モリノスノザジ

 エッセイを書いています

あなたが運命の人じゃなくても

 何度寝返りをうっても眠れない夜に、唐突にその人のことを思い出した。久しく会っていない。…ああそうか、会っていない長さなんて関係ないんだ。私とその人とはなんの関係もなくて、ただ私が一方的に仲良くなりたいと思っていただけだったのだ。大学を卒業して、私はそれまで住んでいた町を離れた。もうあの町に用はないし、なにかの拍子にその人とどこかで出くわすこともない。この広い世界にとてもたくさんの人が生きていて、その人はそのなかで数少ない「私が知っている人」だけれど、ただそれだけだ。時間も空間も離れた場所にいて、私たちはきっと、これからもずっと、無関係のまま生きていく。

 

 私がブログを書くのはいくつか理由があるけれど、ひとつに、私は見つけてほしいのだ。私は遠くまで行けないけれど、このブログはインターネットでどこまでも届く。たくさんの人が読んでくれなくてもいい。ただ、何かの拍子にその人がこのブログを見つけてくれたらすごくうれしい。その人に限らず、今は連絡を取り合っていない昔の友人とか、尊敬している誰かがこのブログを読む可能性もある。私は正面から誰かに声をかけられるほどの自身がないから、こうやってちいさなちいさな炎を飛ばしつづけて、誰かにそれを見つけてほしかった。そしてできれば、その火をたどってここまで、来てくれればいいのになんて、都合のいい夢を見ていたんだ。

 

 なにかに気を取られていたような感じから覚めてふと手元を見ると、泡まみれの食器がシンクに広がっていた。スポンジを掴んで、フライパンを擦っている。ああそうか、さっきまで私は食事をしていたんだ。顔を上げると部屋の隅にテレビが灯っていて、「ためしてガッテン」の再放送が流れていた。ひととおり皿を泡のスポンジで洗ったあと、蛇口をひねって水で泡を流していく。もう何回も見た再放送みたいに見飽きた動作を今日もまた繰り返して、次のルーティンに移っていく。

 ルーティンは嫌いではない。むしろ、毎日決まったことを繰り返すほうが精神的に安定する。ひと月くらいなら同じものを食べ続けても気にならない。ただ、ここのところの日々はあまりにも単調な繰り返しのように思えてときどきうんざりする。

 

 私は「物語」を信じていた。大きくなったら好きな人と結婚して家庭を持つという「物語」。高校卒業後は大学に進学して、会社に就職してバリバリ働くんだという「物語」。生きていれば自然に、そういった物語の結末が私にも訪れるのだと思い込んでいた。「物語」の結末の先がどんなだなんて、考えたこともなかった。考えたとしても、やっぱりその先も「物語」だったのだ。『アナと雪の女王』の続きに『アナと雪の女王2』があるみたいに。

 だけど不思議なことに、私に「物語」は訪れない。もしかしたら今が物語の途中なのだろうか?いや、そんなことは聞いていない。毎日適当な食事をして、皿洗いを続ける日々が物語の途中だなんて。物語なんてなかったのだ。結婚しても就職しても日々は続いていく。そしてその日々は、決して物語に描かれるような輝かしいものばかりではないのだ。皿を洗ったり、汚い靴ひもを結んだり、くたびれてぐったりして早めに布団に入ったり、そういうことで日々はできている。本物の人生のどこにも物語はない。物語の主人公みたいに、運命の出会いを果たす―――ずっと会いたかった人と運命的な再開を果たすだなんてこともきっと、ないのだ。

 

 そういうわけで私は、洗濯物を干したりTSUTAYAで借りた旧作100円の黒澤明を見たりして今日一日を過ごした。風で窓の外に飛んで行った洗濯物をひろってくれた美少女と恋に落ちるなんてことも、TSUTAYAの店員と意気投合してバンドに目覚めるなんてこともない(そもそも無人レジだったのだ)平凡な一日だ。ただただ運命じゃない人たちとちっとも物語じゃない人生を過ごしていて、きっとこのブログを読んでくれている人にも「その人」はいない。

 

 だけど―――不思議だ。どうでもよくなっていた。私が書いた記事にコメントをくれる人がいたり、Twitterで絡んでくれたり。こうやって読んでくれているだけでも。あなたは、全然運命の人なんかじゃないはずなのに、いつの間にか私は、ずっと会えない「その人」じゃなくて、現にここにきてくれているあなたのことを考えてブログを書いている。

 

 運命ってなんだろうか。運命はきらきらしていて、ずっとほしかったもので、でもその実、私はそこに中身を見ていなかった。現実はちっとも運命的じゃなくて、ドラマチックでもなくて、思い描いていた「物語」の結末を私は迎えられそうにない。それでもこの日々は…って思って、私はその先をうまく説明することができないんだ。