モリノスノザジ

 エッセイを書いています

熱々のお湯でうがい

 ふしぎだ。まことにふしぎだ。

 会社のビルの1階にはとある銀行の支店が入っていて、私はその支店の女性行員専用の休憩室とフロアを同じくしている。だから昼休みに給湯室で歯を磨いていたりすると、口に歯ブラシをくわえた行員さんが「ふみまへ~ん」なんて言いながら駆け込んでくるのを目撃することがある。きっと廊下は寒いから休憩室で歯を磨いているのだ。こういうのってあんまり見ちゃいけない気がするけれど、なかにはテレビとこたつもあるみたいだし。

  ふしぎなのはその「ふみまへ~ん」でもなく、ちいさな休憩室を埋め尽くすように設置されているこたつでもなく、温度である。歯磨きを終えて、口をゆすぐとき、彼女らはいつも熱湯でうがいをしているようなのだ。

 

 給湯室の蛇口はレバー式で、レバーを左に寄せればお湯が、右に寄せれば水が出る仕組みになっている。彼女らは明らかに意識してお湯を選択している。そのことは、レバーをあらかじめ右に寄せておくと、わざわざ左に直してから使う様子が見られる点からも明らかだ。何度試してもお湯を出す。これはもう「たまたまお湯を使ってるだけなのです」などという言い訳は利かない。

  それも、ぬるま湯ではない。レバーを一番左に寄せたときに出るお湯というのは、そうだと気づかずにふれるとおもわず「熱ッ!」と手を引っ込めてしまいたくなるようなお湯、つまり、熱湯なのだ。「冷たい水でうがいをするのは冷たいから」などとは言わせない。それならばレバーを真ん中に寄せて、ほどよくあたたまったぬるま湯を使えばいいのだ。

 さらに、ひとりではない。毎日さまざまな行員さんと給湯室をともにするけれど、みんながみんなお湯にする。

 

 …いったい…なぜ?うがいは水でするものだとおもっていた。そりゃ、冬の朝いちばんで蛇口から出す水は冷たくてキンキンするけれど、それでもお湯でうがいという選択肢は私にはなかった。それも、熱湯だというのだ。給湯器でお湯を沸かすには時間がかかるし、熱湯…の、のどをケガするのでは…?

 

 それでも私は、彼女らに熱湯でうがいをするわけを聞くわけにはいかない。考えてもみよ。まぬけな顔で「どうしてお湯でうがいするんですかー?」などと聞いたところで、逆に「じゃああなたはどうして水でうがいするんですか?」と聞き返されてしまったら?

 私が水でうがいをするのは単なる習慣に過ぎなくて、したがって、彼女らのその質問に対する答えを私は持っていない。そんな私が彼女らに「どうしてお湯でうがいするんですかー?」などと聞く権利があるのだろうか。私だって、水でうがいをするもっともな理由なんてないのに。

 

 

 歯みがき道具を持って給湯室に行くと、シンクの前に見慣れた制服の背中が見えた。今日は先に給湯室で歯を磨いているパターンだ。意識して足音を立てて、給湯室に入っていく。静かに近づいて歯みがきが終わるのを背後で待っていて、驚かれることがしばしばあるからだ。不審者扱いされてはたまらない。わざと立てた足音に気がついた行員さんは「ふみまへ~ん」と言ってシンクを譲ってくれる。レバーは今日もぎりぎりまで左だ。

 

 

 水でうがいをするのに理由はない、と言ったのは、うそだ。あるとき歯医者でこんな話を聞いた。水でうがいをしてしみるなら虫歯がある。お湯でうがいをしてしみるなら虫歯があって、その歯の神経はすでに死んでいる。お湯でのうがいがこわいのは、神経の死んだ歯に気がついてしまうのがおそろしいからだ。

  でも、それはまちがっている。虫歯で神経の死んだ歯があるならば、一刻も早く気がついて治療をすべきである。水でうがいなんてしている場合じゃない。むしろじゃんじゃんお湯でうがいをして虫歯に気がつくべきなのだ。そのことをわかっていながらお湯うがいを避ける私は愚かとしか言いようがない。

 だから、お湯でうがいをする行員さんに「どうして水でうがいをするんですか?」と尋ねられても答えられないし、そんな私に彼女らのお湯うがいを糾弾する権利は、ない。

 もやもやした気持ちを抱えながらこれからも私は、もくもくとレバーを右になおし続ける昼を続ける。