俳句の話を、と言われているのについつい短歌のことを話したくなってしまうのは歌詠みの悪い癖だけれど、私が今のように短歌をはじめるようになったきっかけを聞いてほしい。
私が教科書の外で出会ったはじめての短歌は新聞歌壇だった。どんな歌だったかはもう覚えていないけれど、ビニール傘に落ちる雨粒を詠んだその歌にいたく感動して、何日もしないうちに近所の書店で短歌について読める本を探した。近所の書店――と言えば、ダイエーの三階に入っているコンビニほどの書店であって、もちろんそこに歌集なんてなかった。短歌雑誌もない。ただNHK短歌の最新号だけは雑誌の棚に置かれていて、それをぱらぱらと読んだ私は短歌を一度諦めることになる。
NHK短歌には当時(今も?)「短歌クリニック」みたいなコーナーがあって、要するに、歌の添削コーナーだ。読者から寄せられた短歌を、プロの歌人が添削する。そのコーナーを読んで、私はなんとなくがっかりしてしまった。完了形の「ぬ」の接続のしかたが誤っているとかそういった文法的な誤りの指摘ばかりが並んでいて、文語文法をマスターしなければ短歌はできないのじゃないかとか、「いい短歌」をつくるということはとどのつまり正しい文法を使うということなんだろうか?という気持ちが沸きあがってきて、正直なところ、がっかりした。雨傘の歌をみつけたときのわくわくした気持ちは一瞬でしぼんでいった。
それから私がふたたび短歌のほうを向くようになるには、Twitterのタイムラインに偶然、私と同い年の歌人が口語で詠んだ歌が流れてくるまで、しばらくの年月が必要だった。
正しい文法を使うことがいい短歌を詠むために必要なことは理解するけれど、いまだに文語短歌との間には壁を感じてしまう。俳句に関して言うとこれと同じくらい、あるいはこれよりももっと「とっつきづらい」イメージがある。短歌にはない季語や切れ字といったルールがあるし、俳人ってなんだかおっかなそうではないか。
「俳句=わびさび」というイメージのある私の頭のなかでは、俳人は千利休の顔をしていて、狭い茶室で着物を着てなんか細長い紙を持っていて、ルール違反なんてしようものなら熱々のお茶をひっくり返して怒り出すような生き物だ。そんなの、おっかなすぎる。
だから、こんな俳句ともっとはやく出会えていたらよかったのにな、とときどき思う。わが家の本棚には3冊だけ句集があって、そのうちの一冊が福田若之さんの『自生地』という句集だ。1991年生まれ。たとえば、こんな句が収録されている。
てざわりがあじさいをばらばらに知る
春はすぐそこだけどパスワードが違う
ヒヤシンスしあわせがどうしても要る
さくら、ひら つながりのよわいぼくたち
焚き火からせせらぎがする微かにだ
どれも教科書で習った俳句とは違っている。どきどきする。後になって知ったことなのだけれど、俳句には「無季」と言って季語を使わない作り方や、必ずしも5・7・5の定型にこだわらないやり方もあるらしく、かつて私が抱いていた「俳句=わびさび」のイメージからは遠く離れた句がたくさんある。無季・不定形なんて言われると「は、俳句とは…?」って考え込んでしまうのだけれど、そこは何かあるのだろう。たとえば、心、とか?
歌や句を覚えるのは得意なほうではないのだが、この句集に載っている句のなかで一句、ずっと頭から離れない句がある。
ながれぼしそれをながびかせることば
流れ星がきらっと空を流れる。流れ星が見られるのはほんの一瞬のことで、すぐに見えなくなってしまうのだけれど、それを「ことば」が「ながびかせる」。
流れ星を見ていた私が呟いたのか、一緒に見ている誰かが「流れ星だ!」とでも言ったのか、その「ことば」はおそらく「ながれぼし」という言葉そのもので、流れ星が空を流れて見えなくなってしまったあとも、流れ星は「ながれぼし」という言葉になって私たちのもとに残り続ける。あるいは、誰かと「流れ星見えた?」「え、流れ星?」なんて会話しているとき、流れ星はまだそこにある。空にはもう流れ星がなくても。
この句全体がすべてひらがなにひらかれていて、それも「ながびかせる」という印象を与える。「ながれぼし」は空を流れる星を指し示しているとともに、「ながれぼし(という言葉)」=「それをながびかせることば」という構造も取っていて、こういうふうに書くことを意識的に詠んだ句がところどころあらわれるのはなんでだろうと思う。
俳句はずるい。17音でこれだけのことを言われてしまったら、もう14音を付け加える必要なんてないみたいに思えてくるじゃないか。よくできた俳句はぴったりとして過不足がなくて、すごく美しい。その美しさを説明できなくても、なんかわかる。すごいって。
今週はたくさんのはてなブロガーが俳句を詠んでいる。しっかり身を入れて俳句に取り組んでいる方にとっては「こんなの俳句じゃない!」と言いたくなるものもあるのだろうけれど、これだけの人が無邪気に「一句」詠んでいるところをみると、俳句というものが文学のひとつでありながら、私たちの生活のすぐ近くにあって、愛されていることを感じる。ペットボトルのお茶にもついているしね。
私も忘れないうちに詠んでおくことにする。はじめての俳句だから、どうかやさしい目でみてほしい。
ファミマまで風は余熱をふくみつつ
今週のお題「575」