モリノスノザジ

 エッセイを書いています

はげとアイプチ

 電車のなかでは、わりあい人がよくみえる。うかつなおねえさんの胸元も、あやういおじさんの頭頂部も、窓ガラスの闇に映ったスマートニュースも、吊革の下からはいろんなものがよく見える。

 

 彼女はロングシートのなかほどに座って、マスクの前に構えたスマートフォンの画面に夢中になっていた。たくさんの人がひしめく朝の電車のなか、彼女に目をとめたのは、彼女がとっても―――下手だったからだ。化粧がである。肝心の顔はマスクで半分隠れているというのに、それでもそうとわかるくらいに化粧がうまくない。大学生だろうか。オレンジがかった髪はパサついて頭は分け目がわからないくらい乱れていて。いったん抜いた後に描かれた眉は左右非対称でのっぺりとしていて、目の下には不似合いなシルバーのアイラインがぎらぎら光っている。なにより目についたのは二重のこと。アイプチでむりやり二重にしているのがまるわかりで、こういうときはいけないと思いつつもついじっくりと見てしまう。

 

 二重になろうとアイプチに手を伸ばす世の女性たち(男性も)につたえたいことがある。アイプチでつくった二重というのは、案外バレるということだ。しかし、アイプチをつかって巧妙に仕立てられた二重に私が気がついていないことを考えれば、アイプチでつくった二重はバレるというのはすこし間違っている。むしろ、アイプチでつくった不自然な二重はすぐに目につく、と言ったほうが正しいかもしれない。まぶたが引きつっていたり、アイプチでつくった溝に化粧の粉が溜まってヨレて見えたり、アイプチで不自然な二重をつくるくらいなら素のままの目のほうがマシ…と思えることすらある。

 

 二重まぶたに憧れる一重の民の心情は、わかる。私自身、二重まぶたにあこがれてあれこれ試したことが、これまでに何度もあるからだ。爪でまぶたをなぞって癖をつけようとしたり、やたら高速なまばたきを習慣づけようとしてみたり、二重になるマッサージをやってみたり。

 そうした試みの結果、ときにはそれらしいところへ近づくこともあるのだけれど、どういうわけかたいていどうもしっくりこない。やたらきりっと昭和の男前フェイスになったり、反対に過剰に繊細そうな顔になったりと、自分が望んだ二重にならないのだ。一重の自分を見慣れているがゆえの違和感なのかもしれない。

 けれど、そうやって二重にあこがれては失望して(?)あきらめたりどうでもよくなったりしているうちに「でも、一重でも全然よくない?」と感じるようになってきた。アイプチはまだ試したことがないけれど、不器用な私が試すくらいならきっと、一重のままでいるほうがずっと見られる顔なのだろう。

 

 ひと駅、ふた駅と彼女をみつめているうちに、またひとつあることに気がついた。これは、もしかすると…いやおそらくきっと。分け目がぼかされて不自然に散らかった頭頂部。よくみると、つむじのあたりにしろい頭皮が透けている。髪質によってつむじの頭皮がよくみえるというのはよくあることで、たいていの場合私はそれを好ましく受け取るのだけれど、こんなふうに隠されてしまってはいただけない。どうしてこんな髪型を?と思いつつ眺めていたそれは、もしかしたらそのやたらとしろい頭皮を隠すためのものなのかもしれない。

 そのことに気がついたとき、私はなんだかとてもかなしい気持ちになった。彼女が一重で、はげているからではない。彼女が一重ではげていることを、こうやって隠してごまかしていること、その事実がこのうえなくかなしいと感じたのだ。

 

 実際のところ、たしかに、薄毛は目を引く。彼女のような年ごろの女の子となればなおさらだし、彼女のような年ごろの女の子がそれを隠したいと思うのもしかたのないことだ。彼女は毎日鏡に向かって、プッシャーで重たいまぶたを押さえつけ、髪を分け目と逆方向に整える。似合わない流行りのメイクをする。そうするときの彼女にはきっと、そこにはいないだれかの姿がみえていることだろう。大学の友達、先輩、バイト先の仲間。そんな他人の姿を思いうかべて彼女は二重をつくり、はげを隠しているのだ。

 

 よくみると、膝で抱えた大きなビニール袋。中身はなんだかわからんが、サークルで入り用になった何かをひとりで買い出しに行ったりなんてしてないだろうか。「いいよいいよ、うちホムセン近いからさ」なんて、アイプチしてはげを隠すような女の子は、そうやってやらなくてもいいことをひとりで引き受けてしまうものなのだ。

 

 彼女は同じ駅で降りた。たくさんの乗客が降り、たくさんの乗客が乗り込む大きな駅で、彼女の姿はすぐにみえなくなってしまう。彼女はあの大きなビニール袋を抱えて、だれかのもとへ向かうのだろう。その人のために二重をつくり、はげを隠す人のところへ。

 彼女に関することはぜんぶ私の思い込みである。そして、そんな勝手な思い込みを私がはずかしく思うくらいに、実際の彼女がしあわせであったらいいのにと思う。