Scrap of
1月から3月にかけてのお楽しみは、4月に備えてあたらしい手帳を探すこと。まめに手帳を書くわけでもなく、それでも、観たい映画や楽しみにしている舞台の予定を一覧できる手帳を辞めるタイミングもなくて、なんだかんだスカスカの手帳を持ち続けている。
学生の頃はウィークリーやバーチカルを使いこなす社会人に憧れ、わりあい暇な社会人になってからも手帳はこだわっていたけれど、ここ数年はなんだか百均で十分だな、という気分。でも、百均と言ってもなかなか侮れない。百均の手帳は明らかにどんどんレベルアップしている。中身の充実度合いも、デザインも。それで、自分にぴったりきて、一年中わくわくしながら開けるような手帳を探すのが、毎年この時期のお楽しみになるのだ。
そんなことで手帳のことを考えていて、本棚に並べてある古い手帳のことを思い出した。これまではどんな手帳を使っていただろうかとおもって手に取った手帳を、そのまま、ぺらぺらとめくる。一番古い手帳は就職活動をしていた学生時代につかっていたもので、もう覚えていないけど、あのころはそれなりにハードにあちこち行き来して面接を受けたりしていたらしい。こんなに後になって見返すくらいなら、もうすこしきれいな文字で書いておけばよかったな、とおもう。
過去の私はどうにかして手帳を活用したいと考えていたらしく、その痕跡があちこちにみつかった。1日分が1ページのほぼ日手帳は6月くらいまでで書くのをやめてしまっていたけれど、飽きるまでの数カ月間のページは、その日見た映画のフライヤーや新聞のコラムを切り抜いて貼っていたり、読んだ本や気に入った短歌の感想を書いたりもしていた。
無料の地域情報誌から切り抜いた料理のレシピや、その日食べたゼリーの蓋を貼っているページもあった。よっぽど書くことがなかったのか、よっぽどそれを残しておきたかったのだろう。
それから、旅行の予定が書かれているページもあった。飛行機とバスを乗り継いで、どのルートがスムーズに乗り継ぎができるか考えたり、2泊3日の旅程のなかでいきたい場所をリストアップしたりしている。
あ、そうか、とおもう。こうやってわくわくしながら旅の予定を立てた日が、ずいぶん遠い日みたいだ。この手帳はきっと旅先にも持って行ったんだろう。どことなくしわしわのページを指でおさえると、あの日行った瀬戸内の海がそのなかにあるような気がした。
日本画では、墨一色で描画された作品のうち、墨の濃淡・にじみ・かすれなど中国風の技法が用いられているものを水墨画といい、均一な線で描いたものを白描と分類する。日本水墨画の全盛は室町時代。15Cころから花鳥画のほかに山水画が描かれるようになり、15C終わりには雪舟が登場する。
過去の自分が書いたことなのに、とても新鮮だ。これは、今年の1月1日の手帳に書いたメモ。1日にひとつ、学んだことを手帳に書こうと決めて(10日で諦めたが)、書いた、その初日だ。元旦になにがあってこのメモを残そうと考えたのか、今となってはまったくわからない。
1944年10月にハンガリーに成立した国民統一政府は、ドイツのナチス政権に協力的な立場をとり、1945年5月までの間に数十万人のユダヤ人を虐殺した。1941年に80万人いたユダヤ人のうち、敗戦時に生き残っていたのは20万人ほどだった。また、およそ2万8000人のロマもこのとき虐殺された。
これは1月11日のメモ。ハンガリーに関するメモがこの付近の数日間には残されている。なぜかはわからない。たった1か月前のことなのに、自分が何を考えていたのか、何に影響されてこんなメモを残そうとおもったのか、すっかりわからなくなってしまうものだな。そういう意味では、覚えておきたいことをこうやって手帳に残しておくことは、ひとつの正解だったと言えなくもない。
過去の自分は、まるで他人みたいだ。自分のことのはずなのに、そのとき自分がどう考えていたのか、なにを経験してどうしてそれを残そうとおもったのか、振り返っても理解できないことも多い。
自分って、案外頼りないものだな、とおもう。私は一刻一刻と変化している。こうやって、私はかつての自分が考えていたことを思い出せなかったり、まるで他人のことのように感じていたりする。物理的にもきっと私は一定ではなくて、身体中の血液や細胞は絶えず入れ替わり、血圧や呼吸数も一定ではないだろう。「私」が安定的に私であるときは、ない。
そうだとすれば、これは、私が書き残してきた手帳の1ページ1ページは、すでになくなった「私」のかけらをほんのすこしでもとどめているものではないだろうか。1ページ1ページに残された私のことばや、記憶や思い出のかけら、そのとき考えていたことや好きだったもの、気になっていたものの断片。
これをつなぎ合わせても「私」にはならないのかもしれないけれど、絶えず変化して、今はいなくなってしまった「私」やその日々が、そこには少しだけ残っているような気がする。
毎年この時期のお楽しみ。新しい手帳は、マンスリーに加えて小さいけれどもデイリー欄のあるものを選んだ。驚くことに、これも100円だ。恐るべし、百均。
デイリー欄は、今年始めて途中でやめてしまっていた「学んだことメモ」に使うことにする。飽きっぽい自分のことだから、何年か前に使ったほぼ日手帳と同じように、途中から半分以上がまっ白なままになってしまうかもしれない。でも、そのときのほぼ日手帳を振り返ってみれば、空白のページもそれはそれである種の記録だな、とおもう。毎日書いたら書いたで「毎日書いた自分」が、毎日書かなかったらそれはそれで「毎日書かなかった自分」がそこに残る。
「私」は一日一日こぼれ落ちて、日々も一日一日過ぎる。あとになったらきっとすっかり忘れてしまうような、そんな日々のかけらが、絵本に挟まった砂粒みたいに、手帳のなかに残っていく。