モリノスノザジ

 エッセイを書いています

ティッシュ配りと人の情

 sotto_voceさんは天国に行けないらしい。それというのも、街頭でティッシュ配りに出くわして、どうしてもティッシュをもらいたくない日には、他人を盾のように使ってティッシュを回避するからである。

dolce-sfogato.hatenablog.com

 

 なんということだろう。ナチュラルボーン人盾使いにしてそのことに対して一度たりとも罪悪感を抱いたことのない私は、何度地獄へ落とされれば赦されるのだろうか。

 sotto_voceさんが人盾の行使に対して感じている罪悪感、それは「他人を盾にするのは卑怯」というものだ。しかし、他人を盾に街頭ティッシュを回避することは本当に悪なのだろうか?街頭で配られるのがティッシュではなくダイナマイトだとしたら、そしてそれを手に取った瞬間ダイナマイトが爆発するのだとしたら、人盾はある程度悪だろう。けれど、ティッシュはダイナマイトではない。爆発しないし、役に立つ。私は〈ティッシュはもらいたくない派〉だが、世の中には一定の割合で〈ティッシュほしい派〉が存在する。大半は〈どうでもいい派〉だと思われるが、そういった層を含めティッシュをもらうことに対して抵抗感を抱かない人はある程度いるのではないだろうか。

 「他人を盾にするのは卑怯」という考えの裏には、「他人もティッシュをもらいたくない」という前提が潜んでいる。しかし、多くの人がティッシュをもらうことに強い抵抗を抱かない以上、人盾使いは卑怯でもなんでもないのだ。

 私は基本的に、ティッシュやチラシ、試食の類は一切受け取らないことにしている。人盾を駆使してうまく回避することもあるし、ストレートに「すみません」と断ることもある。しかし、よく考えたらこの「すみません」もいったい何に対してすまないのかよくわからない。私がティッシュを受け取らないからといってノルマがはけずにいつまでも配り続けなければならないということもないだろうし(そもそもノルマがないかもしれない)、善意で配っているわけではないのだから不義理を恥じるいわれもない。あえて言うなら、ティッシュを断るのはアルバイトさんに申し訳ない、かわいそうという感情だろう。sotto_voceさんも『面と向かって断るのは申し訳ない』と書いている。しかし、ここにティッシュを配る企業の戦略があるのだ。

 そもそも、この21世紀において企業がいつまでもティッシュ配りというアナログな方法を採用し続けるのはなぜだろうか。WEB、テレビ、ラジオ、雑誌、新聞、その他ありとあらゆる種類の広告があるなかで、なぜティッシュを配り続けるのか。

 まず、街頭でチラシを配ることで特定のターゲットに狙いを定めることが可能になる。例えば「平日昼にイオン〇〇店に出入りする女性で、眼鏡をかけている人」とか。広告が響きやすい層にうまくチラシを打ち込めば、広告効果も上がるだろう。さらに、人から人へチラシを手渡しすることで、商品や店舗への誘導可能性が高まっている可能性もある。また、単なるチラシではなくティッシュがもらえるとなれば、広告を受け取る人は増えるだろう。

 これに加えて、先ほど書いた「断るのはアルバイトさんに申し訳ない」という感情がある。企業は顧客へ向けて広告を打つ。アルバイトはその間に立って、預かった広告を配っているだけである。広告の受け取りを断ったからといってそのアルバイトの人格を否定しているわけではない(チラシが気に入らないとしてもそのアルバイトが気に入らないのではなくて、その企業が気にいらないのだ)し、それによってアルバイト代が支払われないということもない。街頭ティッシュ配りはいわばWEBのポップアップ広告のようなもので、それを閉じ(断)ろうが見よ(受けとろ)うが受け手の勝手なのである。しかし、企業と顧客(=私)との間にアルバイトという人が介在することによって、「断ったらアルバイトさんが悲しむ」という気持ちが客側に生まれる。それによって、広告が人の手にわたる可能性が高まる。これが企業の狙いなのだ。

 単純にもらったティッシュが邪魔になるという理由もあるけれど、私が街頭ティッシュや試食の類を一切断っているのは、最初の一言で足を止めるとそのまま中断するタイミングを失って最後まで話を聞くはめになったり、挙句の果てに商品を買ってしまったりするからだ。「断ったらアルバイトさんが悲しむ」と嫌々ティッシュを受け取る人はやさしい。ティッシュがほしくてティッシュをもらう人もまあ悪くはないんじゃないでしょうか。そして、ティッシュをもらわない人のなかにもある種の人の好さゆえにすべてをシャットアウトしている人もいる。なので、ティッシュをもらうひとももらわない人もそれなりにやさしいんじゃないでしょうか。