モリノスノザジ

 エッセイを書いています

もう子どものままじゃいられないのよバウムクーヘン

 5年前に別れた恋人から連絡がきたのは、三日前のことだった。なんでも用事があって近くまでくるんだとかで、地元で有名な酒蔵の日本酒をおみやげに買ってあるだなんて言うので時間をさがして少しだけ会うことにしたのだ。

 待ち合わせをしたのは、駅ビルのなかのカフェ。まだ付き合っていたころに何度か行った。別にその頃のことを思い出したかったわけではないけれど、かと言ってほかにしゃれた店を知っているわけでもなく、まあその店がしゃれているということもなくただのチェーン店のカフェなのだけれど、遠くまで出る時間もないというので半ば投げやりな感じでその店を選んだのだ。

 

 友人との待ち合わせまでの間、どこかで時間をつぶせる場所がないかと調べてみたら、コーヒー屋があった。市内にいくつか店舗のある、チェーン店のカフェ。言われてみれば名前を聞いたことがある気もする。

 余裕があれば軽くなにかをつまみたいような気もして、どんなフードがあるか調べてみる。カツカレーにミートソーススパゲティ、ハンバーグドリア。いや、そこまで食べたいわけじゃないのだ。ええと、コーヒーゼリーにわらび餅。それはちょっと物足りないかな。待ち合わせ前にチョコレートサンデーなんて気分でもないし…あ。

  

 アメリカンにバウムクーヘン。それが、ふたりで入るときに恋人が頼むお決まりのメニューだった。

 ただ、ふつうのバウムクーヘンじゃない。この店には二種類のバウムクーヘンがあり、ひとつは、バウムクーヘンに珈琲焼酎をしみこませた「大人なバウムクーヘン」。もうひとつはというと、もちろん「子どもなバウムクーヘン」…ではなく「大人じゃないバウムクーヘン」だ。

 恋人はこのちょっとひねくれたネーミングをおもしろがっていつも大人じゃないバウムクーヘンを頼んだ。あまいよ、大人じゃないバウムクーヘンだから。この端っこだけでもこんなにあまい。そう言って、ちぎったバウムクーヘンのかけらを分けてくれたこともあった。

 

 久しぶりに会った元恋人は、なんだか顔がすこしだけ四角くなっていた。髪を染めていた。挨拶を交わしお互い変な感じになってから、どんな話をしたらいいのかわからなくて、そういえばカフェの前で待ち合わせをしてたんだと気がついてとりあえず店内に入った。

 席に座った彼女が、メニューを見ながら、なつかしい、だとか、来る途中の電車が混んでたのだとか話している。「仕事はどう」と切り出して、それがミスチョイスな話題だったとすぐに気がついた。彼女は、うーんとか「ふつう」みたいなことを言って、注文をするために店員を呼んだ。

 

 店員が運んできたアメリカンコーヒーを飲みながら、彼女は、家族のことや、趣味で通っている料理教室のことを話した。夫がいつも靴下を丸めたまま洗濯機に入れることとか、料理教室で知り合ったおばあさんに手作りの味噌をもらったこと。僕は、気がついたら仕事のことしか話すことがなくて、残業ばかりでなかなか定時では帰れないだとか、上司が気分屋で困るだとか、そんな、彼女にとってはどうでもいいことをぽつぽつと話した。

 

 コーヒーカップの底がうっすらと見え始め、お互いに話すこともそろそろみつけられなくなってきたくらいに、彼女が大人じゃないバウムクーヘンを頼まなかったことに気がついた。

 「大人じゃないバウムクーヘンは食べないの?」と聞くと、彼女は一瞬何のことだかわからないというような顔をして、やがて笑い始めた。「私たち、もう大人だよ」。何が、って、よくわからなかったけれど、「そっか」って言ったら、彼女は「好きだったのにね」と言った。

  

 紙コップから少しずつ温度が失われていくのを指で感じながら、そんなことを考えていた。大人なバウムクーヘンに大人じゃないバウムクーヘン、なんてメニューがあるカフェでは、このような男女の物語が展開されているのではないか。あるいは、大人なバウムクーヘンを食べたがる子どもとそれを阻止しようとする親との攻防だとか。いずれにしても私には縁遠い話だ。

 なんていう私は、そのカフェを向かいに見つめながらマクドナルドでホットコーヒーを飲んでいる。しかたがない。どうしてもポテトが食べたかったのだ。大人じゃないほうのバウムクーヘンにすら手をふれないまま、私はすっかり空になった紙コップをごみ箱に捨ててマクドナルドを後にした。

 

 

今週のお題「好きなおやつ」