モリノスノザジ

 エッセイを書いています

かたちのかたち

 それまで特になんでもなかったものが、あるときから急に気になりはじめて、とても無視できなくなってしまうことがある。言っておくが、恋ではない。マグカップのふちをなぞっていた指が、マグカップの欠けた部分に触れて、それからずっとそこをなぞってしまうような。上の臼歯に挟まった筋に気がついて、舌の筋肉が千切れそうになるくらいずっと、そこを舌でこすってしまうような、そう。恋ではないそれは、どちらかというと気持ちをそわそわさせる。高揚させるというよりはむしろ。

 

 たとえばそれは、電車の放送で聞く『インプラント』。私が毎朝乗る電車では、次の駅が近づくたびに車内アナウンスが流れる。電車じゃなくてもあるでしょう、バスがバス停に近づくたびに、地下鉄が駅に近づくたびに流れるあの、あれ。これこれこういうアナウンス、と言えないのは、それを私がまったく思い出すことができないためだ。次に到着する駅の、その近くにある病院だとか専門学校だとかの名前を言っているような気もするけれど、具体的にどんなアナウンスが流れているかは何も思い出せない。それなのにただ『インプラント』だけが強烈に耳に残っている。

 

 『インプラント』はおそらく、次に止まる駅の近くにインプラントの治療ができる歯医者があるよ、という内容のアナウンスに表れる言葉だ。「おそらく」と言うのは、その前後で何を言っているかほとんど記憶がないからで、それなのに『インプラント』だけはちゃんと耳に入ってくる。

 

 『インプラント』が気になるようになったのは、いつからのことだろう。気がついたら気にしていた。あのアナウンスが人によって読み上げられたものなのか、電子音声によるものなのかはわからないけれど、『インプラント』の『イン』にやたらと強いアクセントが乗っていて、それがやや不愉快なくらい耳に届いてくる。本を読んでいても、Twitterを眺めていても、どこからともなく『イン』『プラント』。気がついたら気になるようになっていたというのは、この広告が最近になって新たに放送されるようになったということなのか、それとも『インプラント』を気にするようになった私の気持ちの方に変化があったのか。その電車に乗らずに家に帰る方法がないので仕方なく、朝夕二回の『イン』『プラント』を浴びる日々だ。

 

 

 それまで特になんでもなかったものが、あるときから急に気になりはじめてしまうことがあって、たとえばそれは「かたち」。職場の後輩がやたらと「かたち」をつくる。いや、つかうのだ。後輩の話す電話の声が、聴き耳を立てているわけでもないのにやたらと大きく入ってくる。

 「今週の土曜日ですと、他の業者がちょうど同じ場所で作業をしているかたちになりますので、ちょっと譲り合うかたちで作業していただくかたちになりますね」

  …いや、別に日本語の乱れだとか、そういうことを偉そうに言いたいわけではない。私もつかうし、「かたち」。でも、それにしても多すぎはしないかと思うのだ。多分彼は、「かたち」が口癖になっている。

 

 「かたち」とはちょっと違うけれど、この間読んだ本にこんなことが書かれていた。

 

  次のふたつの文は、微妙に意味が違う。

(3) 私が説明します。

(4) 私から説明します。

 (3)のガでマークされた「私」は、説明の責任主体である。私が私の責任で説明を行う。(4)のカラでマークされた「私」は、起点としての場所にすぎない。私は、直接的な責任主体というよりも、ある場所(組織)に属する一員として、その場所に属する者を代表して説明する、という意味合いである。責任主体をぼやかした表現となる。

 

 この違いは、責任主体を第三者に置き換えればもっとはっきりする。述部も少し変化させよう。

(5) Aさんが説明した。

(6) Bさんから説明(   )。

 (6)のカッコにはどのようなことばを補えば自然な表現となるだろうか。

                ――中略――

(8) Bさんから(の)説明があった。

 (8)の表現の中心は、「説明があった」である。「説明」というモノが「あった」という、事態の存在を表す。「説明」がBさんを起点として、そこから飛び出して、認識の場にとどまっている様を表す。Bさんの責任主体としての役割は、(4)の「私」よりいっそう遠のく。 

 

瀬戸賢一『よくわかるメタファーー表現技法のしくみー』ちくま学芸文庫

 

 後輩が電話先の相手にした説明を、私だったら「今週の土曜日は、他の業者が同じ場所で作業していますので、ご注意ください」と言うだろう。われながらすっきりしていると思うけれど、きっと後輩はこういう言い方ではまずいとか、物足りないと感じるのだろう。例えば、ことばが足りなさ過ぎてごつごつしているだとかそういうふうに。

 

 「かたち」はその言葉の本来の意味に反して、言葉の形をあいまいにする。「作業をしているかたち」ってなんなんだ?「譲り合うかたち」ってなんなんだ?ガではなくカラを使う表現が責任主体のありかをぼやかしてしまうように、「かたち」にもまた、どことなく言葉の角を取ってしまうようなところがある。「かたち」を使う側の考えとしてはおそらくクッション言葉と同じような認識で、ごつごつした言葉の角をやさしくくるむような表現なのだろう。「かたち」という表現は、相手に直接的な言葉をぶつけないように、やさしく、ていねいに、という気持ちのかたちだと思う。

 

 

 口癖というものは、往々にしてそれを言っている本人は意識していないものである。だから――なのかどうかはわからないけれど、口癖を指摘されるのは恥ずかしいことだ。私自身、意識しないままに「天才」という言葉を頻発して、友人にそれを指摘されたときには気恥ずかしい思いをした。レシピのなかのキャベツをアスパラに変えたらおいしかったとか、休日の朝に雨が降っていて目覚めたとか、そんなちょっとしたことで私や日々は天才になる。天才になっていた。恥ずかしい。

 

 口癖を指摘されるのはしばしば恥ずかしいことだから、彼の「かたち」を指摘することはしない。悪いことでもないのだし、私だって話している言葉はめちゃめちゃだ。「あ」とか「ちょっと」みたいな無駄な言葉を挟んだり、言いよどんだり。指摘しない代わりにこれからも私は、彼の「かたち」が気になりつづけるのだろう。それとも、いつか気にしない日が来るのだろうか?『イン』『プラント』も、彼の「かたち」も。