうことはない。左利きを差別する人は、ただこの世の中で右利きが圧倒的多数であるというだけで差別をしている。それと同じように多数を占めているもの・ことが、それが多数であるというだけの理由で「正しい」と信じられているのであれば、本当にそれが正しいのか考えなおさなければならない。異性を好きになることや結婚して家族をもうけること、パートナーとはセックスをすること、子どもをつくること、昇進を目指すこと、健康であること、SNSを使うこと、ここにいない誰かの悪口を言うこと。多数の人が自然にしている「それ」は、多数の人がそうだから正しいのだろうか。

 近年さまざまな観点から見た〈少数派〉に光をあてる動きが活発で、私はそのことをいいことだと思っている。なぜだかわからないけれど人生が自分にフィットしない、生きづらいと感じている人はいるはずで、そうした人にとってのヒントになると思うからだ。〈多数派〉を着て生きてきたけど、本当はもっと似合う服があるんじゃないかと考える。そうやってあたらしい洋服の選択肢が与えられるといい。最終的に〈多数派〉を選んだとしても、考え抜いて選んだ結論には納得があるはずだ。そして、そのときその人が最終的に何を選ぶかというのは、徹頭徹尾その人自身の問題であって、本来赤の他人には関係のないことのはずである。思い悩んだ末にようやく自分にぴったりな洋服をみつけた人に対して「キモい」とか「異常だ」とかこころない言葉を投げかける人が存在するのは悲しいことだけれど、それはまったくとんちんかんなふるまいだとしか言いようがないし、そういう人は多分一着の洋服しか見たことがないんだろう。