モリノスノザジ

 エッセイを書いています

呪いと呪い

 私には呪いがかかっている。カレーライスの玉ねぎを、とろとろになるまで炒めずにはいられない呪いだ。この呪いにかかると、カレーライスをつくるときに玉ねぎがとろとろになるまで炒めずにはいられなくなる。…まあ、それはそれでおいしいからいいんだけど。

 

 何日か前に(もしかしたらだいぶ前かもしれない)、Yahoo!ニュースでこんな記事を見た。子どもに「うちは貧乏だから」と言ってお菓子を我慢させ続けた結果、子どもが自分の家庭は本当に貧乏なんだと思い込んでしまう…みたいな感じの記事だったと思う。なんだかとてもよくわかる。私もそうだったからだ。

 スーパーでお菓子を買ってもらうときの決まりは「100円まで」で、その理由は「うちは貧乏だから」だった。そう言われた私は本当にわが家が貧乏なのだと思い込んで、無理にお菓子を買ってもらおうとはしなくなった。それはもしかしたら私が特別信じやすい子どもだったからではないか、と思うこともあるのだけれど、記事になるくらいだからきっとよくあることなんだろう。大人がちょっとした気持ちで言ったことが、子どもの心にずっと残り続けることってある。

 

 子どもの頃に経験したこと、親からかけられた言葉は成長してからの人格形成に影響を及ぼすなんて言うけれど、本当だなあと感じることがときどきある。ひとりでニンジンを剥いていてけがをしたからピーラーがまだなんとなく苦手だとか、「あんたはお尻が大きい」なんて言われたのをずっと気にしていたりとか。本人はきっとそんなこと言ったっけ?って感じなのだろうけど、子どもの心にはずっとずっとそれが残り続ける。そして、大人になってからもなんとなくピーラーが苦手だなあとか、ぴったりしたタイプのパンツは買えずにいたりするのだ。

 

 小さいころから私と妹には担当の色が決まっていた。私が青で妹がピンク。洋服も、筆記用具も絵具セットも、ずっと私が青で妹がピンクだった。ピンクがかわいい、なんてそのころに思っていたわけでもないけれど、なんとなく私にピンクは似合わなくて、なんとなく私は青が好きなような気がしていた。いまどき男性だってピンクを身につけるのは珍しくないのに、私がピンクを着られるようになったのは20代も終わりに近づいてからだった。ためしに身につけてみたピンクのシャツは想像していた以上に私に似合って、ピンクがダメ、なんて思い込みは幼いうちにかけられたただの呪いだったのだと気がつく。

 

 この種の暗示は自分でかけてしまうこともある。あ、あの髪型いいな、ああいう服着てみたいなと思っても、でも自分には似合わないだろうなって諦めてしまったり。長年見続けている自分のことだけど、思い切って新しいものを試してみたら意外と似合うことだってあるのに、無意識のうちに自分で選択肢を狭めてしまっている。

 

 カレーライスの玉ねぎをとろとろになるまで炒めずにはいられないというのも、私が親からかけられた呪いだ。と言っても、なにもカレーの玉ねぎに芯が残っているから叱られたわけじゃない。玉ねぎはとろとろがいいのよ、と毎晩寝床で言い聞かされてきたわけでもない。一人で留守番をした12歳のある日、カレーをつくっておくよう母親に頼まれた。カレーをつくるのは簡単だった。校外学習でつくったことがあったから。だからそれはこれといってたいしたことのない「お願い」だったのだけれど、家に帰ってきた母親はとても喜んで、「玉ねぎがとろとろになるまで煮込んでくれたんだね」と言った。

 たぶん私はうれしかったんだと思う。だから、今でも私は無意識のうちに玉ねぎをしっかり炒め、玉ねぎをしっかり炒めている自分に気がついてあのときのことを思い出すのかもしれない。褒められた思いでなんだから、これは呪いじゃないのかもしれない。怒られたり否定されたりするのとは反対に、大人に褒められたことも子どもはしっかり覚えていて、ずっとずっと持ち続けるのかもしれない。

 

 でも、本当にこれは呪いではないのだろうか。私はきっとこれからもカレーをつくり続ける。趣味とちがって食べることなので、それこそ十年や二十年先でも平気でカレーをつくっている。順番で言えば、そのうち母親が亡くなるときが来るはずだ。それでも、12歳の私が言われた言葉は私のなかに残り続けて、私はやっぱりカレーをつくり続ける。そして、玉ねぎをしっかり炒めている自分に気がついたとき、あの言葉と、母親のことを思い出すのだ。それは私が死ぬまで何度だって繰り返される。やっぱり、これは呪いじゃないだろうか?

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 ところで、このブログに最初の記事を投稿してからまる2年が経ちました。今日から三年目です。なんだかもう5年くらい書いているような気もするけれど。3年目もよろしくお願いします。