モリノスノザジ

 エッセイを書いています

季節が足りなかったので

 地元LOVEとかそういうわけではないんだけれど、というか、どちらかと言うと地元を捨ててこんなところまで来てしまった立場ではあるのだけれど、一人暮らしをはじめてから10年以上もの間、冬は必ずインスタント味噌煮込みうどんを常備している。野菜もたっぷりとれて、あったかくて、最高なのだ。インスタント味噌煮込みうどんも赤味噌もないときには、白味噌で煮込みうどんをつくる。大根を透きとおるまで煮込んで、白ごまを散らすのがいい。赤味噌でつくる見込みうどんとは一味違ってやさしい味わいで、具合の悪いときに食べたくなる。

 

 地元LOVEとかそういうわけではないんだけれど、無性に鬼まんじゅうが食べたくなることがある。「おにまんじゅう」とタイプしてもまともに変換されないこの食べ物は、どうやら東海地方のごく限られた地域でしか食べられていないらしい。簡単につくれて、鬼ウマなのに、もったいない。地元を離れれば地元が恋しくなるものなのか、子どもの頃はなんとも思っていなかった鬼まんじゅうがこのところひどく恋しく、この間の日曜日にさつまいもを刻んでせっせとこしらえた。鬼まんじゅうは出来立てよりすこし冷めたくらいがちょうどいい。

 

 

 一人暮らしをしていると言うと「料理するの?」なんて聞かれて、料理はするわけだけれども、それから「料理うまいの?」と聞かれると悩んでしまう。料理がうまいとはなんだろう?つくったことのある料理はいくつもあるし、だし巻き玉子も三回に二回くらいの割合できれいに巻ける。唐揚げが生煮えだったこともないし、緑色のポテトサラダをつくったこともない。だいたいの料理はレシピをみてそのとおりにすればつくることができるから、いままでにつくったことのない料理もきっとつくることができるだろう。でも、それが料理が上手ってことだろうか?

 

 一人暮らしを始めて、初めて買った料理本では満足できなくなったころからずっと、小さな疑問を感じていた。幼いころには確かに「料理の下手な人」というのがいて(祖母のことだ)、そうはなるまいと思っていたのだけれど、いざ料理にトライしてみればなんてことない。手順どおりにつくっていて極端に飯がまずくなることはないのだ。レシピを見ないとつくれないうちは半人前とか、自分の味がないうちは他人の料理をつくっているだけとかそんなことを言われるかもしれないけれど、でも自分なりに満足のいく料理をつくっているのだ。何が悪い。

 

 

 そんななんとない心のくすぶりを払ったのは、ひとつの桃だった。桃。学生のご身分で食べるにはけっこうなぜいたく品、というか、果物全般がお高い。社会人になって数年間働いて、経済的にやや余裕ができるまではバナナしか食べたことがなかった。だから、桃を初めて買ったときのことはよく覚えている。それに、桃を初めて買ったときのことをよく覚えているのは、それが特別な桃だったからだ。

 

 桃の品種はよくわからないけれど、乳白色で産毛の生えていて、ほんのり赤身のある平凡な桃だった。平凡な桃らしく、平凡においしかった。でもそれはとてもおいしかった。その時期は桃が旬で、だからだと思う。そのとき私は、旬のものを食べることのすばらしさをはじめて知った。

 

 それまでの私は、どちらかと言うと旬なんて意識していなかったと思う。料理を始めたばかりの頃はとにかく食べられるものをつくるのに精いっぱいで、季節なんて関係なく、料理本の1ページ目から順番につくれる料理を増やしていった。もともと魚介類は苦手で、季節によって店頭に並ぶ魚が違うなんて気づきもしなかったし、だいたいの野菜はスーパーで一年中買うことができる。多少値段が変わるということはあるかもしれないけれど。私はレシピを見ればだいたいの料理をつくることができたけれど、私の料理には季節がなかったのだ。

 

 それ以降、旬のものをできるだけ食べてみようと思いながらスーパーを歩いてみる。桃や梨、りんごにぶどう。サンマ、ブリ、鮭にいくら。アスパラ、キャベツ、菜の花、白菜。前までは気がつかなかったけれど、旬のものはおいしいうえに安い。これまでに食べたことのなかったものも、たくさん食べるようになった。いいことしかない。今はちょうどさつまいもも旬で、つまるところ鬼まんじゅうの旬でもある。日曜日につくった鬼まんじゅうの最後の一個を噛みしめる。この鬼まんじゅうはちょっと失敗した。またつくってみなければと思う。旬が料理を手伝ってくれる間に。

 

今週のお題「いも」