モリノスノザジ

 エッセイを書いています

世界がうまれるところを見た

 おそるおそるという感じだった。映画や演劇を観た日には日記を書くようにしていて、だから、私の日記は2月28日からずいぶん長い間新しい文字が書かれずにいた。新型コロナウイルスがだんだん危機感をもって受け止められるようになってきたころで、それでも予定どおり観客を迎えた劇場では、スタッフがアルコールスプレーを持って出迎えた。観客には、マスクをしている人もしていない人もいた。客席は満席だった。幕が開くまでの間、役者が舞台の上で正しい手洗いのしかたについて説明していた。帰宅してTwitterをひらくと、その日見た公演が残り数回の日程を残して中止となったと知った。

 

 劇場で演劇ができない、それも、いつまでなのかもわからない。そんな危機感からだろうか。自粛期間がはじまると、動画サイトで過去の公演の記録映像などを無料で公開する劇団が出始めた。ほかにも、ネット上でのリーディング配信や、zoomを利用した演劇の試みだとか。まるで「演劇のことを忘れないで」って言ってるみたいだった。

 けれど、リーディング配信も舞台の記録映像も、劇場で観た演劇とはまるで別物のように思えた。それは、配信された記録映像がもともとそれ用に撮られたものではない、といった事情なんかもあるのかもしれないけれど、そうじゃない。もっと重要ななにかがあるような気がして、自粛期間中のそれは、もはや遠くなってしまった演劇を家でも楽しむ、というよりはむしろ、劇場で観る演劇をずっと待ち遠しいものにしたのだった。

 

 およそ5カ月ぶりの劇場で観る生の演劇は、やっぱり格別だった。人を感動させる芝居が人を感動させる理由のひとつは脚本のすばらしさかもしれないけれど、でも、それだけではない。ためしにいつか自分が観て印象に残った戯曲を文字で読んでみればわかる。もちろんそれはそれで素晴らしいのだけれど、でも、劇場で感じたすべてがそこにあるわけじゃない。

 

 演劇について書かれたものを読むときに、ときどき「役者の身体」とか「役者の身体を通して」とかいう言葉を見かけることがあって、私はそれがよくわからなかった。でも、今は少しだけわかる。紙の上に印字された単なる文字に過ぎなかった台詞が、役者の身体を通して声になり、時間的な幅を持つ。役者は舞台の上を歩く。身振りで表現する。そこには空間がある。時間と空間があるそこはもう、世界だ。私は、目の前で世界がうまれるところをみた。たった数メートルしか離れていない、確実に「ここ」と地続きのはずの舞台にひとつの「世界」が成立していること、そしてそれを目の前につきつけられていること。もしかしたらこれが演劇の力なのかもしれないと思った。

 

 きっとまだ私は演劇のすばらしさのほんの少ししかわかっていないのだろうけれど、目の前で演じられる演劇には、他の方法では実現できない素晴らしいものがたくさんつまっている。それは演劇だけがすばらしいというわけではなくて、それぞれの表現方法にはそれぞれのよさや得意技があり、演劇にもそれがあるというだけだ。けれど、こんな状況にあってそのどれもが、そして演劇も、ひどく苦しめられている。

 

 私が行った劇場では、観客と観客の間には前後左右に十分すぎるくらいの距離が取られていた。舞台と客席の間も3メートル近く離れていた。観客と接するスタッフは必要最小限で、受付では全員が手指消毒をして連絡先を紙に書いた。

 新型コロナウイルスがいったいなんなのか、どうすれば防げるのか、完全なことなんてだれにもわからないまま、それでもいまできる最大限のことをして立ち上がろうとしている人たちがたくさんいる。何が正しいのか私にはわからない。けれど、私たちがこのウイルスを克服した世界に、演劇やそれ以外のすべてが残っていてほしいと思う。私は演劇も映画もアートも何もかも、そのすばらしさの、ほんの少ししかわかっていないから。