モリノスノザジ

 エッセイを書いています

人生のおやつ

 髪を切るのはひと月半ぶりだ。久々にヘッドスパもお願いして、たっぷり3時間も美容室の鏡の前にいた。美容室の鏡はまるで魔法の鏡だ。最初に案内されてその前に座ると、そこにはボサボサで形のくずれたみすぼらしい私が映る。おかしいな?鏡なら朝家を出る前にも見たのだ。そのとき映っていたのはこんなみっともない自分じゃなかったはずなのに。と思う。到着したときの美容室の鏡は、手入れされていない自分の頭を普段よりひどいものに見せる。

 美容室の鏡はまるで魔法の鏡だ。シャンプーされ、カットされていくにつれて、鏡の前に座ったばかりのときとは見違えるようになっていく。髪がぴかぴかして、どういうわけかこころもち顔色もさっきよりいいように見える。目もきらきらしている。それにはもちろん担当の美容師さんの腕もあるのだけれど、美容室の鏡にはまるで魔法がかかっているみたいに、施術後の私をぴかぴかにする。今日も私は店に入る前よりふたまわりほど凛と、美少年みたいに仕上げてもらってから、美容室の鏡を後にした。

 

 担当の美容師さんは店長で、その店でも一番歴の長い、いわゆるカリスマ美容師だ。私の頭髪の手柄はすべて彼のものである。店長はカリスマであるがゆえに、複数の客を同時に接客することが多かった。よくあることだ。上手に予約内容を調整して、こっちの客にヘアカラーの薬剤をしみこませている間に、そっちの客の髪をカットし、もう一人の客はアシスタントが代理でシャンプーをしている、という具合に。

 

 「多かった」というのは、ここのところはそうじゃないこともあるからだ。鏡の前に座ってどんな髪型にしたいか話をして、シャンプーも、ドライも、ヘッドスパも、全部担当の美容師さんがやってくれる。そういえばここ何回かはアシスタントの若い美容師さんをあまり見かけていないような気もする。自粛期間の影響で、大幅に客が減ったらしい。そういえば、店内が少し寂しい。5月中はほんとうに客が全然来なかったらしく、「夜逃げしようと思いましたよ」なんて、笑っていた。けど、マスクの上の目は笑っていなかった。

 

 個人的に、髪は伸びれば切らなければならないし、外出自粛が呼びかけられているからといって簡単にセルフに切り替えられるようなものでもないと思っている。だから、美容院で客が激減したという話を聞いて驚いた。

 学校が休みになったり、リモートワークになって会社に出勤しなくなったりで、以前と同じような頻度で髪を切る必要がなくなった人もいるのかもしれない。あるいは、以前は「必要があって」髪を切る以外のリフレッシュの手段として美容院を利用していた客が減ったということなのかもしれない。それから、結婚式や入学式が開かれなくなって、着付けやヘアセットの機会が少なくなったとか。

 それでも、個人的には美容院はそう簡単に自粛できるようなものでもない。髪は切らなければならないし、こうしてときどき頭をもんでもらったりするのも気分転換になる。だからこそ、自粛ということで美容院を諦めてしまう人がたくさんいるということに驚いたのだった。

 

 美容院だけじゃない。家にいる時間が長くなって、スーパーとか、ドラッグストアのような生活必需品を扱う店で売り上げが伸びているのとは反対に、いうなれば、必ずしも生活には必要のない業種が苦しんでいるという。外食のお店とか、文化関係とか、観光業とか。いずれも、食べて寝るという人間の最低限の生活には必ずしも必要はないものだ。食事なら家で食べれるし、コンサートや演劇を観なくても生きていける。旅行も今は後回し。まるで、三食きちんと食べていれば必ずしも食べる必要はない、人生のなかのおやつみたいだ。そうやって「今は後回し」にするもののなかに、ある人の場合は美容院も含まれているということだろう。

 

 私は自粛生活で何を後回しにしてきただろう。そう考えると、そこまで我慢はしていないような気もしてくる。観劇や旅行はできなくなったけれど、家のなかから一歩も出なくたってそこそこ遊べる人間だ。こうやってブログを書いたり、ゲームをしたり、本を読んだり、歌を詠んだり。どれも一様におやつだけれど、家にいても食べられるおやつってことで我慢しなくて済んだ。自粛期間中もそれほどストレスを感じずに過ごせたのは、おやつを我慢せずに生活できたからかもしれない。

 

 そういえば、実際に食べる「おやつ」のことで言うと、2・3日前に食べるものを見直した。戸棚にいつもポテトチップスやチョコレートの買い置きがあったのをあらため、小腹が空いたときにはミックスナッツを食べるようにしている。ここのところマスクをつけっぱなしのせいか、肌が荒れているからだ。油分は肌によくない。ということで、大好きなポテチをあきらめて、泣く泣くナッツを食べている。

 正直なところ、ポテチが食べたくて仕方がない。今日は3回くらいポテチが食べたくなって、そのたびにぐっとこらえてナッツを噛んだ。このナッツというのがまた、塩っけすらない素煎りのナッツで(食塩も健康によくない)、あのしょっぱいポテチの代替品にはなりようもない。…と思っているのに、ナッツを食べ始めたらそれはそれで止まらなくなる。ナッツも意外とおいしい。

 

 「おやつ」は無駄なもの、必要のないもの、大人は我慢しなくちゃいけないもの、ダイエットの天敵、なんて言う人もいるかもしれないけれど、そんなことはない。おやつで気持ちが癒されたり、リラックスすることだってある。美容院でヘッドスパをしてもらうとか、コンサートに行くというような、食べて寝るだけの最低限の生活からははみ出るような楽しみも同じ。必ずしも必要ないなんて言っても、私にとっては食事と同じくらい大切なものだ。

 

 いつか、自由に外へ出かけて、自由に好きなことを楽しめる日が来るのが楽しみだな。当たり前に好きなことができたあの頃と違って、今の私は今はできなったおやつたちのおいしさをあの頃以上に知っていると言ってもいいかもしれない。もちろん、コロナだからって全部が全部諦めなくたっていいと思う。好きなことをするのは大事なことだ。ただ、今はいつもより気を付けなければならないことが多いというだけで。

 それに、たとえ今はそれを我慢しなければならないとしても、世界にはほかにもいろいろなおやつがある。家で楽しめることもたくさんある。これまで食べたことのなかったおやつを試してみたい。おいしいものが人生に増えたら、きっと今まで以上に楽しくなる。